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第十五章:百年の契約

 貴族の噂は残酷だった。今やどこの茶会でも「無能な王太子」と囁かれた。

 かつて彼の背を支えた重臣たちでさえ距離を取り、判断を露骨に疑うようになった。


 それでも彼の周囲に残った者たちがいた。少年期から共に育った乳兄弟の側近――ユーインもその一人だ。

 ある夕刻、ユーインは人気のない回廊で直言した。


「殿下、先の会議の施策はオリヴィア殿のやり方を踏襲すべきです。新しさで自身の名を飾るより、まず基盤を整えるべきです。でなければ民からの信頼を得ることは難しいと……」

 アルヴェインのこめかみがぴくりと動く。

「俺に説教か、ユーイン。」

「殿下、私は……。いえ、しかしオリヴィア様を否定するために新しさばかりを求める“今の殿下のやり方では”いずれ民や臣から不満が出る”と……。」


「黙れ‼︎俺は俺のやり方でやる」


 数日後、ユーインは辞表を置いて去った。

 短い一文――“殿下の御健勝を祈る”と書かれていた。


 扉が静かに閉まった音は、妙に大きく響いた。胸の奥に、何かが抜け落ちる感覚が残る。だがアルヴェインは、その穴を覗き込まない。

 ――裏切ったのはユーインだ。忠臣に必要なのは、王太子を支える力だろう。オリヴィアオリヴィアと、俺を否定しやがって!


ーーーーーーーーーーー


 アイラを推す派閥はしたたかだ。アルヴェインを支持しているように見せて、自分たちへの利益の獲得に余念がなかった。


「殿下、殿下のアイデアは斬新で素晴らしいものでしたのに…!」

「ええ全く。古い方々には理解ができないのでしょう。」

「殿下、アイラ様をそろそろ正式に妃に。ご決断ひとつで、支持は盤石になりましょう。アイラ様はますます社交に勤しみ、ご親交も増えているとか」

「民は象徴を求めております。彼女ほど適う者はおりますまい。民の意見も数が集まれば、無視できませんぞ」


 ――盤石。

 その語が、焦燥に駆られた胸に深く刺さる。今の彼が欲しているのは、絶対的な後ろ盾だった。

 彼は仰々しい決裁印を捺しながら思う。

 ――力が要る。人心は移ろう。ならば揺れぬ力を。


その“強い欲望”は、ある存在を呼び寄せていた。


ーーーーーーーーーーーーーー


 夜、その日の何一つ上手くいかない出来事を思い出して、アルヴェインは拳を握り締めた。

 王家の紋細工が刻まれた指輪の縁が皮膚に食い込む。


「……力が要る。どんな手を使ってでも」


 その決意は、彼をある場所へと歩ませる。アルヴェインの意識は酒に酔ったように朦朧とした。


 いざという時のため用意された、王城の地下回廊。

 今や誰も知らぬ出入りの道。

 低く囁く声が、彼の耳に甘く触れる。


 盤石――その言葉が、再び胸で響いた。

 アルヴェインは、静かに笑った。

ーーーーーーーーーーーーー


 夢うつつに足を運び、ふと意識が鮮明になった。

 「……?、ここは? 俺は、一体」

 過去に封じられた儀式場でアルヴェインは権力と謀略の悪魔ヴァルドと対面した。


 ヴァルドは軍人のような直立不動で、暗い色の外套を纏っていた。引き結ばれた唇や、執事にように整えられた灰白色の頭髪、無表情ながら落ち着いた佇まいから敵意も媚びも感じなかった。


 海底のような碧い瞳だけが燭火に当たり虹色に揺らいでいたが、正面からアルヴェインを見つめていた。


 アルヴェインが唯一無条件に誇れる美貌を脅かすほど、整った顔立ちの男だった。

 それでもアルヴェインは腹が立たなかった。久しぶりに馬鹿にされない視線だったからかもしれないし、アルヴェインの術中にあったためかもしれない。


 「正しい王位継承者たる殿下に、百年前の記録をご覧にいれましょう」

 古い机上に広げられた羊皮紙は、王家の宝庫にもないはずの記録書だった。墨ともインクとも異なる何か黒いもので記された誓文、薄れた権能印、余白に細かな供儀の手順。


 ――繁栄の代償は、未来。

 ――贄に希望を担う命を捧げよ。

 喉が鳴る。指先が冷える。


 アルヴェインは、オリヴィアにこそ及ばず、焦るほどに成果が出ない愚か者だ。

 だが王太子を降ろされない程度には、オリヴィアと張れると思い込むほどには、知識があった。

 ゆえに理解できてしまった。


「……父上は、これを知らなかったのか」

「隠蔽ですよ。恥は継承されない。王家は形だけの善を掲げ、汚れた記録は忘却へ投げた」


 ヴァルドの声は低いが、よく通る。

「殿下、昨今の国の翳りはこの契約のためです。百年の繁栄が終わるため。殿下の代で新たな契約を。次の百年を。子らの静けさと引き換えに、王国を再び…。」

 ことさら事務のように述べる言葉が、それしか道がないかのように説得力を持たせた。


 アルヴェインはヴァルドの身分を質したが、ヴァルドは事務的な口調のまま堂々と、王太子にも言えぬ立場だと言った。


「過去、この言えぬ記録を封じる際に、いずれ真実を知る者が必要とされることがあると、そうして残った者です。王家の意向に背く者ですから…。」


「そうか…。」

視線を落とす。書類が全て本当であることは、王家のものしか知らぬ印と、そこに通う魔力の筋によって理解していた。


ヴァルドが用意したものは本物だった。


 この血塗られた記録を見て、アルヴェインはただ”どうしたら自分の手柄に出来るか“と考えた。

 盤石が欲しい。玉座に自分の姿を縫いつけたい。自身の名を後世まで残したい。


「……次の百年の儀式の方法は?」

「簡明です。子らを“静め”、贄と引き換えに魔界の門を開き、悪魔に願う。陣はこちらを……。王家が行う神事の陣を考えれば、さして複雑なものではありません。

ただ上位の悪魔を喚び出すために敬称や偉業の記載と、贄の多さが必要です。」


 「子供を捧げて、この手順通りに儀式を行えば、百年の繁栄が約束されるのだな。」

アルヴェインの瞳には、繁栄の国を治めた名君と呼ばれる自身の姿しか映っていない。歪に輝く瞳を眺めながら、ヴァルドは言う。


「過去、その通りになっております。百年間、常に魔力の供給を受け、繁栄する代わりに、常に“わずかな”犠牲が必要にはなりますが……」


 ヴァルドは「必ず成功する」とは言わない。まして自分が悪魔だとも契約するとも言わず、ただ、わずかに頭を垂れる。


 アルヴェインの頭の中でだけ、確約された輝かしい未来が広がっていた。


(これで、百年は俺のものだ)


ーーーーーーーーーーーーーー


 翌日、極秘会議が行われた。

 アルヴェインはヴァルドから受け取った“証跡”を携え、父王とごく少数の重臣に古の契約を示した。


 そしてこれからの儀式に必要なモノも。

 すべての書類は周到に準備されている。アルヴェインが作成したとは思えぬ出来だが、アルヴェインの字にしか見えない。ヴァルドによって整えられたものだったが、アルヴェインは何も感じていない。


 周りは恐らく側近の誰かが上手く字を真似たのだろうと思い、それよりも契約の内容と国の崩壊が始まっていることで頭がいっぱいだった。


 王は長く沈黙し、額を押さえた。

「……我らは、こんなものの上に立っていたのか」

 王は国を、民を、彼なりに守ろうとしてきた。それでも空は晴れず、作物は立たず、子らの泣き声は止まない。

(このまま滅びを受け入れろというのか。しかし私の手で子供らを……)


 王は悩み、沈み、国家魔術師たちに口外禁止の重い約束をさせた上で、なんとか子供の贄なしで行えないかと訴えた。


何日も何日も一日中似たような会議を開きながら、遅々として進まないことにアルヴェインは苛立った。

「国が滅ぶというのに悠長な……。」


それはその言葉通りの意ではなかった。アルヴェインの頭にあるのは自分が認められる時期が遅れていることへの不満だけだ。


「お可哀想に……。王子様。」

ダンッ‼︎とアルヴェインは執務机を叩いた。


「口に気をつけろ!俺は王太子だ‼︎」

ヴァルドは深く頭を下げた。あの日以来、アルヴェインはヴァルドを秘書のように連れ歩いていた。


「王太子様……、私が世に疎いのは事実ですが、城内の者があなた様を王子と呼んでおりました。」

アルヴェインのこめかみに青筋が浮かぶ。


「何だと…。どこの者だ!」

「何しろ私は表に出ない者だったので、存じ上げず…。ただ、第二王子殿が王太子だと、今思えば不敬なことを申しておりました。」


「なん…っ‼︎」アルヴェインの唇はわななく。


ヴァルドは下げた頭で見えない位置で、白い歯を見せて笑った。


「王太子様、私には特別な力があります」

「何?」


不機嫌を露わにアルヴェインがヴァルドを見据える。


「人の意識を操れる。思いのままとはいきませんが、あなた様を地下にお招きしたように…ある程度は」

アルヴェインはギラギラと両眼を輝かせた。


「成程!……それで貴様は、貴様の血族は闇で生きていたのだな。そんな能力…まるで悪魔だ。

くく、王家の味方でいてくれて良かったよ。」


「それでは、王の意識を“結論を急ぐ”ように。」

「ああ!やれ!」


ヴァルドの瞳が一層煌いたのを、浮かれるアルヴェインは見ていなかった。

「ただしこれは願う者の対価が必要なのです。殿下、この能力は自分のためには使えません。」

「尚素晴らしい!それで何が必要だ?」


「願う者ーこの場合はあなた様の血を…勿論、今でなくても構いません。」

「後払いまで可能なのか。実に都合が良いな」

「恐れ入ります」


アルヴェインは知らぬ間に、恐ろしい契約を結んだ。

きっと女学生が恋の呪いに針で自分の指を突いて出す少しの血を想像したのだ。


古代魔術が失われて久しい現在では、通常の魔術で使用する血液、唾液、髪などは極めて少量だった。


(実に愚かな……今まさに悪魔と契約する大儀式を行おうとしているのに、何も気づかないとは……。)


 その日の午後、王は急に大祈祷という言葉を使った、大規模な悪魔召喚儀式の遂行を許可した。


「……大祈祷を許す。ただし可能な限り人ではなく代替で済ませるように。子供たちは”その時“まで丁重に扱うように」


 赤字で書き加えられた「暴力の禁止」という語を見て、アルヴェインは冷笑する。


「ヴァルド」

「はい」

人の手を経る度に、“うっかり”文字が消え、承認が飛ばされ、「子供が消える夜」を実行する者たちへの指示書に変わる頃には、誰にも見つからず、急ぎ子供を集めるようにとしか伝わらなかった。

ーーーーーーーーーーーー


 夜が来る。

 王都から夜灯が一つ、また一つ落ちた。

表向きには古くなった灯りの公共工事事業。


 「子供が消える夜」の噂を恐れた民家の戸口には、願掛け程度にしかならない、ひどく簡単な呪いの封じ紋が濃く押された。無事を願う祈祷の歌が歌われ、母たちは子供をかたく抱き寄せた。


 しかし、滅びへ向かう古の契約がー。

 子供の贄を捧げ続ける約束がー。

 国家魔術師と悪魔の知恵、玄人の工作員がーー民の努力を無意味にした。


 毎夜、子を想う母たちと、拐かされた子供たちの泣き叫ぶ声が響いた。


 豪華な私室。能力の向上と幸運を願う守りがそこかしこに置かれた王太子の部屋。

 アルヴェインは大きな窓の向こうを見下ろし、浅く息を吐いた。

(これでいい。繁栄の百年を得られれば、すべてが上手くいくだろう)


 背で薄い衣擦れの音がした。アイラがアルヴェインに並び、蛇のように指を絡める。

「殿下……。」


アルヴェインは舌打ちしたいのを押さえ、眉間の皺を鎮めながら振り返った。

「――ああ」

 短い返答。そこに宿るのは愛ではなく、自分を愛してくれる像がそばにある便利さへの頷きだ。



 同じ頃、王の執務室では老王が机に額を押し当てていた。

 (私は、何を許した)


何度も「やめろ」と言いかけた。

しかし百年の繁栄が得られるのならば一時の痛みは必要だと重臣の誰かが言った。


頭が内側から軋んだ。最近妙に頭が痛み、思考に膜がかかる。

 

 王は目を覆った。撤回の言葉は、いつも声になる前に頭の中で封じられた。

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