#6
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…ヨコセ、ヨコセ…そのものを我が手に…
獣が話すことなどあろうはずがない。言葉を放つための発声器官を持たぬのだ。できるのは残忍に唸り吠えるのみ。
ブラッディは、これはただの思いこみだと、そう己へと必死に唱え続けた。
自我の恐怖心が作り出したまやかし。あり得ぬこと。
だが、現実に聞こえるのは意味のある言葉。それも多分に悪意を持った…。
耳に聞こえているのか、それとも脳に直接語りかけられているのか。ブラッディにはそれすらも判断できなかった。
わかるのはただ一つ。
こやつらは、俺たちを最初から狙ってきた魔の者だということ。
ならば斬るのみ!
たあっと気合いの声を上げ、彼は果敢に斬り込んでいった。たとえ頭がもげようと胴が割れようと、いつかは仕留めることができるだろう。
しかし獣どもは、ギャイーンと叫び声を出すだけで、再びゆらりと立ち上がってくる。
何度も何度でも。
さすがのブラッディも息が切れ始めた。
それは体力の消耗というよりも、むしろ精神的な無力感。
斬っても斬っても倒れない悪夢が、彼の闘争本能を萎えさせていく。
…ヨコセ、早くそのものを寄越せ…
先頭を守る巨大な狼様の獣は、同じ台詞を繰り返した。
「何が欲しいっつうんだよ!?金目のものなんざ何もねえぜ?もっとも畜生どもが酒代欲しさに襲うなど、聞いたこともねえけどよ!!」
精一杯の虚勢を張る。
いつしかブラッディの手は、黒光りするあの玉石へと掛かっていた。これを使えば或いは。しかしそれには、この獣らの前にアルバスを連れてこなければならぬ。
彼女を危険にさらすわけにはいかぬのだ。たとえこの身が朽ち果てようとも。
もう一度、敵の首領をにらみつけたブラッディの脳裏に、別の音が響いた。
涼やかで清流を流るる水の音めいた声色。獣ではない。何だってんだ!?どっから声が!!
『落ち着け、エスコラゴン。そなたが倒されれば、そののち姫を誰がシェイルランドへと護衛するのだ?おまえ一人の身勝手な英雄願望から、この後の姫を危険にさらしてもよいというのか』
なん…だ…と…?ブラッディは奥歯を噛みしめた。
神か。神が我に神託を告げているとでもいうのか。それとも俺にふさわしく、死せる戦士の神テオヤオムクイの有り難い御言葉か。
全身が過敏になっているブラッディの背中が、かすかに捉えた気配。
ふわりと漂うは、尊き姫君のかぐわしき香り。
「来るな!!姫様は隠れていろ!!」
思わず怒鳴ったブラッディの背後から、細くたおやかな白い腕が伸ばされる。
彼の持つ血みどろの剣に、手が添えられる。僅かに一つだけの装飾品。淡く青く輝く宝石の指輪。持ち主はもちろん…アルバスと名を変えたキャスリン王太子妃。
「下がってろと言ったはずだ!!姫様!!」
彼女の真白き手が、獣の血で染まる。どす黒く変色した生臭いそれを気にもせず、アルバスは黒曜石を包み込むようにした。
途端に始まる振動に、ブラッディは気づくと彼女の手ごと剣を両手で抱え込んだ。
そうでもしなければ、落としかねないほどの震え。
この剣は生きている。脈動を始め、息を吹き返している。弱々しく生まれたばかりの光は、やがて眩く激しい閃光となって、辺りを貫いた。
『目を閉じろ…。まともに見てはならぬ』
今度はその声に素直に従う。ブラッディほどの怪戦士が、闘いのさなかにぎゅうと目をつぶり、必死に耐えているのだ。
何が起こるか、何が起こっているのかわからぬ恐怖に。
ぎゃぃぃぃん!!
ひときわ響く断末魔の雄叫びに、アルバスの身もすくんでいるのが伝わってくる。肩を抱いて安心させようにも、ブラッディ自身でさえ剣を持つ手を離すわけにはいかぬのだ。
「こらえろ、姫様!大丈夫だ。俺たちには…神がついている」
それがどんな神かも知らぬ。邪神か救いの神かさえも。それでも、俺たちは神にすがらなければならぬのだ。
わからぬことばかりのこの状況下で、それだけが唯一の真実に思えた。
白き光は強さを増し、堅くつむったはずのまぶたを通して彼ら二人に存在を示していた。
耐えられぬ。目を開けることがかなわぬほどの光の刺激も、それが何であるのかを見て取れぬことも。
闘いし者の抗い難き好奇心に負け、ブラッディはほんの少しばかりまぶたを開けた。
白き世界が辺りを包む。
その中を、首領の獣がつり上げられてゆく。もはやただの物体と化したのではないか。ピクリとも動きもせぬ。
『戦士エスコラゴン。とどめを』
盗み見はばれていたという訳か。今度はしっかりと目を開くと、ブラッディはそっとアルバスの手を外した。
脈打つ剣の鼓動は止まらない。それでいい。
勇敢な戦士は鍛え上げた右腕を伸ばし、剣を高々と掲げた。左手で姫を下がらせると大きく一歩を踏み出した。
彼の横には、白く輝ける神の姿。
ブラッディは驚きもせず、神の前へと進み出た。
この白き神が、妖の変化を抑えているのは確かであった。
剣を持った戦士は、はっ!と短く声を上げると、空に浮いたままの巨大な獣を真二つに斬り裂いた。
声も上げぬ。
そのものは、夥しい血を撒き散らしながら地へと墜ちていった。首領が倒されると同時に、他の畜生どもの姿は霧散した。
光が薄れるに従い、先ほど斬り捨てた首領の獣までもが影をあやうくさせていった。
剣に残る血糊だけが、この戦闘は夢ではないと伝えているかのように滴ってゆく。
ブラッディほどの男が、肩を大きく上下させ、荒い息をおさめるのに苦行している。
「…礼を言っておくぜ、白き神よ。あんたの欲しいものは俺の命か?」
どれだけ格好が白かろうが、清らかで絶対的な善の存在とも思えぬ。
邪神なら、そして悪魔なら、求めるものはおのが命。
それで姫が助かるのであれば…。
『愚かな…。もはやおまえには告げてあるはず。おまえの命を奪おうて、この先の姫をどう救えばよいのか』
「あんたがいるじゃねえか。神がついてるのなら俺はいらねえ。煮るなり焼くなりどうとでもしてくれ!」
腹の据わったブラッディは、そう言いながら横にいるであろう神を見やった。
そして…息を飲んだ。
透き通るほどの青白き肌は、儚げで消え入りそうなほどの透明感で覆われていた。
色素のほとんどない薄く細く長い髪は、『彼』の胸辺りまで垂らされ…。
背中には淡い淡い薄白き…翅。
ゆっくりとブラッディの方に顔を向け、見つめる瞳はやはり薄い淡いモノトーン。
ほとんど透明なのではないかと思わせる眼球が、こちらを捉える。
細面にすっと通った鼻筋。これもほとんど色のない唇は、薄く微笑んでいる。
『私は神などではない』
「じゃあやっぱり悪魔か、妖の者か。何故俺たちを助けた?」
手が、先ほどの戦闘による血でぬめる剣の柄へと伸びる。ブラッディの身体が非常時に備えて硬く引き締まる。
「待って!」
そこへ割り込むように声を掛けたのは、アルバスだった。
「姫様、隠れてな。こいつが味方ならあんたを任せる。俺の命など惜しくない。だがもし、敵だとするのなら」
「蝶がいない!!先ほどまで側を離れず、声をかけ続けてくれたのだ!!」
悲痛な声でアルバスが叫ぶ。
この一大事に、、虫一匹なんぞに構ってられるか!!
思わず怒鳴り返す。
「そうではない!!『彼』をよく見るがいい!!」
…なに…?
姫の思い詰めた声に、まず彼女に視線を送る。戦士らしからぬ行動ではあるが、それほどの想いを秘めたアルバスの声。
二人で顔を見合わせ、もう一度白き神を見やる。
『彼』は優雅に微笑むと、その翅をゆっくりと羽ばたかせた。
辺りに舞い飛ぶ細かい粒子が、一面を白く覆ってゆく。
鱗粉…。これは鱗粉なの…か。
『彼』の姿が徐々に透明度を上げ、やがて景色に溶け込み、気づくと両手を差し伸べていたアルバスの掌には…真っ白な一匹の蝶。
「まさ…か…、おまえ…」
言葉を失う二人に、素知らぬふうでその蝶は、二度ほど翅をはためかせた。
(つづく)
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