#7
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森深き闇には、もはや宿など一軒もない。もとより人家すら見あたらぬ。
アルバスとブラッディは地面に敷いた粗末な布の上で身体を少しばかり寄せ合い、膝を抱えて眠を取った。まだ明け切らぬ朝の靄に包まれ、辺りは白い。何も語らぬ雪のような色合いの蝶は、いっときもアルバスの肩から離れようとはしなかった。
まどろむ彼女に、穏やかな視線を向けるのは屈指の戦士…今の名はブラッディ。
そっと彼が身じろぎする気配を察して、アルバスはゆっくりと目を開けた。
「…起こしちまったか、姫様。もう少し休んでおいてくれ」
あくまでも静かな声に、姫様と呼ばれた彼女は呟いた。
「今さら姫様でもあるまい。身分が知れたらことだと、そなたが申したのだぞ?」
その姿こそ、短く切り揃えられた髪と少年のような装束をまとってはいたが、凛とした態度は隠しようもなかった。
王族の誇り。生まれながらにして持つ高貴な気品。おそらくアルバス自身は気づいてもおらぬだろう。
「ああ、そうだったな。悪かったよ、おてんば姫さん」
口元を少しばかり上げて、ブラッディは彼なりに微笑んだつもりだった。幾多の頬の傷が凄みを見せる。
幼い頃は近くで彼女を護衛するのが、彼の任務であった。大人では入ることのできぬ場所にさりげなく寄り添い、彼女の身に何かあればおのが命を盾にしてでも守り抜く。
そして、長じてブラッディが長き戦いに従事するようになってからも、事あるごとに姫君のそばへと呼ばれた。
名を馳せた勇者は、剣をいったん納め……輿入れをした姫の護衛として陰の存在でいるはずであった。
まさかこのように、彼女を連れての逃避行になるとは思わずに。
「……」
ブラッディの瞳が細められる。ああそうだ、姫様は人質とも言える立場で輿入れしたことには違いねえ。しかし、お飾りの生きた誓約書であれば良かったはずだ。なぜ俺がそばに付いていなければならなかったのか。わざわざ遠方で戦いに従事していたのを呼び戻されてまで。
不意に湧いて出た微かな疑問は、彼の中で疑惑へと変わっていった。
今の状態であれば、お付きの者としてブラッディほどの適任はおらぬであろう。誰かがこの事態を既に予測していたとでも?
…小難しいことを考えるのは柄じゃねえ、と彼は頭を振った。あくまでもブラッディの任務は、アルバスを守りきること。
黙ってしまった彼の心を読むかのように、当のアルバスはそっと口を開いた。
「おまえはなぜ戦うのだ、エスラ。いや……ブラッディ。おまえが剣を突き立て生命を絶ち切るのは、見も知らぬ人間。憎いからではあるまい」
あまりにも静かな声に、ブラッディはそっと詰めていた息を吐き出した。
「俺の戦う理由など一つしかねえ。姫様、あんたを守る為だ。それが俺の任務だと言われてきたし、そうやって育ってきた。自分の命も惜しくなければ、他人がどうなろうとどうってこともねえ。それがただ一つのコウドウゲンリというやつだ。俺は逆に、姫様の方が不思議でならねえよ」
その言葉に、アルバスは少しばかり小首をかしげた。ぷつりと剣で切り落とされた髪先が揺れる。豊かな髪は高貴な女性のあかし。生まれ育ったシェイルランドから連れてきた侍女のルルが見たら、悲鳴を上げるか卒倒するか。
しかし、アルバスはもはや何もこだわってはいないかのように一言も繰り言を言わずにいた。今はおのれの身分が知れてしまうことの危険性を、重々感じているからであろう。
「俺はあんたがほんの赤ん坊の頃から見ている。よく知っている。こんな下々の者に馴れ馴れしく言われて不愉快だろうが、俺にとっては姫様はすぐそこにいて手の届く…それでいて雲の上の存在だ。先代の国王様も王妃様も、兄上様からもあんたの護衛を拝命している。だからこそ助けるのが当たり前だと思っている。だがな、あんたは違う」
「どう、違うというのだ」
見た目とは裏腹の落ち着き払った声。どのような格好に身をやつしても、彼女はやはり支配する側の人間なのだ。
「じゃあ訊くが、あんたが戦う理由は何だ?俺にはちっともわからねえ。俺はただ、あんたが逃げるというから救い出し、あんたが兄上様のところへ『あくまでもトゥーラン連合王国の統治者として』行くと言うから護衛しているまでだ。俺自身の考えなどいらねえだろうが、あんな冷てえ国なんかさっさとほっぽり出して普通に国に帰ればいいのにと思うけどな」
最後の方はわざとはすっぱな物言いをしたブラッディに、アルバスは軽く笑い声を上げた。
「私が、私の考えがおかしい、と?そう言いたいのかおまえは」
もう一度訊く。ブラッディは横を向き、真っ直ぐにその輝かしい彼女の瞳をのぞき込んだ。なぜ戦うのだ、と。
「私はトゥーラン連合王国の王太子妃であり、今はこの国を治める代行者でもある。トゥーランが滅び行くのをみすみす黙って見ているわけにはいかぬ」
きっぱりとした口調で、アルバスは言い切る。誇り高きクラウンプリンセス。
「この国って、あんたを幽閉して無実の罪をおっかぶせ、直接手を下して殺そうとしたヤツらのことか?そんなものに義理立てて…」
「私の言っているのは、そのような狭い王宮の勢力争いなどではない。この国の民を守らんが為に、だ」
この…国の……民。なぜかブラッディは口の中でその言葉を転がした。上手く咀嚼も飲み込むこともできぬ思いが、苦さを広げてゆく。
「会ったことがあるのかい?姫様はよ。その民ってのは何て名で、あんたとどう関係があるんだ?一緒に飲んで騒いだとでもいうのか?それこそ、見も知らねえ輩どもの集まりじゃねえのか、国ってのはよ!!」
…ブラッディ…
必死に声を抑えながら、それでも高ぶる感情をもてあまし気味の彼に、その名を呼ぶ。本名であるエスコラゴン-エスラを口にすることは禁じられた。名は魔を呼び、人の魂を連れ去ってしまうこともあるのだから、と。
「わかってくれとは言わぬ。しかしそれが王族というものなのだ。我々は何も権力が欲しいが為に戦うのではない。王に連なる人々と呼ばれる代わりに民に豊かさをもたらす。それが我らの使命なのだからな」
そう思っているのは、案外あんただけかもしれねえってのにさ。この繰り言はブラッディの胸にしまっておいた。誰もが最初はそうかも知れねえ。しかし、一度その権力を手にしてしまえば、あまりの美酒に酔いしれてしまうのが凡人の哀しさ。だからこそあんたは、真っ直ぐすぎるほどにまっとうなあんたが追われているのではないか。
ブラッディは遠くを見やった。ようやく夜が明ける。
白き蝶は、あの変化を見せることなく、ただ静かにアルバスの肩にとどまり続けていた。
「まだわからぬと言うのか!?」
執務室にラスバルト公ガジェスの怒声が響き渡る。その場の者が凍り付くかのような厳しい叱責。
「は、ただいま鋭意捜索中ではありますが何しろ全く足取りが…」
「同じ言葉を何度聞かせれば済むのか!!進展はないかと訊いておるのだ!」
国王がこの場にいれば或いは、若く血の気の多いガジェスの肩に手を置き、彼をなだめることもできたであろう。しかし今のトゥーランにはそのような勇気ある者は誰もいるはずもなかった。
「女の足です。それほど遠くに行くはずもありませぬ。ですからもう少々時間をいただければ」
気丈にも言い返した軍統括副司令は、鼻先に突き付けられた剣に息を飲んだ。
ガジェスの肩が怒りで上下している。これでも精いっぱいおのれを律しているのだ。でなければ部下など、あっさりと斬り捨てられていることだろう。
「もうよい!何かあれば私の部屋へと早急に連絡を入れろ!それまでは誰も近寄るでない!!」
これでは下々の者も民もついてはゆけぬ。しかし、そのことをたしなめるだけの人材も現在のトゥーランには存在しないのだ。そして…国王一家が力を弱めてしまった今、何とか総指揮を執れそうな者といえば、うら若きガジェス以外には考えられぬ。
カツカツと靴音も高く自室へ向かっていた彼は、不意に足を止めて振り向いた。部下らの動揺が見て取れる。
「そう言えば、ラクティクス王子…いや王太子の容態はどうだ?」
「は、依然昏睡状態から目覚める気配もなく。しかし脈も呼吸も浅いながらも安定はしております故、急変ということはまずないであろうというのが医師団の見解でございまして」
ふん、悪運の強いヤツだ。これは周りに聞こえぬほどの小さな呟き。今彼に死んでもらっては非常に困るが、生き続けられても目障りだ。愚かな国民は弱々しい王太子を我が子のように心配し、慕っているって訳だからな。
しかし……。部屋へと通ずる廊下でガジェスは顎に手を当てた。端正だが残虐さのうかがえる表情が戸惑いを帯びる。
なぜここに来て、急に王太子の容態が急激に悪化したのか。
少し前までは座って会話もでき、執務の手伝いくらいはやっていられたものを。
まさか、愛する王太子妃と逢う機会が減ったからと、生きる気力とやらも失ったか。ガジェスは深刻な場ではあったが、あまりの王太子のふがいなさに笑い出したくなった。
処刑を待つ身などと知らせるわけもない。しかし全く接触は禁じられ、王太子妃は伏せっているとだけ公表された。世継ぎ…などという話ではないことは誰もがわかる。詮無いこととして。
そう言えば、キャスリンがここを脱したのと時を同じくするように王太子は昏睡状態となった。
呼応する何かがあるというのか。揶揄したいわけではなく、これは少し真剣に考えるべき問題だという思いが、ガジェスを覆っていた。
…王家に伝わる機密。それに関わるとでもいうのだろうか…
だから急ぐのだ。それを知る者こそこの国の真の統治者となる。知らずして王座に就いてしまった者には、神からの裁きが与えられると。
私がその地位に就く為には、是が非でも必要なものなのだからな。
ガジェスは部屋のドアを開けて身を滑り込ませるようにすると、部屋の隅にある黒き闇へと視線を向けた。
(つづく)
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