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話に流されたふりをして先生を家に通すと、石井はリビングとキッチン、それから洗面所の電気を点けた。
「散らかっていますけど」
手を洗った男が石井の前にのそのそと戻ってきた。
「散らかってないです。きれいですよ」
そう言って、やっぱりニコニコと笑っている。
「急にお邪魔してしまってすみません。台所をお借りします」
穏やかな口調でそう言うと、そそくさと流しの前に立った。
「どうぞ。なんでも勝手に使ってください」
「ありがとうございます。では早速」
ほぼ初対面の男を自宅のキッチンへ招き入れている状況に、自分でもわけがわからなくなっていた。石井はやけくそだった。
先生は気にする素振り一つ見せずに戸棚の中をあさり始める。
「ああ、土鍋がありますね。これをお借りします」
それは妻が美味しいご飯が炊けるからと言って買った土鍋だった。おこげができて、嬉しそうだった妻の顔が脳裏によぎる。
「なかなか立派な土鍋ですね」
そう笑いかけられても喋る気になれず、ただ頷いた。
ここからどうしてやろうか。キッチンには包丁も、ハサミもある。ほんの数メートル先の収納棚には、丈夫なコードも、殴打するのにちょうどいい釘抜きもある。
しかし、動くこともできず、じっと調理をする男を監視していた。
「何か気になりますか?」
視線が気になったのだろう。
訊ねられて、石井は半笑いを浮かべる。
「いや。毒をいれないか見ているだけだよ」
石井の言葉に、男は野菜を切る手を止め、大きく目を見開いた。
「まさか」
心外だったのだろうか。毒などと言われ、気を悪くしたのかもしれない。
「まさか、ね」
苦笑いした石井に穏やかな笑顔を返し、男は再びまな板に向かう。
シンクを汚さないよう、こまめにゴミをまとめながら調理をしていく。野菜を切る順番も決まっているのか、迷いなく食材を取り出していく。
ニラを刻みだしたところで、石井はなんだか疲れてしまった。青臭いニラの匂いと手際の良い手元から顔をそむける。
冷蔵庫に貼られた学校の予定、集金袋、今月のガス代を空虚に眺めていた。妻の気配がどこかに残っていそうで苦々しい。
ふと、しょっぱくていい匂いがしてきた。
どこかで嗅いだことのあるような気がする。
先生は先程刻んだニラと鶏ひき肉を捏ね始めていた。
「地元の出汁醤油で作る鍋です。お口に合うといいのですが」
「そうですね」
土鍋で煮立っただし汁にはすでに小さめの大根と薄めの人参が並んでいた。そこへニラ入りの鶏ひきの肉だねを入れていく。器用にスプーンで丸くしてリズムよく並べていく。これは肉団子鍋だ。
「きのこは好きですか?」
「好きです」
「魚介系は?」
「好きです。好き嫌いほぼないです」
肉団子を入れ終えた先生は、オタマでアクを取る手を止め、相変わらずの笑顔を石井に向けた。
「それはよかった」
そして、慣れた手付きでエビや鱈や、残りの野菜を鍋に入れていく。
「あとは煮込むだけ」
土鍋はグツグツと音を立てている。先生は汚れたまな板を洗い始めた。
このまま男二人で鍋を囲むなんて居た堪れない。
「先生、ビールでも飲んで待ちましょう」
石井は冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。
「えっ! 飲むの?」
先生に止める隙を与えることなく缶の蓋を開けると、ごくごくと飲んだ。
喉を潤すビールの刺激は現実逃避への誘いそのものだった。わかっている。
それから先生の顔を睨めつける。
「だって、ここはうちだから」
飲まなきゃやってられない。
先生は小さくため息を付き、流しを片付け始めた。
その横顔は案外絵になる。
「先生はさぞモテるんでしょうね」
家事をこなす男の姿は石井を無性に苛立たせる。
「料理もできて、顔も良くて。人当たりもいい。しかも公務員」
「いいえ」
きっぱりと否定をし、ゴミをまとめた袋をしっかりと締める。
「いつもふられる方です」
先生の返答は意外だった。
「へー」
酒が入ってやや気も大きくなったのかもしれない。
「独身?」
石井は質問を重ねた。
「独身です」
「気楽ですか?」
「気楽ですね。山に行ったり、庭で野菜を作ったりしています」
「若いのに?」
先生は困ったように笑う。
「若くないですよ」
「またまた。生徒に惚れられることとかありそう」
「ないですよ。まあ、バツイチですから」
「バツイチ?」
「妻に浮気されて、そのまま」
先生は静かに笑みを浮かべていた。
「ははっ!」
石井の方は思わずせせら笑いが漏れ出た。
(今度は立場が変わりましたね。ご気分はいかがですか?)
そう聞いてやろうとして顔を見ると、先生はずっと貼り付いていた微笑みを消していた。
その瞳は、視線で石井を呪い殺さんばかりの光を含んでいた。