#4
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「この薄衣は…端布ではあるが紛れもなく…」
一人の重臣が手にした布きれにちらりと視線を送ったガジェスは、王太子妃のものに間違いなかろうと鼻で笑った。
「笑いごとか!?生死は未だ不明なのであろうが!」
議長である長老のダグズワール公は、思わず声を荒げた。
高い襟を立て膝上まである重厚な織りの上着にサッシュベルトといった、準正装のガジェスは、その整った容姿とは裏腹にいささか乱暴な口調で言い捨てた。
「差し向けた暗殺部隊共々、行方もわからなければ闘いの跡さえない。向こうには怪戦士エスコラゴンがついている。むざむざと殺られるはずがなかろう。彼らと我が先鋭隊が未だ出会っておらぬか、或いはまた…」
ガジェス殿は、何をお考えなのですか。
年は上であろうに、地位を慮って一人の男が丁寧に問い質す。温厚で知られるパリスト伯その人であった。
国王家の血筋を引き、正式にはラスバルト公と呼ばれるべきガジェスは、閣議に集まった大臣どもの顔をゆっくりと見渡した。
…凡庸どもめ、一人として使える者はおらぬな…
若きガジェスは、先だっての十六年戦争の折りに、この地を遠く離れていて難を逃れた。十六年もの長きにわたった戦争に決着をと、ことを急いだトゥーランの奇襲によりいったんは勝利を収めたかに見えた。
しかし本来の持てる力が違いすぎる上、小国に味方しても利益は望めないと判断した近隣諸国からの援助部隊が引き上げを始めるやいなや、追い込まれたのはこちらの方だった。
危うい均衡の上に成り立っている、このかりそめの平和。もし王太子妃であるキャスリンが人知れず処刑される寸前であったことが、彼女の祖国「シェイルランド」へ知れたら。
当然のごとく、十六年戦争の火ぶたは再び切って落とされることだろう。それは決して妹かわいさ故ではなく、慣例的な国際法に基づいた正当な開戦の口実として。
彼女の兄の好戦的な性格を知らぬほど、ガジェスは愚かではなかった。だからこそ、秘密裏にキャスリンを葬り、病死として立派に国葬を出してやれば良かったのだ。もっと早くにな。
ぐだぐだと閣議だ何だといたずらに時間ばかり取られ、対応が遅れた。その隙にあの女の勢力は強まるばかりであった。それがどれだけこの国へ危機をもたらすものであるか、この者どもにはわかっているというのだろうか。
…もし、あの機密を知られでもしたら…
気が気でなかったのは、王家につながるガジェスだけであったのかも知れぬ。
「言うまでもない、パリスト伯殿。魔の者にすべて消し去られたのかどうか。それを確かめるのが急務であろう。次の隊を至急派遣せねばならぬ」
しかし、あれだけの部隊は早々集められるものでは…。軍政を預かるマシュー総督が青ざめる。人手不足は軍とて同じ。いや、軍こそが何よりもダメージを受けているのだから。
しかし総督は二の句を継ぐことができなかった。
冷酷なガジェスの視線に、マシューはじめ、重臣たちは唇を噛みしめた。
「どんな手段を取ってもかまわぬ。キャスリンの行方を突き止め、その連れともども確実な死を与えろと。今一度、総督命令を出していただけますかな、マシュー殿」
その冷ややかさに、誰もが息を飲んだ。
「どうしちまったんだろかねえ、うちのおひい様は」
うつろな目でため息をつく侍女のルルに、料理番のアッシェは気さくに声を掛けた。
総料理長こそ常に口をへの字に曲げた年配の男ではあるが、実際にキャスリン王太子妃など王室の人々へ食事を作っているのは、アッシュのような年季の入った女性が主であった。
「王太子様もご療養が長いというのに、お元気に見えたキャスリン様まで調子を崩されるなんて」
「…そうね」
彼女が幽閉され、処刑を待つ身であるとまでは知らされてなかったとは言え、嫁いでからひとときも離れたことのないルルである。あの夜たった一晩で、急病のため寝込まれたと引き離されたのだ。
信じたくとも信じられぬというのが本音であった。
「柔らかく炊いたパン粥くらいなら、召し上がれるんじゃないかねえ」
基本的に牢獄のある塔と王室の居住区では、管理形態も違う。塔で彼女の世話をしていた者は、今までかけらもキャスリンと接点のないという厳しい条件がつけられていた。
当然であろう。
どこに間者が紛れ込まぬとも限らぬ。
そこまで用心しておきながら、まんまと逃げ出されてしまったのだ。塔の責任者は酷く責められはしたが、処分を下されることはなかった。
詮無いこと、この国では。
秘密を知る者はごく僅か。ガジェスのような…。
少なくとも、それはルルではないことは確かであった。彼女は頬杖をついたまま、ため息ばかりを繰り返していた。
「お一人で寝てらっしゃるのなら、さぞかし心細かろうよ。ルル、こっそりで良いからお部屋に行っておあげよ」
同じ料理番の女が無責任にたきつける。それに、寂しげな笑みを返す。
「お支度部屋にも入れていただけないのよ。ましてやご寝所なんてとてもとても…」
お疲れが出たんじゃないのかい?お一人で何もかも。アッシェがルルの肩に手を置く。
「…そうね」
ルルは何度も同じ台詞を呟いた。
キャスリンがこの国へ嫁いだ日のことを、ルルは昨日のことのように覚えている。
それは限りなく気品にあふれた花嫁であり、気高く聡明で輝くばかりに美しかった。純白のドレスに身を包んだキャスリンは、輿に乗せられ、道行く人々から多くの祝福を受け続けた。
ただでさえ王室の祝い事だ。それも婚礼となれば喜びもひとしおだろう。しかし、彼らトゥーラン連合王国の国民にとっては、彼女こそが平和の象徴であったのだから。
…これで戦いの日々は終わる。平穏で静かな日々が来る…
十六年は長い。下々の者にとってその年月は、赤子が体躯も立派な少年になるほどのときであり、平和な時代を振り返るには記憶が風化してしまう遠い過去であった。
当時から身体の弱かった王太子も、そのときばかりは白い正装を身にまとい、凛とした表情で彼女を出迎えた。
日頃よりほとんど陽の光を浴びぬラスティクスは、抜けるような白い肌に色素の薄い髪をなびかせ、優雅に微笑んでいた。
頬を上気させ、初々しい花嫁は、そっとそばに寄り添う。
その姿はまるで古代神話の絵画のように神秘的であった。
ルルは、キャスリンの髪が一筋でも乱れぬよう、ドレスの裾がほんの少しでもよれぬよう、目立たぬところで気を抜かずに彼女を見つめていた。
…なんて美しい花嫁なのだろう…
思わずもれるため息は、今とは全く違う憧憬の含まれた甘いもの。
ほんの少し咳き込む花婿を気遣って、キャスリンが彼を見上げる。二人が見つめ合う様は端から見ていても奇跡のように神々しかった。
それが初めての出会いであったというのに。
ラスティクス王太子は、温厚で優しいとの前評判に違わず、常に微笑みを絶やさずにいた。
ただ、結婚式のあいだ立っていたのが辛かったのか、その後のパーティーには国王のそばの座に腰掛け、キャスリンと並ぶことはなかった。
…姫様は一人、全く見ず知らずの重臣から寄せられる祝いの言葉に礼を言い続け、優雅にお辞儀をし続けたんだわ…
気丈にもキャスリンは、泣き言一つこぼさずその責務を果たした。王室を代表しての初仕事。青いドレスが光り輝く。
そしてその陰に、彼女を護衛するよう身を隠すはエスコラゴン。
そう言えば、ルルにだけは軽口を叩くほど気を許しているエスラの姿も最近見かけぬ。
ルルは急に、祖国の訛りを思い出し、この重苦しい宮殿にたった一人残されたのではないかという恐怖に、身を震わせた。
彼女に何の力もあろうはずもない。しかしルルの心は、どこかで異変をかすかに捉えていたのかも知れなかった。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved