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「あなたは橋で何をしていたんですか?」
突然の質問だった。
「散歩ですよ」
石井は白々しく答える。
無神経なことを訊ねて腹を立てたのだろうか。しかし、石井はこの男に敵意を向けられようと怯むつもりはなかった。
「さては先生、身を投げるかと思った?」
石井の言葉に先生は頷いた。
「ええ。あなたを橋で見かけたとき、欄干に登って川へ飛び込むのだと思いました」
「確かにね」
今度の嘲笑は自分に向けたものだった。
「妻と娘に逃げられましたから。二人共ひと月前出ていきました」
「ーーひと月前? 娘さんも?」
「ええ」
先生は石井の顔を覗き込む。
「でも、弁当箱がありますよ。まだ水気が切れてない。これ今日使ったばかりですよね」
ということは、娘はここから学校に通っていることになる。
ひと月前に娘は出ていってなどいないことになる。先生はそう言いたげだ。
「それ私のです」
「ピンクと白の?」
「そうですよ、私、ピンクが好きなんです」
「ネコちゃんの絵が描いてあるのですよ?」
「ええ。かわいいですよね、ネコちゃん」
先生が思わず吹き出した。ネコちゃんはちょっと苦しかった。
「娘さんはまだ、この家にいるんじゃないんですか?」
見透かすような先生の視線から目をそらす。
「いませんよ。娘は私のスマホを盗んで家を出ました。帰ってこないそうですよ。妻のところへ行くのでしょうね」
石井は大きなため息を吐いた。
もううんざりだった。
「先生」
この男の目的は娘なのだろう。
「満足ですか?」
「えっ?」
驚いた顔も鬱陶しい。
「娘さんだなんて呼びやがって。白々しい」
どうせ演技なのだろう。石井は睨む気力もなくただ男の色白の顔を見つめた。
「娘を連れ去りに来たんでしょ? 手間が省けてよかったですね。妻の新しい相手が誰か。私が知らないと思ったんですか?」
妻は娘の学校の先生と深い関係になって家を出ていった。
こいつはその先生だ。
「娘はあんたを好きになって、それを友だちにバラされて、学校に行かない時があったらしいですね」
妻がそう教えてくれた。
「あんたのほうがよく知っているでしょう?」
担任だったのだから。
「あんたはその相談を妻から受けて、そのうちにいい仲になって、ついに妻とやっちまったんですね」
先生は呆然と立ち尽くしたまま何も言わない。
(だんまりかよ)
苛立ちながら、言い返せやしないことを石井は身に沁みて知っていた。
自分が犯した過ち、罪、失敗、後悔。言い逃れることはできない。自分が一番わかっている。
だからといって、妻と娘を奪ったこの男を許せない。
「あんたのこと、殺してやりたかったよ」
石井は両手をぎゅっと握りしめる。
「娘まで妻のところへ……あんたたちのところへ行ってしまったなんてさ」
すべてを奪った男が自分の家のキッチンで鍋を作っているのなんて、なんて虚しく、惨めなんだろうか。
「あんたを家に上げたのはほんの気まぐれです。帰ってください」
石井がそういった時。
ふとスマホの音がした。
四角いなにかがキッチンカウンターの上でブンブンと震えながら白い光を放っている。
「スマホ、ですよ」
見覚えがある。
「これ俺のだ」
置いてあった新聞が死角になって、今の今までそこにあったのに気づかなかったのだ。
画面に浮かぶ文字は『萌々香』。娘だった。
「萌々香、お前」
慌てて電話に出ると、
「お母さんから伝言」
無愛想な声が飛んできた。
「お母さんのタンスの一番下を探せ」
「なんで?」
「いいから早くして」
有無を言わさない声に石井は素直に従い、部屋を移動して妻の小さなタンスの、一番下の引き出しを開けた。
もう着なくなった夏物の服が詰まっていた。その下に埋もれていたのは小さな箱だった。
「結婚指輪だ」
電話口に向けて呟いた。
その箱の下には一冊のノートも入っていた。
でも、石井はそのことを萌々香には言えなかった。
「お父さん、あの」
「いいんだ。萌々香がお母さんといたいなら」
「違う!」
「出ていったのは、お母さんと一緒に暮らすためじゃない」
「じゃあなんで」
「後で教える」
そう言って、一方的に電話は切れた。
結婚指輪と一緒に出てきたノートに目を向ける。ピンク色で、真ん中に赤ちゃんの絵と、育児日記という文字が書いてある。
『萌々香に子どもができたら渡しすかどうか決めてください。それまで見つからないように保管してください』
表紙に貼られた付箋のメモにはそう書かれていた。
ページをめくると新生児の頃の萌々香の写真が貼ってある。
寝姿、湯浴み、ミルクを飲む姿。全部萌々香だ。
最初の頃はいつうんちをしたとか、ミルクをいつどれだけ飲んだとか、そんな一日のスケジュールとその日の出来事なんかを記してあったが、だんだんと一言だけになり、愚痴が増えていく。
(萌々香)
萌々香が小さかった頃。
石井はあまり家にいなかった。
その分、妻がどれだけ萌々香と一緒にいたかがわかる。
初めての育児に戸惑い、萌々香に泣かれ、妻も泣いて、少しも眠れない夜。
そんな日も、石井は当時付き合っていた彼女と会っていた。仕事と偽って。
家にいるときだって、萌々香が熱を出した時も、運動会に駆り出された時ですら、彼女とのやり取りに夢中でスマホばかり盗み見ていた。
その時、妻が何を考えていたのか。
助けてほしいという叫び。
信じたい気持ち。ここにはそれらが書かれていた。
『私は一人だ。
結婚を機に引っ越してきたばかりで友だちもいない』
『誰かと話したい。
誰にも話せない。
味方は夫しかいないのに、帰ってこない。悲しい。苦しい』
当時、妻の母親は兄嫁が出産したばかりで、その上体調を崩して、そちらにつきっきりだから頼ることができなかった。
妻の中で頼れるのは夫だけだったのだ。
でも、石井に早く帰ってきてほしいなんて言ったことはなかった。
『ワガママは言えない。
だって、仕事で疲れているのに、何も言わずに夕飯を片付けてくれた。
部屋が散らかっているのに怒らないで、仕方ないよって言ってくれた。
お土産にアイスを買ってきてくれた。
できることをやればいいよって、そう言ってくれた。
すごく救われた。
夫があの人で良かった。
本当にありがとう。
もう少し、頑張ってみる』
『信じよう。
信じたい。
信じてやろう!
器の大きな女になろう!』
それから日記は途切れた。
最後から数ページ前に、殴り書きがあった。
『私は終わりなの?
もう使い古し?
あの人は遊んでいるのに。
まだ青春しているのに。
ボロボロになって、
このまま年を取るだけ。
不公平』
『死ね』
石井は日記を閉じた。
その後あった夫婦の修羅場を知っているから。
目を閉じると、その妻の顔が思い浮かぶ。
二度目の不倫の時。
相手の旦那から電話があったと、妻にそう告げられた。その時の顔だ。
柔らかく優しく微笑んでいた。全ては、どうでもいいことのように。
不倫相手の夫から求められた慰謝料のこと。
不倫相手からどうでもいい遊びだったと告げられたこと。
何もかもを知りながら、何もかもを受け入れたあの顔が、今も石井を責め立てる。
なんなら妻も不倫でもすればいいと思っていた。
そうすればこの苦しみから抜け出せると思っていた。
でも、現実となったらどうだろう。
再び夫婦を取り戻すために努力した自分ばかりが可哀想で、今、妻を許せそうにもなくて、責めるばかりだった。
その時、またスマホが震えた。萌々香からだった。
今度はメッセージだ。
ーーお母さんを殺して
ーー死んでやろう