#15
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その翅は紗の薄物よりも儚げでその向こうの現をかいま見せる。おのが力を誇示するふうでもないが、たおやかにそれでいてふうわりと翅を広げる様を、ブラッディでさえも初めて目にするやもしれぬ。
これが、彼なりの礼を尽くした挨拶なのか。とするならばまるで子どものように小柄でみすぼらしいガイラの男は、それほどの意味を持つのか。
ブランカの瞳は、どこを見つめているのか。人と同じ二つの目を持つというのに、四方を見透かされている錯覚さえおぼえる。
複眼という単語を前にアルバスから教えられた。蝶の眼は人とは違うのだと。細かな目が集まり、一つの形を作り出しているのだと。
だからこそ広くを見渡すことができる。ブランカほどのものであれば見えぬものも見えてしまうことすら致し方ないのであろう。
そして、本来なら精密に組み立てられた機械のようでしかない蝶の眼に偽瞳孔と呼ばれるものまであるのだと。偽に作られた瞳状の文様。何が為に。わからぬ。
だからこそブランカをまともに見てはならぬ。そういった思いまでいだかせてしまう。
それほどの神秘な両の眼を、彼は涼やかにガイラの男へと向けている。
フェリシダは静かに立ち上がり、どこで見知ったのか、王族へ向ける礼を捧げた。
「我が名はマリポゥサ=ブランカ。この者らからはブランカと呼ばれている。そなたも同じようにされるがよい」
ではブランカ殿。馴れ馴れしくもフェリシダはさっそく呼びかける。この出逢いもまた、かの妖の民にとっては予期していたこととでも言うのか。
ブランカは応える代わりに、わずか翅を揺らす。辺りにきらめく粉が舞い飛ぶさまは幽玄。色という色はすべて光には勝てぬ。まばゆい光が彼を包み込み、白と言うにはあまりにも澄んだその淡さに、ブラッディでさえも眩しさに目を細めた。
「あなた様方を追う輩の中には、私どもガイラの匂いを感じまする。力不足は否めませぬが微力ながら私めも」
「妖には妖。ならば白には何を」
小さき鐘を鳴らすかのような声を確かに聴いた気がする。頭に響いているだけのはずだのに。蝶は発声器官を持たぬ。しかし、目の前のブランカは…神という名の人に違いない。
そう、彼もまたなにがしかの人なのだろう。妖も魔も人であるとするならば。
禅問答のような問いに、フェリシダははっきりと応えた。白きものには闇のごとき黒が、と。
その言葉に呼応するかのように、ブラッディは思わず剣を握りしめた。鈍く黒光りする大切な石を抱え込む。
「では、我らが行く地を伝えよ。観し者、伝えし者、ガイラの男フェリシダ」
「白き者は黒き存在を求めるのは自明の理。黒き大地はこの山を越えたかの地にあることはもはやご存じのはず。我々は行くほかに道はないのでございます」
山を越える、だと?越えればそこは、そもそもアルバスとともに目指していた祖国があるのだ。
「シェイルランドは黒き大地なんかじゃねえぞ」
思わず口を挟み、賢者にも似た冷徹な視線にブラッディほどの男が怯えた。それでも我が祖国なのだ。黒に付随する妖めいた雰囲気なんぞ、あの国にはひとかけらもない…はずだ。
「あの国の民はみな、健全で明るい。大らかさと陽気さを持っている。大地は豊穣で陽の光も水もたっぷりとある。窓は開け放たれ、いつだって風が吹き抜ける。シェイルの民である俺が言うのだ!!それに…」
言いかけて口をつぐんだ。本来なら何としてでも伝えたい。何よりも健やかな心を持つのはキャスリン・カスティーヌ王女に他ならぬ、と。
名を出してはいけない、不用意には。フェリシダをもはや疑うわけではない。それでも彼女はここではアルバスなのだ。それを信ずる者がいないこともわかってはいるけれど。
あんなじめじめしたトゥーランの王太子妃なんぞ、まったく似合わねえ。彼女はシェイルの伸びやかな大地こそふさわしい。
ああそうさ、黒と言えばずっと、陰謀が渦を巻いているトゥーラン連合王国の方が似合うだろうに。
ブラッディの心など、とうに読まれている。それは感じていた。
ブランカはそうっと翅を閉じ、背に納めた。そして意外なことに口そのものを動かし、先ほどの印象とついぞ変わらぬ声を発したのだった。
「正直な男だ、怪戦士。黒きものは妖、か。そなたの認識では」
そうだと言わんばかりに胸を張り、ブラッディは開き直った。妖同士の会話に口など挟みたくもない。が、シェイルを貶められることだけは許せることではなかった。
おそらくそれは、王女を慮ってのことであろう。彼自身が気づくことはなくとも。
「黒は豊の象徴だとは思わぬか。白き大地に水はあるか。植物は育つか。人は生きながらえるか。水が土壌を湿らし、黒き広大な地が広がるからこそ、民は豊かに暮らしてゆける」
光だけでは何も育たぬ。すべてを干からびさせ、力を奪う。森を見よ。鬱蒼とした森がシェイルランドを囲むが故に、心地よい風と程よき涼やかさが彼の地にもたらされる。して、シェイルランドが黒であれば、白は。
ブランカは言葉を切った。が、頭に響く声などなくともブラッディにも伝わる。
この蝶はどこから来た。トゥーランだ。そしておそらくは…トゥーランに連なる者。白は純潔を想像させる美しさしか思い描けずにいたブラッディにとって、ブランカの国を憂う想いが我が胸に届く。
ああそうだ、確かにトゥーランは白だ。白いが故に悲しみを内包する。
争いは絶えず、国土は痩せ、民は疲れ果てている。
彼もまた、敵か味方かも男か女かもわからぬ神もまた…国を想うのか。その彼が王太子妃を護る側につくのはなぜか。それがトゥーランを救うと考えているとでも言うのか。
ふっと口元をほころばせたのはブランカであった。ブラッディの目が警戒にゆがむ。
「前にも一度伝えた。そなたはやはり、周囲が思うよりよほどものを観る力を持つ。我々の遣う言葉でさえ、表層の意味ではなく真意をとらえる。そなたの思うとおり、私はトゥーランを蘇らせたく思うておる。時すでに遅しと絶望にとらわれるのは、まだ早いと私は信じておるのだからな」
「あの国は死にかけてるってのか。のっけから、少々おかしなところだとは思っていたがな。あんたとはようやく意見が合ったな」
わざとはすっぱに言葉を投げつける。小難しい話で煙に巻かれてはたまらない。すべての会話を理解できている自分だと、自惚れるほどの男ではないからだ。
「けどな、少しは安心したよ。あんたの目的が国を救うんだったら、何のためにこうやって一緒にくっついて飛び回ってるのか、まあわからなくもねえからな」
そうだ、おそらくはそれがわからぬ不安にずっと駆られていたのが負担であったのだ。アルバスと名を変えた王太子妃を護りつつ祖国へと援軍を頼みにゆく怪戦士にとって、妖も人型の蝶も想像を超えるもの。
得体の知れない神でしかなかったブランカもまた、自国を護りたいが為の行動なら理解できる。事情が許せば手を組むこともできるだろう。そのために必要だというのなら、薄汚いガイラの男フェリシダとともに旅をすることさえやぶさかではない。
現実主義者とは…。旧友サディアの言葉をもう一度反芻する。
「あーあ、こんな連中と山越えか。こりゃあまた無謀にも程があるぜ。ちっせえ蝶と小汚いガキのようなじいさんがお供とはな。アルバスの乗る馬の方がよほど頼りにならあ」
健全なシェイルの民、ブラッディこと怪戦士エスコラゴンは、二人に当てつけるかのように大仰に嘆いて見せた。
「使える兵はいかほどだ。すぐにまとめて報告せよ」
「お恐れながらガジェス殿…、シェイルランドへ挙兵されるのは時期尚早かと」
震えながら進言した軍幹部の一人は、ガジェスの一瞥に声をなくした。斬り捨てられずに済んだことを己の幸運と思えとばかりの視線に顔を伏せる。
「開戦の根拠がはっきりしないままでは、逆に他の国から攻め入る隙を与えてしまうのではないでしょうか」
命知らずと言われようがこれだけは言っておかなくてならなぬと、次々と幹部らは口を開く。
それほど、軍議での若きラスバルト公ガジェスの発言は唐突であったのだ。
議を取り仕切るダグズワール公は年老いた。血の気はやる実質的な支配者のガジェスをたしなめるほどの力を失っている。いや、失わされていたというたほうが正確であろう。
穏やかと言えば聞こえはいいが、要は腑抜けのパリスト伯は戦いには向かぬ。シェイルランドから迎えた王太子妃を探し出せぬマシュー総督の声も弱々しい。
すべては長きにわたる各国との戦争と、とても治まっているとは言えぬ内紛がもたらした、有能な人材の慢性的な不足による。
連合王国の名の通り、トゥーランはそもそも一つの民族からなる確固たる大国とは言い難い。緊張を強いられる均衡の中、剛健で知られた国王バッスナールへの信頼の元で民はつながっていたのだ。
混沌とした中で戦争は多くの貴重な重臣を失った。そして今、国王は病に伏せ、王妃は亡く、王太子は病弱。
王家に連なるラスバルト公ガジェスに頼るほか、現在のトゥーランが取るべき道はなかった。
端正な顔立ちに似合わぬ荒々しい気性で知られた彼は、しばし口をつぐんだ。周りから諫められたからではないであろう。むしろ、その静けさに軍議の出席者らは気を引き締めた。
「開戦の根拠などはっきりしておる。すべては元王太子妃の謀りしことだ。女ごときに何ができる。キャスリンの裏にはシェイルランド王国がひかえている。つまりは当初から彼の国は我がトゥーランを狙っておったのだ」
キャスリン元王太子妃…。その名を聞く臣下らの胸中は複雑であった。逆に、ここで彼女が采配をふるうてくれておれば、ここまでの混乱は招かずに済んだものを。
聡明でいて控えめな彼女を、また、仮にと任された国政を適確にこなす王太子妃の有能さに舌を巻き、彼女こそが次の世代を担うてくれるものと信じていたというに。
ガジェスが最初から王太子妃を陥れようと画策していたとは思えぬ。何が起こったものか、実際のところはガジェス自身にもはっきりとは掴めてはおらぬのだから。
だが、目に見えぬ大きな流れは王太子妃を元王太子妃と呼ばざるを得なくさせ、彼女は幽閉された。
未だ、逃亡後の行方は掴めぬ。
根拠もなく幽閉したとなれば、攻められるのはトゥーランの方であろう。すべては秘密裏に片付けなくてはならぬ。ことは起きてしまったのだから。
「しかし、王太子妃がなにがしか謀りごとをしたという証拠は…」
「あの女は、自らの夫であるラスティクス王太子に毒を盛ったのだ。彼の容態を見ればわかるであろう。昏睡状態から覚めぬ。我々が気づいてあの女を引きはがしたからこそ、かろうじて生命維持が図られている。そうは思わぬか」
純粋な国王家に近づける者は限られている。さらに、何らやましいことがないのであれば、なぜあの女は逃げ出したのだ。いや、逃げ出せたのだ。あの塔から。
軍議に集う者らは顔を見合わせた。妖の力でもなければ逃亡は無理と思われていたことは確かなのだから。
「さらに、側につく怪戦士と名高いエスコラゴンも時を同じく姿を消した。考えてもみたまえ。護衛の者が必要というのは理解できよう。がしかし、なぜ和解のための婚姻であったはずのトゥーランへの輿入れに、あのような戦士が送り込まれたのだ」
ざわめきは少しずつ声になり、戸惑いの視線が飛びかい始める。人の心はこのように至極簡単にたばかられる。
おのれの頭を使わぬのは凡庸の何よりの証拠だ。ガジェスは一人、口元をゆがめた。
理由などどうでもよい。早く攻め込まねば。あの女どもがシェイルランドへと助けを求める前に。我が先に白き蝶の群生地を見つけ、おのが頭に王冠を載せる為には。
「奇襲を掛け、一気に攻め込む。次の軍議までには人員と装備を十分用意できたと報告できるようにな」
奇襲…。動揺は動揺を生み、別の意味で緊迫した面持ちの臣下らは声も出せずに身を固くしていた。
(つづく)
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