#12
#12
トゥーラン連合王国を実質とりまとめ陣頭指揮を執る若き支配者、ラスバルト公ガジェスは、白き粉にむせらぬよう思わず口元を手で覆った。
…トゥーランの生物分布には他の国と違う特徴があり、他所ではめったに見られぬ種でありながらトゥーランの山中には多く生息している昆虫がいます…
怯えながらもおそるおそる進言したうだつの上がらぬ生物学教授は、貧相な身体をさらに丸めつつ、彼の後ろに控えている。
当の本人、王立学問研究所メンバーに加えられたばかりのシュルツ教授が指し示した場所が、ガジェスの立つこの丘であった。
「この白き蝶どもが、教授殿の仰るウスバシロアゲハという訳なのですかな」
付きの者も下がらせ、二人だけで宙を見やる。気性の荒さで名を知られるラスバルト公とも思えぬ言葉遣いに、気弱そうなシュルツはますます身をすくませた。
「ええ、そうでございます。アゲハにもさまざまな種類がおりますが、ここまで透き通るような白さを備えたものは、このウスバシロアゲハしかおらぬと私は記憶しております」
ふっとガジェスらしからぬ笑みをもらすと、彼は視線を蝶に向けたまましばし黙った。
幻想的という言葉が手垢のついた陳腐なものにしか思えぬほどの、幽玄さ。
翅を極限まで透き通らせたその蝶らは、一度羽ばたかせるごとに白き粉をふうわりと辺りに撒き散らす。それは美しさというよりも禍々しささえ感じさせるほどに。
「この粉を吸えばどうなる」
「ウスバには毒性はありませぬ。似た蛾の種には皮膚も骨さえも溶かす鱗粉を持つものもおりますが」
先のブラッディらが遭遇した毒蛾を知るよしもないであろうが、シュルツはそう付け加えると己もまた丘を見渡す。
生物学を極めし学者にとっては、この上もなく貴重なフィールドワークでさえあるのだろうか。目は細められ、心なしか恍惚な表情までをも浮かべている。
しかし、ガジェスは違っていた。
既に口元を覆う手は下げられ、さりげなく腰の剣柄へと置かれている。ここにいるのは己と弱々し気な教授のみ。しかし、いやしくも一国を統率しようとする身は、何かを感じているのか…気を張り詰めつつあった。
「教授殿、一つ問うておきたい」
静かで穏やかですらあるガジェスの言葉。珍しい蝶を目にして饒舌になりかけていたシュルツは、何ごとかと息を飲んだ。
「……なぜ今、私にこの蝶を見せたのです?」
仰る意味がわかりかねますが。途端におどおどした態度を取り戻した教授は、しどろもどろにそう応える。
「白き粉、この国にまとわりつく<白>という色。それについては確かに私は言及した。が、これほど都合良く<蝶>という言葉を我が身が耳にするとは思えぬ。今、この時期に」
シュルツの顔がみるみる青ざめる。
「何の意図があって、私に蝶を突き付けるのだ。教授殿が何もかもご存じということか。さもなくば…どなたかの差し金、か」
低くゆっくりと発せられるだけに、ガジェスの言葉には相手を突き刺すような鋭さが含まれていた。気の毒な教授は口を震わせるのみ。何一つ弁明できぬまま。
「教授殿に話す気がおありでなかろうと、こちらはいくらでもお話ししていだけるような手管は持っておるつもりですよ」
<白き蝶>は、国家を揺るがすほどの重要機密であるはず。一介の王立学問研究所所員ふぜいが知るよしもないだろうに。
確かに蝶の鱗粉ほど、ガジェスの口にした白き粉に相応しきものはそうそうないであろう。問題は、なぜその言葉がこのように呆気なくも発せられたかということ。
あまりにも符牒の合いすぎる話の流れに、切れ者には違いないガジェスは不審を抱いた。
…それは必ず意味を持つ…
ゆっくりと彼は柄を上げようとする。剣を抜くつもりなのかとシュルツは目を見開いた。
身体を震わせ、大仰に嘆き騒いで命乞いか。下らん。小さい男よの。ガジェスは見下すように表情を歪ませ、教授の反応を待つ。
が。
シュルツ教授は丸めていた背を伸ばし、顎を上げてまっすぐにガジェスを見据えた。そこには先ほどまでのおどおどした態度はどこにも見受けられなかった。
ガジェスの目に、警戒の光が宿る。
一度すうと呼吸を整えると、かの教授は低く言葉を発し始めた。
「さすがはラスバルト公殿、と私ごときが申しては失礼にも程があるのでしょうな」
「誰が裏にいる」
無遠慮に問う。凡庸を装っていただけというのか、王立学問研究所へと潜り込んだ妖しげな教授は。むくむくとわき上がってくるガジェスの黒き怒り。
貧相な体躯を黒きマントに覆った生物学教授シュルツは、深き闇をも抱え込むかのような虚ろな双眸をラスバルト公へと向けた。
「私は導きし者。あなた様を正しき流れに気づかせよと命を受け、道筋を照らすのみ。そこから何を得るかは、すべてあなた様の御心一つかと。ラスバルト公ガジェス殿」
毅然とした張りさえ感じさせる声は、先ほどまでの小心な末席教授とも思えぬものであった。
「私を試すというのか。無礼な」
「そうではない、ラスバルト公。そなたにまことの継ぐ者としての資格があるとするならば、自ずと真実を選び取るであろう」
もはやそれは教授の言葉ではなく、どの神かもわからぬ<神託>。信じるべきか退けるべきか、ガジェスでさえ動揺を覚えるのは致し方あるまい。
が、それを面に出すほどの愚かさはなかった。人知れず唇を噛む。
こやつは気づけと言っているのだ。気づける者こそが王座を手にできると。私はこの蝶の乱舞から、何を得なければならぬのか。
白はトゥーランにとって深き意味を持つ色。蝶は権力を得るために必要不可欠な要素。
ラルガヴィーダは何と言っておったか。確か…「遠き翠の丘。して、白き細かな粉」…と。
元を正せば、我らは亡国の王太子妃の行方を追っていたはず。とすれば、この白き蝶が飛び交う丘こそがかの女がいる場所という訳か。
目をさらに細めたガジェスは、辺りに人影もないのにかかわらず声をひそめた。
「白き蝶の丘が他にも存在する。そう思うても良いのですね、教授殿」
ラスバルト公の答えはシュルツを満足させるに値するものであったらしい。わずかに口元をほころばせ、彼は頷く。
「私はこれからあまたの白き蝶の生息地を調査させ、彼らの行方を追えばよいと」
ほうっというため息は、少しばかり。神託は続く。
「ラスバルト公ガジェスよ。ウスバシロアゲハが好む地は実はトゥーランにはない。そなたを導くが為に蝶はその姿を見せているのみ」
その言葉にガジェスはぎりりと歯を噛みしめる。進むべき道は間違ってはおらぬ。が、これからたどる選択肢を一つでも間違えるわけには行かぬ。常に迫られる究極の決断。彼に重責がどっとのしかかる。
国の民を思うでもなく、連合王国の行く末を案ずるのでもなく…ただ己のこうべに載せられし王冠を望みながら。
「教えていただくわけにはまいりませぬか、シュルツ教授殿。して、その地とは」
シュルツは片腕を伸ばし、山向こうをまっすぐに指し示した。その方角は広大な荒野。越えればそこは。
…シェイルランド。なるほど、そういうこと、か…
逃亡者どもは一縷の望みを掛け、王太子妃の兄が治める故郷を目指している。それは間違いない。援軍を頼み、トゥーランを取り戻さんがために。
あの好戦的な彼女の兄が、この機会を逃すはずもない。あの兄妹は最初からトゥーランを狙っていたのだ。
彼女を亡き者にするだけではなく、この白き蝶の生息地がシェイルランドにあるとするならば、逆にトゥーランはかの国へと乗り込んでゆかねばならぬということなのだな。
国家の機密とトゥーランを取り巻く妖の気配の正体と、我が頭上に載るべき王冠のために。
ガジェスは、シェイルランドへと攻め込むためには何をすべきかという、彼にとってはむしろ慣れ親しんだ思考へとおのが意識を向け始めた。
人間の気配、それは少なくとも味方でないことは確かだろう。
ブラッディはなりをひそめてしまった黒曜石の柄を握りしめ、振り向きざますらりと剣を抜いた。
「ひいいい!」
全身を闘うべき神経に向けていた怪戦士は、そのあまりに間の抜けた声に逆にあっけにとられ…手を止めた。
すでに目覚めを終えたアルバスと、澄ました様子で肩に止まるブランカを背後に守りつつ。
彼らの前に姿を現していたのは、手に各々の武器らしきものを持ち、及び腰でこちらに振り上げようとして見せている野の者らだった。
声を上げた男は腰を抜かし、尻もちをつきながらも何とかずり下がろうとしている。ブラッディの剣を避けようと必死だったのだろう。
その数にしてせいぜいが十人もいたかどうか。ボロ布をまとい、顔をすすけさせた老若入り交じった野集団は、剣の切っ先がこちらに向くのを怖れながらもブラッディを精いっぱい睨みつけていた。
「…何なんだ?おまえたちってよ」
気力は買うが武力の差は歴然としている。怪戦士には、もう彼らを斬って捨てようとする気など欠片もなかった。
おそらく手製の斧、もしくは農作業用の鍬やら鎌やら。それでこのシェイルランド一の戦士に、かすり傷一つ追わせることも不可能だろう。ブラッディは腕を下げただけではなく、静かに剣をさやに収めた。
「こっちは何もする気はねえよ。こんなド素人を手に掛けたとあっちゃ、おれの名に傷がつくってもんだからな」
うそぶくブラッディに、野の者らは震えながらも声を上げた。
「お、お、おめえたちだな!?家畜をぶんどっていく盗人どもは!!」
「盗人?」
思いがけぬ言葉に、ブラッディらはとっさに顔を見合わせた。
(つづく)
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