#16
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ふう。
大仰なため息に仕方なくブラッディは歩を止めた。声の主は向かずともわかる。現世のというよりも現身で見ることのできる年格好としては年かさのフェリシダであろう。
「いい加減にしろよじじい!何度休憩を取れば気が済むんだ?これじゃ今夜の寝床を見つける前に山を抜けることができねえじゃねえか!」
この風の心地よさがわからぬとは無粋な。フェリシダのぼやきはことのほか大きい。
そのやり取りに面を向け、アルバスは知らず微笑んでいた。目の端に表情をとらえたブラッディはだが思いは複雑であった。
逃避行ははかどらぬ、それはそもそも想定しうる自体ではあった。けれど追っ手は本気で彼らの命を奪う気があるのだろうか。やんごとなき姫君を連れた旅であり、所在自体を突き止められることなど造作ないはずだ。ましてや当初恐れていたように一個小隊でも差し向けられ、身元もわからぬほど始末されてしまえばそれまでのこと。
ブランカが護っているとでも。
そう素直に信じ切れるほど純粋ではいられぬ。ブラッディはもとより名うての怪戦士であるのだから。
泳がされているのかそれとも、何らかの力の拮抗が我らが身を危ういバランスの中で救うているのか。
たった二人で逃げ出したはずだのに、今や妖しげな蝶とガイラの老人がつきまとう。つきまとうと言っては失礼か…おそらくは何やらわからぬ大きな濁流がブラッディらを呑み込もうとしていた。
それも言葉が過ぎるな。俺ではない。すべては美しく気高きキャスリン王太子妃をめぐる大きな気の流れ。
小難しいことを考えるのは俺の役割ではない。ブラッディはおのれも風を受けようとフードをはね除けた。
匂いが変わる。
じめりとしたトゥーランの風から、それは少しずつ変化を見せていた。豊かな恵みの慈を含むさわやかなそよぎ。彼ら一行がシェイルランドの領地へと近づきつつある確固たるあかしであろう。
この峠を越えれば眼下に広がるは懐かしきシェイルの肥沃な大地。緑の穂がたわわに実を付けはじめ、そよそよと揺れる様は圧巻だ。どの戦いから帰っても心から癒されるのはその豊かな穏やかさ。
しかし、キャスリン妃の輿入れとともにトゥーランに渡ったブラッディにとって、本来ならば二度と目にすることのなき望郷の光景であったはずだ。
複雑な思いはこのような背景をも含んでいるのやも知れぬ。むろん、当人には意識さえしてはおらぬだろうが。
「懐かしい」
微かな言葉は…思わず吐露したアルバス=キャスリン妃の本心であったのだろう。はっとしたように口をつぐむ。
「本当だな。吸い込む気さえこんなに違う。ブランカは白き国と言ったがどう考えてもトゥーランはよどんでいる。白ってのはもっとさばさばした雰囲気だと思ったんだがな」
「乾いた涼やかさと飢えかつ干涸らびし絶望とは違うものであろう、怪戦士」
皺の寄り始めた口元から重々しく紡がれる言葉に、怪戦士と呼ばれた男は目を細めた。
「じじいの言いそうなこととは思えねえな。ブランカに言わされているのかさもなくば謀る気か俺を」
気も早く柄に手をやるブラッディに目を向けると、フェリシダはふぉふぉふぉと笑い出した。
「おぬしの賢しさは戦いには無用だよの。全くもって宝の持ち腐れじゃて。まさしく私は観し者伝えし者。おのれの役割など重々承知しておるわい」
怖がるふうでもなくひょうひょうと言ってのけるガイラの民に、ブラッディは手をゆるめた。当のブランカは風にたゆたい、姫のまわりを優雅に舞うばかり。その周囲だけが幽玄をまとう。
「トゥーランが飢えているとでも言うのか。それは文字通り金がないと?」
もとより周辺諸国のような資源を持たぬ国。痩せた大地に細々と慎ましく暮らしていた小国が肩を寄せ合ってできたトゥーランである。しかし賢王バッスナールが統治していたついと先ほどまでは大きな内乱も目立たぬはずであった。
妖を寄せ付けたのはなぜだ。もしくは妖に取り憑かれてからあの国は傾き始めたのか。
「金も人も、ない。それは彼の地の民がひしと感じていることであろうて」
他人事のように、たしかに他人事に過ぎぬのだろうがあまりにさらりと言ってのけるフェリシダに、アルバスは眉をひそめたかのように見えた。
彼女の心も揺れている。おそらくはひさびさに受けた故郷を感じさせるこの風のせいか。
「十と六もの年を重ねた争いは、国と民とを疲弊させもうた。人は去ったのではない。戦いで命を落としたのだ」
「必要だったんだろ、いくら小せえ国だとしたって。意味もなく大国に向かっていくようなばかげた戦争をして何になる。ましてバッスナール王は剛健王として名高い。俺のような一戦士でさえ名も聞き肖像画さえも見たことがあったくれえだ」
では。
意味ありげにフェリシダは言葉を切った。わずかな静寂はときに饒舌であり雄弁である。
…これだから頭でっかちの民はよ…
気づかれぬように空を仰ぐ。その反応に満足したのか、フェリシダは再び口を開いた。
「おぬしの目から見て、肖像画の剛健王と現身の王とでは同じであったかの」
「はん。絵なんざ散々ごてごてと飾り立てるものなんだろう?ましてや俺が会ったのは婚礼の日、王は病をおして無理にでもと臨席されたんだ。拍子抜けしたのは本心だが、そんなこと周りに言える訳もねえだろうが」
苦く笑う。七面倒くさい連合王国を統べる名高き賢王に逢えると、少しばかり緊張を覚えた我が身が今では面はゆい。
「王は変わった。変わったのはむろん王だけではないがの」
重々しい神託。口を開くはフェリシダなのかそうではないのか。それを見極めるにはブラッディには荷が重すぎた。
「てめえはガイアから歩いてここで俺たちと出会った。バッスナール王もトゥーランの面々も知らねえだろうが」
低くうなり挑発してみるが一笑に付された。観し者だと言うただろうて、と。
「翼を持ち、獣語を操るという噂は本当だったって訳か」
飛びはせんよ、ブランカ殿ほどの魂の位はないからの。相も変わらず人を喰った物言いをする。
「この身は飛びはせん。しかしながらて人の思いは空を飛び間を歪める。それが観し者には観えるというだけのこと」
ブラッディは眉をひそめるだけにとどめた。わかってはならないという警告だけが頭の中に鳴り響く。この男の言葉は俺の動きを惑わせる。それはときに…命取りになりかねないのだ。
それでよいのだとばかりに頷く様さえ腹立たしい。わずかばかりの休憩を切り上げてブラッディは歩き出した。
「おおい待ってくれい。もう少しばかり老いた者にはやさしくするものじゃて」
「じじい扱いするなと言ったのはてめえの方だろうが!」
先頭を歩くはブラッディと名を変えた怪戦士エスコラゴン。して馬に揺られし護るべき姫は男装束に身を包んだアルバスことキャスリン妃。荷物を持たされてよたよたと後を追うガイラの男フェリシダ。そして…。
宙を軽やかに舞うは透き通る白き翅を持つ蝶-ブランカ-。
奇妙な一行は少しずつ目的の地であるシェイルランドへと近づきつつあった。
彼らは知らぬ。
豊かで穏やかなその地に、今まさに黒き暗雲が立ちこめ始めていることを。
ざっざっと金属の擦れる音は決して美しく響き合うことをせずあたりを包む。策士ガジェスもといラスバルト公のかき集めた兵はゆっくりと彼の地への進軍を進めていたからである。
人知れず。そう…誰にも知られてはならぬ。
キャスリン妃の兄であるシェイルランド王…その城に攻め込むのだという無謀な奇襲のことなどは。
時はゆっくりと過ぎゆく。キャスリン妃らの周りには。
ガジェスの周りには、同じはずの時が別のタームで刻まれてゆく。時はかように歪みたがめられてゆくもの。
知る者は少ない。時の怖さを。
風はそよぐ。人の思いなどを蚊帳の外に置きながら。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2012 keikitagawa All Rights Reserved