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欄干の隙間から覗く夜の川はヌメヌメと流れている。
県道を進むと現れる橋を、石井は歩いて渡っていた。
向こう岸にある柳の葉が冷たい北風に揺れている。
ぽっかり浮かんだ月の明るさが煩わしい。
橋を登ってくる車のヘッドライトが眩しすぎる。
石井は何故ここへ来たのか。自分でも分からなかった。
(もう何も考えない)
この橋は車通りも人通りもまあまあ多い。その橋の歩道の真ん中で不意に立ち止まってしまった。
石井だって、立ち止まりたくて止まったわけではない。足が動かないのだ。
家に帰りたくないのだ。
妻も娘もいない一人きりのあの家に。
石井はそっと、くすんだ銀色の欄干に手を掛けた。
指先に伝わる冷たい感触。
視界がぼんやり暗くなり、狭くなる。
足元遠く下方を流れる川は、揺れ動くだけの草と何かを囁いている。
石井の脳裏は空白だった。
考えるだけ考えて、ついに空虚の底に落ちたのだ。きっと。
ふいに、川底から声がした。そんな気がした。それはただ、川を流れる水の音なのか。それとも石井を誘う甘い溜め息なのか。
真っ暗な川面を覗き込むために、欄干に置いた手に力を込めかけた、その時だった。
「石井さん?」
突然名前を呼ばれ全身がすくんだ。
「石井さんですよね?」
声の主は、中肉中背の小綺麗な中年の男だった。片手にパンパンに詰まった赤いエコバックを提げていた。買い物帰りといったところか。ニコニコとして、色白な顔をこちらに向けている。
(誰だ)
石井は男を見つめながら、必死で記憶を巡らせたが、彼が誰なのか少しも思い出せない。
でも、近所を歩いているということは、娘の萌々香の関係者かもしれない。
そう考えると無下にはできない。
「もしかして萌々香の……」
言いかけると、
「あっ、はい、娘さんの担任です」
男はそう食い込んできた。
石井は男のにこやかな顔をぼんやりと眺めた。
娘の、担任の、先生。石井から娘と妻を奪った先生。先生だ。全ての元凶だ。
(こいつか)
おかしくもないのに自分の頬が緩むとの、こみ上げる怒りに体が震えるのを同時に感じていた。
「ああ」
嘘の笑顔が顔に貼り付いた。
娘の学校の先生の顔なんて知るはずもなかった。
「入学式でチラッとご挨拶をしましたよね」
そう言いながら、石井はそいつの顔を少しも覚えていなかった。本人に会うのはほとんど初めてだった。
「突然申し訳ないのですが」
男の出現に激しく揺さぶられる石井の思いを知ってか知らずか、男ははにかむような笑顔を向けた。
「ごちそうしてもいいですか?」
馬鹿なの?
反射的に吐き出しそうになったその言葉を何とか押し込める。
「ごちそう? どういうことですか?」
訊ねられた男は肩の赤いエコバックを持ち直す。
「えっとですね。実は鍋の材料を買ったんですけど、彼女に家を追い出されまして」
照れたように、でもどこか嘘くさく笑う。
「お宅で作らせていただけますか?」
「なんでですか?」
思わず冷たく聞き返す。
「この中には、鶏ひき肉とか鱈とかエビとかが入っているんですよ。あと白菜と大根と人参と、調味料も」
「それで?」
「かなり重いですし、ナマモノですし、これを一晩中持ち歩くのかぁと、絶望していたんですけどね、あなたが現れたわけなのですよ」
石井はしばらく考えた。穏やかな笑顔を保ったままの男を見つめながら。
鍋の材料を持ったまま彼女に追い出され、困っているところに教え子の父親に会った。これは好機だと、そう思ったのか。
「ええっと、つまり、うちに来て鍋を作りたいんですか?」
「はい、その通りです。すでに腕が痛くて。いいですか?」
悪気一つ見せずににっこりと笑った。
(この、人懐こい笑顔で散々誑かしてきたわけか)
とにかく胸糞悪かった。
お前は何様だとどなってやってもよかった。もう少し元気なときならばそうしていたかもしれない。
今は違うのだ。
「いいですよ」
それでも石井は、負けずににこやかに答える。
「ありがとうございます!」
男は飛び上がって喜んだ。
あんまり無邪気なので吐き気がした。
「じゃあ、行きましょう」
歩き出した石井の手のひらには欄干の冷たさが残っている。
(まあいい)
身を投げようとした保護者の父を助けたつもりなのか、それともーー。
(最後の晩餐の相手にはなかなかお誂え向きだな)
石井は男の背中をじっと見つめた。