第一章:望まぬ帰還
王城最大の舞踏会場は今宵も煌びやかに飾り立てられ、華やかな音楽と色と香りが満ちていた。
水晶のシャンデリアの輝き。大きな窓からのぞく夜空さえ絵画のよう。色とりどりのドレスを纏った貴族たちは、まるで咲き誇る花園だ。
音楽団の奏でる旋律は、現実はどうであれ王国の繁栄と平和を誇示するように優雅に響き渡っている。
華やかなものがあふれる中で、特に人目を引いていたのは、翠のドレスを纏った一人の少女だった。
オリヴィア・エルフォード。
白金の髪は銀色の髪留めから美しく背に流れ、長い睫毛に縁取られた青い瞳は、この国の水の加護を示す高貴な色だ。
誰もが羨む完璧な次期王太子妃。
彫像のように美しく、舞踏会に咲く白百合のように近寄りがたい気配を纏っていた。
しかし、その胸の奥では悲痛な声が泣き叫んでいた。
(やめて、やめて、やめて……!戻りたくないの!)
ずっと奥底に封じられていた“本当のオリヴィア”の悲鳴がひび割れたガラスのように響いた。
──そして、その瞬間は訪れた。
「オリヴィア・エルフォード。本日をもって、婚約を破棄する!」
冷酷で、残酷で、まだ幼さの残る声が舞踏会場に響いた。
一瞬で静寂が訪れる。貴族たちの視線がオリヴィアへと集まる。音楽が止まり、空気が張り詰める。
それでも、オリヴィアは微動だにしなかった。
感情の一切を閉ざし、空ろな瞳で王太子を見据える。
王太子アルヴェインは、勝ち誇ったように唇を吊り上げた。
「君には愛がない。僕にはもっと相応しい女性が現れたんだ。心から僕を愛してくれる、純粋で可憐な女性が」
そう言って、隣に立つ少女へと視線を移す。
栗毛の巻き毛を高い位置で一つに結い上げており、桃色のドレスのフリルと共に毛先が揺れる。涙に潤むのは大きく丸い茶色の瞳。「予言の乙女」アイラ。
小柄な彼女は庇護欲を誘う、泣きそうな顔で王太子を見上げていた。
近年の不作や天候不良、疫病などこの国の窮状を改善するため、有効な策を打ち出せない王太子が、起死回生を狙い、城の魔法使いに命じて呼び出した少女だった。
自由に予言が出来るほどの能力はないが、確かに魔獣の出現や河川の氾濫などを言い当てたそうだ。
自分に縋っているアイラの姿を見て、アルヴェインは満足げに笑みを深める。
「一人で過ごすといいさ…。誰もお前なんか必要としていないことを思い知れ!」
その瞬間だった。
オリヴィアの胸元で、星を模したペンダントが淡く光を放った。
――カチリ。
金属が外れる小さな音。不完全な封印が、ついに壊れてしまった音だった。
長い間、魔道具に縛られていた“本来のオリヴィア”が、今ここに呼び出された。
(……ああ、ただいま人間界。本当に帰ってきたくなかったわ)
オリヴィアと視線が合うとぽろぽろと大粒の涙を流すアイラ、その剥き出しにした肩を抱き寄せる愚かな王太子、周囲でざわめく、不幸なイベントを楽しむ貴族たち。
(滑稽で、醜悪で、底なしに愚かね。)
オリヴィアは幼い頃、生家である公爵家の思惑で人格を封じられた。
だが封印儀式は不完全だった。生贄の血の海。強烈な鉄の香り。凄絶な痛みと共にオリヴィアの魂の大半は悪魔へ捧げられ、魔界へ堕とされた。
絶望と苦痛の底で泣き叫ぶ彼女を抱き上げたのは──恐ろしくも優しい女性の悪魔だった。
(……母さん、会いたいわ。もう少しだけ待っててね。必ず帰るから)
オリヴィアはそっと微笑んだ。
その微笑みは、誰の目にもゾッとするほど恐ろしく美しく映った。
弓のような月が白く輝く。封印された悪魔の娘が、目覚めた夜だった。
廷臣に促され、別室に移動したオリヴィアを待っていたのは国王と父親だった。
国王は口を開くなり、「婚約はすぐには解消せぬ」と告げる。愚王子と乙女に地位はあっても、信用はまだ足りない――それが理由だ。
父親の顔が赤黒く染まり、次の瞬間、鋭い音と共に頬を打たれた。
胸ぐらを掴まれ、往復で頬を叩かれる。さすがに国王の側近が止めに入ったが、父の瞳はなおも憎悪を宿している。
「この出来損ないめ! どれだけお前に投資したと思っている!」
吐き気を催す視線が胸元に注がれ、思わず口を押さえる。軍服姿の女性職員がそっとショールをかけ、支えてくれた。
その優しさに触れた瞬間、逆に涙がこみ上げるが、髪に隠れてそっと拭った。
ノクティレアは、こんな真似はしなかった――。
頭を撫で、抱きしめ、「愛してる」と毎日言ってくれた。罵声も暴力も、彼女の世界には存在しなかった。
国王は「国境沿いの別荘で休養せよ」と命じる。海が見えるその地名を聞いた瞬間、オリヴィアの胸に小さな炎が灯った。
(……願ったり叶ったりね)
父は露骨に嫌な顔をしたが、知ったことではない。
帰宅すると、母が花瓶を投げつけてきた。床に砕けた薔薇の花弁を見下ろしながら、オリヴィアは思う。
――人間界の身体は、よくこんな環境で生き延びてきたものだ。
背後では、城からオリヴィアを送ってきた女性職員が同僚たちと何やら話し合っていた。
その光景を横目に、オリヴィアは心の奥で静かに呟く。
(母さん、待ってて。必ず……帰るから)




