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(それにしても、あいつは何をしに来たんだ?)


 コンビニへ向かいながらぼんやりと考える。コンビニは橋の向こうだ。車は通りにくいが徒歩なら別だ。少し遠いものの、頭を冷やすにはちょうどいい距離だった。

(あいつは誰だったんだーー)

 橋の袂までたどり着き、立ち止まった。橋の真ん中に長谷川が立っていたのだ。

 さっきバスタオルで包んだ土鍋を欄干の上に乗せている。

「ああ、石井さん」

 驚いてこちらを見る石井に気づいて、長谷川は穏やかに笑った。

 何をしているのか。

 お前は誰なのか。

 目的は何なのか。  

 何から聞けばいいのか。

 迷う石井を憐れむように、長谷川は話し始める。

「これの鍋は、妻の味なんです」

「妻?」

 突然何を言っているのか。

 石井は眉を寄せる。

「あなたも食べたことあるでしょ? うちでごちそうしているはずです」

「いやいや。懐かしい感じはするけど」

「あるはずです。これは菜美の地元で売っている出汁醤油ですから」

 菜美という名前には聞き覚えがあった。

 あの出汁醤油。あの匂い。あの鍋。

(まさか)

 体が硬直して動けなくなる。

「思い出しました? 菜美はあなたの会社の元後輩ですよね。あなたと付き合っている頃に彼女と鍋を食べたでしょう?」

 長谷川はタオルにくるまる土鍋を愛しげにそっと撫でる。

「これ、実は毒キノコ鍋なんですよ」

 鍋のぬくもりを確かめるように頬を寄せた。

「休みの日に山に行って、きのこ狩りをして手に入れました。おじさんが食べちゃいけない毒きのこだって教えてくれました」 

「それを我が家で調理したのか」

「娘さんには食べさせたくなかったから、結果はこれでよかったと思っています」

「ふざけんなよ!」

 怒り出した石井を見て、長谷川は高らかに笑った。

「ふざけるな、か。僕もね、だいぶ前のことだし、忘れたはずだったんです。でも元妻が再婚して子どもができたことを知らされて、気づいたんです。僕はまだ妻を許せていなかった。元妻の不倫相手のあなたも」

「それで俺に毒キノコを?」

「いいえ。自分で食べるつもりでした。妻がいつも作ってくれた、妻の故郷の味の鍋。ただの無知な男が起こしたきのこの事故。命を落としてもきっと自殺とは思われないでしょ?」

 男はフフフと笑う。軽やかに。

「そうしたら、あなたに偶然会った。しかも、僕を自分の奥さんの不倫相手と勘違いしたんですね。好都合でした」

 長谷川はうっとりと鍋を見つめていた。

「その鍋どうすんだよ」

「さあ」

 欄干の上の土鍋はもはや男の死神の佇まいだった。

「明日のニュースに出ますかね? 三十代の男、毒キノコで死ぬって」

 石井は迷うことなく欄干の土鍋に近寄り、川へ向かって突き飛ばした。

「あっ!」

 長谷川が川を覗き込んだ。

 土鍋はあっという間に川へと落下し、暗闇に消えてしまった。

「やめろよ」

 絞り出すような石井の声に、長谷川が顔を上げる。

「死なれたら困りますか? 罪悪感で潰されそうですか?」

 やっぱり穏やかに笑っている。

「そうだよ。死なれたら寝覚めが悪いよ」

「どこまでも自分が可愛いんですね。娘さんは許してくれると思っていたでしょ? 自分の不倫は何年も前のことだから。甘いなぁ」

 笑顔のまま石井を責め立てた。

「ああ、そうだよ。そのとおりだよ、先生。俺は甘かったし、馬鹿だったし、取り返しがつかないよ」

 石井のほうは眉間にしわを寄せていた。それでも段々おかしくなって、気づくと小さく笑っていた。

「だから、このまま生きることにしたんだ」

 娘に嫌われたままでもいい。

 娘が生きていればいい。

「色々抱え込んで生きてたっていいじゃないか。甘さも弱さも。許してほしいこと、許せないこと。何もかもを解決しなくても」

 突然熱弁を始めた石井に、長谷川はキョトンとしていたがもう構わなかった。もはや何を喋っているのかわからなくなっていた。

「未解決のまま胸にしまっていても。そんな自分を許しても。いいと思っているんですよ、先生」

「だから僕は先生じゃないですよ」

 長谷川はふと欄干の下を覗き込んだ。

「毒キノコを抱え込んだ土鍋は、川の中でどうなるんですかね。タオルにくるまれたまま」

 夜闇に沈んで川は黒く暗い。

 顔を上げ、長谷川はまた笑ってみせる。それは初めて見せる、晴れ晴れとした笑顔だった。

「あなたのお陰で少し、妻を許せた気がします」

「なんでだよ」

「そりゃ、あなたがあんまり情けないから」

 ふふっと笑う。

「それじゃ」

 男は手ぶらで去っていく。

「長谷川さん!」

 石井は思わず叫んでいた。男が立ち止まる。

「あのとき、運転してくれてありがとう」

 石井の言葉を聞き終えると、長谷川は黙って再び歩き始める。石井もその後ろ姿を黙って見送った。

 橋の向こうで柳の木が揺れている。

 車通りが途切れ、夜闇に街灯と月が滲んだ。

 あの土鍋は、川に沈んだ土鍋は、タオルを解いて蓋を開けるときはあるのだろうか。その時毒キノコはどうなっているのだろうか。

 石井はしばらくその場に立ち止まっていた。見上げる夜空はまるでヌメヌメと流れる夜の川面。石井は遥か上方から投げ落とされ、毒キノコを内に潜めたまま沈み、その底から何もできず見上げているのだ。

(それでもいい。俺のここまでの人生はカッコ悪い人生ってだけだ)

 カッコいい人生なんてクソ喰らえ。かなり羨ましいけどクソ喰らえ。ヤケクソに吐き捨てて、不思議と口元に笑みが浮かぶ。石井は夜の空気を吸い込むと、娘の夕食を買うためにコンビニへと向かった。

 

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