#11
#11
道中の村でようやく馬を手に入れた。歳は食っているが丁寧に手入れされた牝馬。低めの体躯がアルバスには合うだろう。鞍もつけずに、姫君のスカートが邪魔になるからと今までのような横座りになることもせず、彼女はしっかりと両脚で牝馬の滑らかな両腹を抱え込んだ。男装束だからこそできること。
「温かい。生けるものにようやく出会えた気がする」
思わず吐露されるアルバスの胸深くしまい込まれた本心。
これまで旅の間に襲いかかってきた敵は当然のこと、心を通わせた者すらわずか。ましてや位の高い姫君に触れることができるものなど、この国では誰一人おらぬ身。お付きの者が御髪を結い上げるのは訳が違うのだ。
唯一対となる存在の王太子は病に伏せ、距離を保ちつつ微笑みをかわすのがせめてもの心通う時。
「まあ、蝶々ふぜいじゃあったかな血も通ってねえしな。残念だったなあ、ブランカさんよ」
ブラッディの戯れ言を聞いているのか聞こえぬのか、表情さえうかがえぬ蝶は相も変わらず姫の肩へとついと止まるのみ。
「ブランカのことをないがしろにした訳ではない」
急ぎ言葉を加えるアルバスの慌て方に、ついブラッディも頬が緩む。
…ようやく生けるものになってきたのはあんただよ、姫様。このまま二度とトゥーランになど帰らなきゃ良いのにな…
生まれ育った祖国を離れ、両国の平和の礎に成らんが為に嫁ぎ、今その祖国とやらに売国奴として追われる身。下々の者であるブラッディにしてみれば、到底納得のいく話ではない。
王族は人身御供か、人柱か。斬れば温かな血が飛び散るのだ。当然のことながら、その奥に心という柔らかなものを抱えつつ。
しかしブラッディは、もはやアルバスに確かめることをせずにいた。トゥーランは捨てぬ、護り抜くべき私の祖国。アルバスの…キャスリン王太子妃のいらえは揺るがぬことを知ったからだ。
馬の為にも乗り慣れぬ姫の為にも、こまめに休息を取る。革で作られた簡単な地図があることにはある。が、怪戦士と呼ばれたブラッディには風の匂いと小高い丘から見やる風景である程度の方向はわかる。方位は暖かな陽が示してくれるし、夜は夜とて青白き月が我らが行く手を妖しく導かんとする。
…まあ、本当のところ闇にヘタに動きたくはねえな。闇はよからぬものを引きずり出そうとする。それは外からも内からも…
己の心にも、残虐や残忍という感情があることを戦士は感じ取っていた。それは昼の明るき陽の元では姫を護る心強き味方となりうる。が、ひとたび闇の中にまぎれてしまえば、それは己の醜さを正面から突き付けられるのだ。
護る為に闘う。それに何の良心の呵責などない。がしかし、両の手が血で赤く染まるそのとき、アルバスの面にたびたび浮かぶ怯えにブラッディは戸惑った。
誰もが平和を願い、口にし、その為に奔走する。しかし取られる手段は…戦い抜くことのみ…。
疑ったこともない己の行動原理に生じた、僅かなブレ。戦士は本能でそれを恐れた。
これから先、血を流すことなく行けるのか。例えそれが赤くなくとも、妖の者を倒すときにこみ上げる嫌悪感に耐え抜けるか。
アルバスに近づきすぎたのかも知れぬ。戦士は己を厳しく律しようと心に言い聞かせた。彼女はあくまでも我が君主であり、仕えし者。馴れ馴れしい口も思いがけぬほどの近き距離も、彼の判断を惑わす元となりうる。
そう思いつつ、愛剣の手入れでもと思い直したブラッディに飛び込んできたのは、聞くことも慣れつつあるアルバスの慌てふためく声。
「どうした!?姫様!!」
剣を抜き、急いでそばへ近づくと…決まり悪そうな顔をこちらに向けてふくれ面の姫君が彼を見つめている。
「乗馬用の靴が合わぬのだ。本当に大きさを測ったのか?」
今までの薄革では擦れて傷むだろうと、膝近くまでの新しい靴を彼女用に手に入れてきた。それを一人で試そうかとしていたようだ。全く、声を掛けてくれればいいものを。
「あのなあ、姫様。こういう靴は一度、革紐を緩めてから…」
「姫様と呼ぶでない!アルバスと名乗れと決めたのは、おまえではないか!」
少しばかり拗ねた声が、何もわからぬ幼き頃を思い起こさせる。先ほどの決心が揺らいでは大変とばかりに、ブラッディは声を固くした。
黙ったまま紐を緩め、一つ一つの穴に通してゆく。編み上げの靴は面倒だが、道中の負担がかなり和らぐ。旅慣れた戦士であるからこそこれを選んだ。しかし履かせるたび、アルバスの甘い香りがブラッディを包み込もうとする。
「頼む、アルバス。とっとと自分で履けるようになってくれ。さもなくば」
さもなくば?無意識に小首をかしげるアルバスから目を逸らす。そして八つ当たりとわかっていながらも小さきブランカを睨みつける。
「てめえがとっととヒト型になり、紐通しくらい手伝え!!」
ほの白き神のような<彼>に果たしてそれが可能か、実のところブラッディにもわかりはしなかった。しかし、もう一人男手があればどれほど楽であろうか。
甘い香りはなかなかブラッディを解放してはくれなかった。くらりと目眩さえ起こしかねぬほど。
そこまでの事態を迎え、ようやく戦士は身を引き締めた。己の心の弱さにつけ込まれたか、怪戦士よ。この匂いは尋常じゃねえ。この白き蝶と出会ったばかりのケシの香りか。
…ケシではないようだな。これこそ、ダーク・オーキッドであろう…
頭に直接語りかけてくる、というよりもなだれ込んでくるブランカの思念。なんだ、そのダーク・オーキッドってやつは。
広き旅を重ねたはずの戦士であっても、初めて聞く名。ケシと並べられるということは花の名なのか。
…オーキッドとは蘭とも言われる…
「蘭てのは、よく宮殿にごてごてと飾り立てられていたあの花のことか。けばけばしくて王家の上品さには合わなかったな」
風情や風流というものには縁のないはずのブラッディでさえ、健全な眩しさを持つ王家の家族と蘭との違和感には気づいていた。
そう、違和感というものがあの王宮には多すぎた。
剛健王と名を馳せたバッスナール現国王と、反するような線の細い王太子。病に伏せる王に呼応するようにはびこり始めた蘭の香り。
妖とは縁がなかったはずのトゥーランとシェイルランドに、まとわりつくように絡み始めたあやかしの術。
誠実と純血の王女が嫁ぎ、一度は確かにあの王宮には爽やかな風が入り込んだ。乾いた干し草が似合うような健康さが。
いつの頃からか、窓という窓は閉められ、香が焚きしめられるようになった。
「それは何故だ。悪りいが、考えるのはおれの役目じゃねえ。そうだよな、ブランカさんよ」
出てきやがれ!とブラッディが叫ぶより早く、あの白き神はその姿を具現化した。ぞくりとした予感にアルバスを見やれば、視線が空を泳いでいる。
…彼女は大事ない。夢の中を漂うておるようなもの…
「妖の術を使ったのか。あんまし嬉しかねえなあ」
姫様が信頼するならと、この白き蝶を敵ではないと信じ、道中をともにしてきた。しかし、こやつも敵なのだとしたらためらうことはしない。
ブラッディの手がそっと黒曜石の埋まる剣の柄に掛かる。ふうわりと空気がそよぐ。
…そなたも気の短い男よの。私は敵ではない。少なくと王太子妃を護り抜く想いはそなたと変わらぬ…
「あんたが出てきたってことは、この先に何かあると思って良いんだな?そしてそれは、できれば姫様には見せたくはないということ」
食いしばる歯の間から言葉を発する。思えば伝わる、それに慣れることはなかなかできぬ。
…人を斬る闘いばかりとは限らぬ。この先の光景を見るがよい…
牝馬はこれもまた姫を護るかのように寄り添っている。ヒト型を取り戻したブランカは宙に浮く。
それだけでも多分に幻想的ではあったが、歩を進めるたびに強くなる蘭の香りに、ブラッディでさえ酔いそうであった。
坂を上り、そのわずか下をのぞき込んだ彼は思わず息を止めた。吸い込んでは、一生ここからは出られぬ。なぜか確信めいた思いが満ちる。
そこは以前のケシとは比べものにならぬほどの、くっきりとした情景が広がっていた。
一面の蘭が咲き誇っている。それもみな、深く濃くあたかも黒であるかのように見えるほどの紫の花々。
…これがダーク・オーキッド。完全なる黒ではないが、人々はこれを黒蘭と呼ぶ。その色の名には、闇の意味を含め…
闇に咲く花、ダーク・オーキッド。
「これをなぜ俺に見せた?」
香りには酔うてしまうほどの魔力が確かにある。魔性という言葉の方がしっくり来るか。しかし、この花はただ咲くばかり。ただの一羽も蝶さえも居ぬ。
甘くかぐわしい妖しい香りで虫を引き寄せるのではないのか、ああそうだ、またここでも覚える違和感。
…同じものがシェイルランドにある。これではきかぬ。広大な土地一面に咲き乱れ、年間を通し枯れることもないと言われるダーク・オーキッドの群生地が…
「何だって…?」
こんな花、故郷で見たこともない。ブラッディは即座に否定しようとした。
が、気づけばうっすらと息づくように黒曜石が鼓動を打ち始めている。この石が反応するときは…妖が近くにいるのか。
しかし、戦士にはなぜか伝わっていた。この石は今は闘うことを望んではいない。
…逢えて嬉しかろう、黒き石には思い万感の花であろう…
ブラッディの瞳が細められる。黒曜石はシェイルランドのもの、この蝶はおそらくはトゥーランに属する者。なぜ、<知っている>のか。
…なるべく早きうちにシェイルランドへと入るがよい。そして黒蘭の群生地へと向かうのだ。石はそれを望んでおる…
「だったら最初から、石だって故郷を離れなきゃよかったんだよ。おかしかないか、その理屈はよ」
たとえ何度言葉を交わそうとも、気を許さぬ怪戦士。敵かも知れぬと感じた己の嗅覚を信じるのみ。
ブランカは、ふっと笑みを浮かべた。
…そなたは、思うたより物事を考える力を持うておるのだな。失敬。不遜に聞こえたのなら謝罪しよう。そういうた意味ではなく、物事を見抜いてしまうのだなという感慨に近い…
何を言い出すのか、この蝶は。透き通る翅を羽ばたかせ、鱗の粉が辺りを舞う。
…黒き石と白き蝶。そして黒蘭。欠かせぬ純血の王女。全てが揃わねば意味はない。だからこそ彼女は…
言いかけた言葉は途切れた。
靄は一瞬で消え、ブラッディにはおなじみの多分に人間くさい敵意を背に感じた。
(つづく)
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