5
歩道に佇む石井の娘、萌々香は欄干に手を乗せて川の流れを覗き込んでいた。
「停めてくれ!」
「えっ?!」
「萌々香がいるんだ!」
石井に言われ、先生が橋を渡った先のスペースに車を停めた。
石井は車を飛び出し、走り出す。
「萌々香!」
突然名前を叫ばれた娘が振り返る。
「死ぬなんて言うな!」
汚く走る父親に気づき、萌々香は明らかに嫌悪を含んだ表情で顔を歪ませた。
「はぁ?」
はっきりと軽蔑が滲んでいた。
「それはやめたってメッセージ送ったでしょう?」
「えっ?」
「死のうと思った。でもやめた。頭を冷やしてくるから遅くなるって」
石井は全身のポケットを探すがスマホはどこにもない。
靴を履くとき、玄関の床においたのを思い出した。
そして、スマホを置き去りにして、そのまま慌てふためいて出ていったのだ。
「家に忘れたみたい……」
みるみる力が抜けていく。
この緊急事態にスマホを忘れるというヘマをやらかしてしまった。でも、娘はもう死のうとなどしていない。
そのことを噛みしめると、石井は膝から崩れ落ちた。
娘はそんな父親から目をそらす。
「あいつは仕事に行ったよ」
「あいつって母さんのことか?」
何も答えない。でも、その横顔はその通りだと教えている。
「殺そうと思ったの?」
萌々香は大きくため息をついた。「母親を殺そうとしたか」なんて、全く尋常じゃないことを、まるで忘れ物はないかどうか確認するみたいに、なんの気遣いもなくズケズケ訊ねる父親に呆れながら。
「ーーそう決めたんだけど、やっぱりやめた」
前方を明るく、後方を赤く照らす自動車の光が県道を行き交い、父娘を撫ぜていく。
「わたし、お母さんのこと気持ち悪い。許せないーーわたしのせいなのに」
「そんなわけないだろう」
石井は萌々香に歩み寄る。
「萌々香は一つも悪くない」
つばを飲み込んだ。喉がヒリヒリと痛い。
「お母さんは苦しんできたのはお父さんのせいなんだ。それが萌々香のせいなはずないだろう?」
言いながら、石井は受け入れるしかなかった。
「お父さんが今度は苦しむ番なんだよ。それを萌々香が背負うことないーー」
萌々香は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「お母さんに少し聞いたけどーーやっぱりそうなんだね」
小さく囁いて、父親から後ずさる。
「許せなくて苦しいときはどうすればいい?」
「その時は許さなくていい」
「自分の親なのに?」
萌々香の心には、好きだった母親がまだ胸の中にいるのかもしれない。でも、ずっと過ごしてきたーーずっと一緒に生きてきた、これからも一緒のはずだった優しい母親は、女の顔をして家を出ていったのだ。
そして、その原因は自分勝手な父親だ。
「いいんだよ。そんなことより、萌々香。今は全力で自分を守ってほしい。すごく傷ついているんだから」
萌々香が石井を睨みつけるその目は涙に潤んでいる。お前が言うなよ、と。必死に泣くのをこらえながら、父を責めている。
「全ての元凶は俺だ」
その時、車をおりた先生が駆け寄ってきた。
「お二人共」
さっき橋で出会ったときと同じように、にこやかな笑顔で。
「風が冷たいです。帰りましょう」
萌々香はじっと先生をみつめた。
助けられたものの、こいつは娘が片思いをしている相手で、妻の交際相手だ。これはややこしいことになると思った瞬間、萌々香が先生を睨みつけて言った。
「あんた誰?」
石井はぽかんと口を開けて固まってしまった。
(誰?)
萌々香が知らないってどういうことだ。担任の顔を忘れることなんてあるのか?
まさか、先生じゃないのか。
(じゃあ、誰なんだ?)
先生は慌てる様子など微塵も見せずに微笑んでいた。
「僕は長谷川といいます。お父さんの友だちです」
そう平然と言った。娘の担任じゃなかったのだ。
「今日、お父さんもそこにいたんですよ。思い詰めた顔で。あなたみたいに」
驚いた娘が父親を見る。石井は目をそらした。
「帰りましょう」
男はそう言うと、石井と娘の背中を押した。
石井の顔は見ようとしない。
(誰なんだよ、長谷川って)
お前は先生じゃないのかよ。
★
男が運転席に乗り込むと、萌々香は助手席に座った。
(何故?)
見ず知らずの男の隣に乗り込むのか不思議だったが、軽蔑を込めた視線を向けられてわかった。
父親のすぐ隣りに座りたくないのだ。
石井は後部座席に渋々乗り込む。
カーナビを確認していた男が振り返った。
「遠回りで帰ってもいいですか?」
石井がうなずくのを見て、男は車を発進させる。他人の車で、あの狭い道をもう走りたくないのだろう。
車内の重苦しい空気の中、口を開いたのは謎の男、長谷川だった。
「お母さんには会えましたか?」
萌々香も石井もギョッとして男を見る。
「不躾な質問で申し訳ないです」
困ったように笑う男をじっと見たあと、萌々香は再び前を見る。車はさっきとは別の、夜の住宅街を抜けていく。
「いいんです。聞いていただいたほうがスッキリします」
張り詰めたまま車に乗り続けるより、萌々香は体に溜まっている最悪な出来事を吐き出してしまいたかったようだ。
「母には会えました。先生もいました」
「素敵な先生だったんでしょ?」
「そう思っていたんですけど、なんかすごい勢いで冷めました」
唇の端を少しだけ上げて、萌々香は流れていく町並みを見送っていた。
「学校の外で見る先生はダサいただのおじさんで、全てわたしの幻想でした。本当は刺してやろうとか、殴ってやろうとか、そんなふうに思ったんだけどーー先生はこのまま保護者と不倫した教師ってレッテルを貼られたまま生きるんだなぁって」
信号が赤になる。前方の車に倣ってゆっくりと停まり、車内の三人は同じ赤信号を見つめていた。
「先生、哀れだった」
萌々香はポツリと呟いた。
信号が変わり、再び走り出す。住宅街から駅前の、店が立ち並ぶ通りを抜けていく。
「あいつはやっぱり許せない」
今度は絞り出すように萌々香が言った。
もう母親のことをお母さんと呼びたくないのだ。
「大人になればわかるって言っていたけど、今はわかりたくとない。わたしが悩んでいるときにそういうことをしていたなんて、ただ気持ちが悪い。知りたくもない世界を見せつけられた。気持ち悪い」
石井は後部座席で黙って聞くことしかできないでいた。
家に帰ると土鍋が懐かしい匂いを放っていた。
家に上がり、キッチンを覗き込んだ萌々香がまだ玄関にいる石井と長谷川を見比べた。
「ああ。その鍋、僕が作ったんです」
長谷川は萌々香を優しく見つめた。
「今夜3人で鍋を突付くのは、さすがにやめましょう」
萌々香の気持ちを察したようだ。
「ありがとうございます。今、父親と鍋を食べるのは地獄だから」
長谷川が萌々香にまた微笑む。石井のほうは何だか釈然としない。
「とにかく持ち帰ります。ゴミはよろしくお願いします。しっかりまとめましたので。そうなると、土鍋と、あとバスタオルをもらうことになってしまうんですけど、いいですか?」
「いいですよ」
石井が何か言うより先に萌々香が答えた。
「うちには必要ないものですから」
その言い方には棘があった。
母親が炊いた土鍋のご飯を美味しいと言って食べた思い出は、萌々香には気持ちの悪いものになってしまったのか。
石井は白いバスタオルを長谷川に渡した。
「自分でやってもらえますか?」
長谷川は快くうなずく。そしてキッチンへと急ぐと、鍋をバスタオルタオルで包み、慣れた手付きでビニール紐で固定した。その土鍋を抱える。
「帰りますね、石井さん」
石井に向けられたのは、もはや、見慣れた笑顔だった。
「あなたたちは幸せになってください」
そう言い残し、男は去って行ってしまった。
あっさり出ていった。
誰もいなくなった玄関で、石井は虚空を見つめていた。
あいつは誰だったんだ。
なんで鍋なんて作ったんだ。
どこか懐かしく、鼻に残る匂いだけを残して。
「夕飯どうする?」
嗅覚を刺激され、空腹が襲ってきた。
「食べに行くか?」
手を洗い終えた萌々香は振り向きもしなかった。
「話しかけんな」
自分の部屋へと向かいながら、
「いかない」
そう言い捨てる。
「わかった。コンビニで何か買ってくるよ」
再び玄関へと向かう。
「お父さん」
呼ばれて振り返る。萌々香の姿は見えない。
「おにぎりとからあげ!」
どうやら自室のドアをあけたところから叫んでいるようだ。
「わかった」
石井は家を出て、鍵を閉めた。
玄関の前で一つ息を吐き出した。
お父さん、おにぎりとからあげ。
なんて平和な響きなのだろう。
ああ、娘は無事なんだ。
シャツの胸元をぎゅっと握って目を閉じた。石井の両目から今更涙が溢れていた。