#2
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微かな陽が差し込む気配と乾いた干し草の香りに、ふっとキャスリンは目を開けた。
…ここはいったい…
天井は低く、木の太い梁がむき出しのまま色を染めている。夢を見ていたはずなのに思い出せぬ。そんな苛立たしさが彼女をおそう。
「わたくしは」
小さな声でつぶやくと、空気がふるえ、確かに今目覚めたこここそが現実のものなのだという思いが沸いてくる。
ゆっくりと記憶をなぞる。
薄暗いがすべて石造りの荘厳さを持った部屋にいたのではなかったか。あの場所は、付きの者も恭しくわたくしを世話していたが、食事も清潔な寝具も用意されてはいたが、決して自室ではなかったはずだ。
…牢獄…
そう呼ばれるはずの、一切の自由が利かぬ空間。わたくしは幽閉され、あとは処刑を待つばかりの身では……なかったの、か。
思い立った瞬間、時はすべてつながり、キャスリンはとび起きた。耳に残るは、痛ましげな悲鳴。思わず両の手で頭を押さえる。何も聞きたくない。断末魔の叫び声など。
そのとき彼女は、手に当たる感触の不自然さにようやく気づいた。
ない。
あるべきはずのものがない。
こわごわと手を離して自らの髪を視界に入れようと苦心する。目に入った毛先は、豊かに巻いていた自慢の金髪は、無惨にもかぎ裂きのようにぶつりと切り取られていた。
…ひいっ…
かろうじて声を抑え、息を飲む。嫁ぐ際に同行した侍女のルルが、毎朝丹念に櫛を入れ、細かく編み上げた幾本かの三つ編みを器用にまとめ上げ、さらに高く高く結い上げてくれていたのに。まだ若いと言うよりも少女のような彼女が、うっとりと鏡の中のキャスリンを見つめ、おのが手で仕上げた髪に、品よく装飾具を差し込んでいったのはついこの間のこと。
『キャスリン様はこのお国で、誰よりも位の高い女性ですから。そのために神はあなた様にこれほどまでお美しく豊かな髪を授けたのですね』
まるでそれが、生まれついての運命であったかのように。ルルは毎朝同じ言葉をつぶやいた。聞かされる当のキャスリンにとっては、こそばゆくもあり、故郷訛りの声に癒されるほんのつかの間の心許せるひとときだった。
ルル…彼女はどうしているのだろう。
思いを馳せたのも一瞬だった。この髪はなぜこのように、醜い断面をさらしているのか。落ち着いて見回せば、身に付けているのも覚えもないもの。わたくしのドレスはどこへ?このようなものは下仕えの者が着る服ではないか。それも、荒くれた男たちの。
簡素なベッドから勢いよく立ち上がったキャスリンは、そのあまりの身軽さに驚かされた。身体を縛り付けるコルセットも、ふくらんだパニエもない。裾さばきも必要ない。
まるで…幼い子供に返ったような。
それほど、重い重い枷だったのだろうか。王太子妃として生きるというのは。
彼女は聡明な女性であったから、この服に着替えさせたのは彼であろうとは推測できた。髪を切ったのもおそらく。そしてその意図さえも。
わかってはいたが、失ったものの大きさに彼女ほどのものでさえも茫然自失となった。
…国を離れるということは、何もかもを手放すこと…
今、彼女が頼れるのは唯一人。
ドアを乱暴に開けて入ってきたのは、とっくに身支度を終え、手に軽食を持ったエスラだった。
「よお、姫様。目は覚めたみたいだな。とっとと食っちまってくれ。すぐに出かける」
朗らかと言っていいほど明るい声に笑顔。昨日あれだけの人を殺めたのは彼だったはず。引き締まった体躯に目立たぬベージュの薄物を羽織っている。鍛え上げられた腕は肩の辺りからさらされ、手首に革の飾りを巻く。見栄えのためではなく、剣がすべらぬよう。動きを邪魔することのないよう、裾に向けてしぼられた下履きは黒く、あちらこちらにほころびを見せていた。足元はつま先までをも守る軽い革のブーツ。しっかりと編み上げられたそれは、つややかに光っていた。
キャスリンの身とて大して変わりはしない。真新しいものを用意してくれたのは彼なりの配慮なのだろう。ほころびはなかった。
彼に剣をとらせたのは、わたくし。この生命を守るがためにエスラは人を斬った。わたくしを守ることは、そのまま「トゥーラン」を護るということ。キャスリン本人の保身など、かけらほども祈りはしない。わたくしはただ、祖国となったトゥーラン連合王国を救い出したいだけだ。
何から?わたくしは何と戦えばよいのだろう。
情報も何も、一人ではどうしようもない。無力さだけを感じて歯がゆく思うばかり。だからこそ、キャスリンはトゥーランの王太子妃として、実の兄の統治国であるシェイルランドに援軍を養成するがため。
「姫様よお。考え込むのもいいが、早く食ってくれねえか?次にいつ食いもんにありつけるかなんぞ、全くわかんねえんだぜ?」
少々あきれ気味に、物思いにふけるキャスリンをせかす。エスラはその辺の箱に無遠慮に腰掛けた。仕方なく、粒の残るパンに何やらはさみこんだものを口に入れる。
幽閉されてはいても扱いは丁重だった。食事だとて例外ではない。
そんなキャスリンが初めて口にする庶民の食事。こわごわと飲み込む。
「…おいしい」
意外にも抵抗はなかった。ぐっすり眠ったせいか、頭痛も吐き気もない。人の死を目の前にしでもなお、わたくしは食事をおいしいと思えるほどの人間なのだ。頭のどこかがゆっくりと壊死してゆく…そんな気がした。
「あの大脱走から、何も食ってねえんだ。そりゃいくら高貴なお方でもうまかろうよ!」
エスラのあげる快活な笑い声。厭ではなかった。キャスリンもまた、ほんの少し微笑んだ。
「そんな格好をすると、ますますおてんばな姫様を思い出すよ。悪かったな、勝手に髪なんぞ切っちまって」
粗末なサンドイッチを少しずつかじっていた彼女に、珍しくしんみりとエスラはつぶやいた。豊かに光り輝く金髪を、あこがれを含んだ目で見つめていたのはルルだけではないのだ。
「わたくしの身を隠すため。本来なら己で気づかねばならないことだった。礼を言うぞ、エスラ」
ふう、っと深いため息をついて彼は視線をそらした。やるせない。気持ちだけが伝わってくる。
「いつまでも姫様って呼べねえし、まさかキャスリンとも言えねえなあ。一応、兄弟の二人旅ということにしてあるが、あんたは人前で一言もしゃべらねえでいい。宮廷言葉で申された日にゃ、こっちの命がいくつあっても足んねえからな!」
打って変わってふざけた声を出す。キャスリンはぎろりと睨んでみせた。もっとも痛くもかゆくもないだろうが。
「名前を決めるか。何がいいかねえ?あんたのイメージからすると…」
腕組みをしながら暢気な考えごとにふけるエスラを、食べ終えたキャスリンは複雑な思いで見つめる。
そのとき。
わずかに開いた空気の取り入れ口から、ふわりと何かが入り込んだ。エスラの顔つきが変わる。手が柄にかかる。しかし、入ってきたものを確かめると彼は身体を弛緩させた。
「透明な…蝶?」
キャスリンがつぶやく。
それは大きな羽の大部分を透き通らせ、しかし輪郭を黒々とかたどった美しい蝶だった。
風のままにたゆたうかのように、そのものは宙を舞った。
細長く、均整のとれた胴体の部分は黄色く彩られている。見て取れるほどの大きさを持つ。
そして、左右に広げられた羽はゆるやかな曲線を描き、はばたくのでもなしに浮かんでいた。
幾筋もの黒い線が、全体に葉脈のように、あるいは血管のように巡らされている。
下につく小振りの羽も、同じように透き通っていた。
長い触覚に細い六本の足。錯覚にしか過ぎぬとわかっていても、見つめられているかのような大きな複眼がまっすぐにキャスリンをとらえる。
何も言えずに見入っていた彼女に、エスラはぶっきらぼうに声をかけた。
「ウスバシロアゲハだな。この辺にケシの花でも咲いているんだろうよ」
「アゲハ!?この透明な蝶が?」
思わず素直に言葉がこぼれる。シロアゲハ…黄色や黒なら見たことがある。
幼い頃、それこそエスラと網を持って走り回った記憶もおぼろげながら。しかし、目の前の蝶は白というよりも、ガラスのように向こう側が見えるほど透明で。
エスラはかつかつと足音も荒く窓に近づくと、木枠を向こう側へ押しやった。一気にさわやかな風が流れ込む。
振り向いて、ほらな、と一言。思わずキャスリンも駆け寄る。
二階であった彼女の部屋からは、下の花畑がよく見渡せた。
そこに見えるは、ウスバシロアゲハの乱舞。数えきれぬほどの蝶が、透明な羽をはためかせてお互いをかわしながら飛び続けている。
「なんて、幻想的な…」
「気をつけてくれよ、姫様。ウスバに似たシロアゲハには鱗粉に毒を持つものもいるからな」
毒…この世のものとも思えぬ光景には、むしろお似合いだと思った。
「シロアゲハ、か。よし決まった!」
な、何が?うろたえ気味のキャスリンに、エスラは指を突きつけた。
「あんたはたった今からアルバスだ」
「ア…アルバ…ス?」
古代語で白を意味するその言葉の響きに、キャスリン-アルバスは変わらず部屋を舞い続ける蝶を振り返った。
「じゃあ行くぜ、アルバス。くれぐれもボロ出すなよ!?」
馴れ馴れしい。今までの彼女なら、一言の元に切り捨てていたであろう言葉遣い。しかし、不思議なもので「アルバス」と呼ばれたとたん、彼女の気持ちは揺れ動いた。
「そなた…おまえのことは何と呼べというのだ?」
幾分声をひそめて彼女は問うた。エスラは、昨日を彷彿とさせる陰惨な表情でにやりと笑った。
「俺のことは、ブラッディ(血にまみれた)とでも」
思わず手を回し、おのが身体の震えを抑えようとしたアルバスに、寄り添うかのようなシロアゲハが頬をかすめた。
白い鱗粉。
そのまま蝶は、彼女の左肩へと留まった。
「おいおい、ずいぶんと心強い番犬がいたものだな」
さっと表情を切り替えたブラッディが、高笑いをあげる。二人は蝶を従えたまま、階下へと降りていった。
この宿を出たら、何が待ち受けているのか。おそらくそれはエスラ-ブラッディでさえも予想できなかったであろうままに。
(つづく)
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