第十四章:王太子様
オリヴィアが王宮を去ってから、一月も経たない内に、政務机は山のような書類で埋もれていた。
アルヴェインはその山を前に、わずかに眉を寄せる。かつては、机の上がここまで散らかったことはない。――正確には、散らかる前にオリヴィアがすべて片づけていたのだ。
「……こんな細かい書類、いちいち俺が見る必要はないはずだろう」
独り言に近い呟き。側近たちは顔を見合わせ、誰も口を開かない。アルヴェインは苛立たしげに羽ペンを取るが、三行も読まぬうちに机へ叩きつけた。
「これは……どこまで処理して、どこからが未決なんだ?」
返事はなく、重く沈黙が降りる。やがて古参の文官が一歩進み出た。
「……その、殿下。これまではすべて、オリヴィア様が優先順位をおまとめになり、分かり易くご報告をくださっておりましたので……。」
室内の空気がさらに重くなる。アルヴェインは文官を睨みつけたが、心の底では痛いほど事実を認めざるを得なかった。
――自分は、ただ判を押すだけの王太子だった。
その「判」すら、オリヴィアの説明と誘導があって初めて正しく押せていたのだ。
補助輪を失った途端、失態は目に見える形で現れた。先日は外交文書の語句を取り違え、同盟国の使節団を怒らせたばかりだ。噂は宮廷を鼠を追いかける猫のように駆け抜け、重臣の視線は日に日に冷える。
決定的だったのは、過去にオリヴィアの働きを「自分の成果」として発表していた経緯が、複数部署から滲み出たこと。会議で老貴族が皮肉げに言った。
「殿下は、オリヴィア様を手放すには惜しすぎましたな」
同席の何人かは、あからさまに口元を押さえて笑った。
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アルヴェインには、忘れがたい劣等感の記憶がある。
まだオリヴィアが宮廷にいた頃、政務・軍務・財務――どの会議でも彼女は要点を一息で掴み、利害を整理して最短の妥当解を導いた。自分が追いつけぬ速度で、しかも淀みなく。
本来女人は参加できないはずの会議に、いつの間にか参加していた。いつの間にか王太子の自分よりもオリヴィアに向けてのお伺いが増えた。
“お飾りの王太子”という囁きが背にまとわりつくたび、彼は歯を食いしばった。
だからこそ、彼は「自分の色」を求めた。
――王太子たる自分の名を冠した成果を。
彼が強引に推し進めたのが、予言の乙女召喚だった。古文書の解釈は曖昧で、宮廷魔導院は慎重論を唱えた。
だがアルヴェインは承認印を早回しで集め、供犠を伴わない簡略儀式での試行を命じた。危険性を指摘する声には、重臣の交代をちらつかせて封じた。
――自分が起点だ。王国に新しい光を呼ぶのは、自分だ。
結果として現れたのが、見目は可憐な少女アイラである。
古文書の記載より能力はかなり低く測定されたが、儀式は辛うじて成功しとされ、彼はほっと胸を撫で下ろした。
功は自分に、運用は彼女に、細部は……そう、細部はいつもオリヴィアが整えた。その矛盾に、アルヴェインは気づくことが出来なくなっていた。
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端的に言って、アルヴェインはオリヴィアが嫌いだった。
アルヴェインは、生まれた時から麗しかった。
それだけは無条件で認められた。
大衆の前では美しい容姿を最大限に活かす笑みを崩さない。
――そうだ。この笑顔さえあれば良い。女は元より、手を振るだけで民は拍手し、貴族っちは頭を垂れる。これが正しい形だ。
(俺は王太子だぞ。俺が微笑んでやっているんだ)
だがオリヴィアは、アルヴェインに対し笑ったことが一度もなかった。笑う微笑むという以外に、嫌悪すらも見せなかった。表情の変化が皆無だった。
オリヴィアはアルヴェインに関心がなかった。
オリヴィアがそのような態度でいると、彼女の父母はオリヴィアを打ち、殴り、蹴ってくれた。
「王太子殿下!申し訳ありません!“躾”が行き届いておらず!」
少女の身体はボールのように飛んだ。小枝のような細い腕は床に放られ、淑女たれとして育てられた少女のスカートが折れそうな腰近くまで捲れ上がり、白い脚が力なく伸びていた。
誰もが賞賛する、賢い、生意気な女が、アルヴェインの権威には手も足も出ず、打ち据えられる様は、痛快だった。
アルヴェインの、美しく整えられた世界に衝撃が走った瞬間だった。
自分には、このような女を屈服させる力がある!
近侍たちがオリヴィアを介抱しているのは目に入らなかった。
エルフォード侯爵の暴力について苦言を呈する従者の前で、アルヴェインはあえてオリヴィアの頬を張って、床に転ばせた。
「“躾”は必要だ」
エルフォード侯爵を重用した。彼の能力は低かったが、アルヴェインには彼の暴力が何よりのエンターテイメントだった。
他の貴族廷臣からの苦言をちょっと伝えるだけで、翌日オリヴィアを呼び出せば、自分と張り合うほどの美貌が痣だらけになっていた。
アルヴェインは大変優越感を抱いていた。
だからアルヴェインはオリヴィアのことが嫌いでも婚約を破棄したいなどとは言い出さなかった。
一方でアイラはどうか。彼女は“使える”と思った。
アイラの能力は本物だが、鍛錬を嫌い、深く掘り下げようとしない。にもかかわらず、占星術や夢見の儀式でいくつかの小さな予兆を当て、飢饉や疫病の兆しを早期に告げた
――今はそれだけで十分だ。
何よりアルヴェインの美貌に頬を赤らめ、何かある度にアルヴェインを頼ってくることが心地良かった。
アルヴェインはアイラに様々な贈り物を与えた。だが品はすべて側近に選ばせた。宝石に冠せる花の意匠も、香の種類も、彼は自分で決めない。
――好かれる必要も、ましてや好いてやる必要もない。傍らに置き、俺を引き立てるのに使えばいい。
(必要になったら“躾”れば良い)
自分を差し置いて活躍するオリヴィアに苛立っていると
「もはや次期女王は、予言の乙女で良いのでは。オリヴィア様は不気味だ」
「アイラ様なら意向を素直に聞くだろう」
そんな貴族たちの囁きが彼の耳にも届いた。
(ああ、アイラを喚び出して良かった。自分は間違っていない)
甘く危うい響きを帯びて、アルヴェインの歪んだ自信が胸に沈む。
アイラへの贈り物は続く。オリヴィアには送ったことのない、新しい馬車、瑠璃の首飾り、南方の香。彼女は笑って受け取り、時に首を傾げる。
だが、喜んでいる“ように見える”、その向こうにある空虚さを、彼は見なかった。
――あの晩、彼は“舞台”を選んだ。
王城最大の舞踏会場。高窓から垂れる薄紗の幕は星の光を含み、百の燭台が蜜色の光を撒き散らす。花は遠方の温室から選りすぐられ、音楽は宮廷でも指折りの楽団が担っていた。
異母弟の婚約披露。王家の未来を寿ぐ席だ。
アルヴェインは王家の紋章を刺した上衣の襟をただし、玉座脇の石段をゆっくりと降りた。
足音が消える直前、広間は自然と静まる――視線の導線、息を呑む間合い、声が最も響く位置。かつてオリヴィアが設計した「王太子の威厳」は、彼女が不在でもまだ機能していた。
(ここで、すべてをひっくり返す)
乾いた確信が胸の中心で鳴る。劣等感と苛立ち、その底に沈むのはぬめるように甘い期待だ。
それは彼自身の愛でも正義でもない。誰かが撫でた水面の波紋――契約の残響だった。
“半端な乙女”アイラが、誘惑の悪魔フィンレイと交わした契約。彼女の「優雅に、楽に、愛されたい」という欲望を核に、世界の偶然をわずかに傾けた。
命令ではない。掌で水面を撫でるような微細な流れが、アルヴェインの猜疑や見栄に触れ、最も都合のよい形へと増幅させる。
だから“自分で選んだ”と思える。だからこそ、後戻りは難しい。
(オリヴィアはもう要らない…弟も要らない、使える価値より苛立つことが多すぎる……)
「オリヴィア・エルフォード。本日をもって、婚約を破棄する!」
何も知らないアルヴェインの口から、矢のように放たれた言葉が、シャンデリアが煌めくの天井を震わせた。
楽団は音を落とし、踊り手は動きを止め、杯の縁が小さく鳴る。弟の晴れ舞台を兄が奪う――その無作法さ自体が力の誇示であり、弟への牽制であり、臣下への示威だ。
(お前の番など永久に回ってこない。玉座は俺のものだ)
そんな幼稚な自己主張すら、彼は政治的判断だと信じた。
宣言の直後、アルヴェインはアイラの手を取り、満座の前で告げる。
「彼女こそ、真に愛すべき乙女だ」
“愛”という言葉の中身は空洞だ。実務の柱を失ってなお、御しやすい微笑を据えておきたいだけ。アイラ派の貴族の歓心を買い、扱いやすい次期王妃像を示し、オリヴィアを政から遠ざける――三つの利を一手に得るための演出に過ぎない。
アイラは完璧に笑った。勉強を放り投げ、鏡で何度も練習していた笑みだった。
アルヴェインは安堵した。彼女を愛しているからではない。自分を愛してくれる“像”が隣に立ってくれる便利さが、胸のざわめきを鎮めたのだ。
――これで、やっと誰もオリヴィアと自分を比較しない。
胸の内に、抑えきれない昂揚が湧く。彼は笑った。冷たく、長く、獰猛に。やっと心の底から。
(お前はもう、王太子の婚約者の座を失い、惨めに違いない…‼︎)
「誰もお前なんか必要としていないことを思い知れ!」
声に出した瞬間、甘い陶酔が舌に残った。彼は満足げに唇を湿らせる。
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騒動の後、王はアルヴェインを呼びつけ、短い言葉で叱責した。
「公私の別を失うな。弟の婚約の席で、何をやった」
取り巻きの重臣たちは沈黙をもって賛同し、古参の貴族は目を伏せる。
アイラ派の若い貴族は裏で杯を打ち鳴らし、歓声を上げたが、実務を担う官庁は一斉に冷たくなった。
(……なぜだ。うまくいくはずだった)
胸の内で言い訳が渦巻く。愛を選んだと装えば民は喜ぶはずだ。華やかな乙女を前に出せば宮廷は明るくなるはずだ。
だが現実は、オリヴィアの不在で露呈した無能、過去の手柄横取りの噂、弟の評判の上昇――それらが一つの像になり、彼を追い詰めていく。
何が違う、“何で俺だけがこんな目に遭うんだ”




