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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

土筆の空旅、不完全な滅亡を眼下に。

作者: 暖簾


   1


 いつもだったら、ヤコが南の窓のブラインドを上げて、白い朝陽をベッドへ差し伸べてくれる。


「ツクシ、出番だ」


 真鍮の楽器のような心地いい声で、名前を呼び、起こしてくれる。


 今日はヤコがいなかった。昨日の晩に城へ出頭して、店にはツクシだけが取り残された。子どもの手には扱えない品ばかりだから、ヤコが帰るまでは休業、絶対に触るなと約束されている。錆びた金メッキのドアベルが響き渡り、ツクシはいつもより三時間も遅く眼をさました。寝ぼけまなこを擦り、八時を指す置き時計のそばの丸眼鏡を取る。ヤコの手製のフレームは秋の夜にさらされて冷たい。全身の疲れを感じながら渋々おもてに出た。羽毛入りの寝間着がぶかぶかで、足の指先が裾に引っかかる。


「あの、すみません。うちしばらくお休みで……」

「ここが『野狐の鍛冶船』ですか。あなたは?」


 ツクシは戸惑って、背の高い客人を二度見した。


「店の者、ですけど」


 聞こえなかったのかと思ってもう一度、「今日はお休みです」と断ってみる。まばゆい朝陽に目を細めつつ、客人のなりをじっくりと確かめる。


 ヤコのカジブネ他、この辺りの商店をまとめて統治する国家の記章が、客人のよく膨らんだ胸元に気高く輝いている。腰には短刀、背には電波塔のように細く長いライフルが担がれ、体型はいい年頃の女性のようだけれど眼差しは冷え切っている。華奢のわりには戦争もいくつかこなしていそうな風格がある。


「お役人さまが、ど、どんなご用で」

「店の者に会いに。鍛治の野狐(ヤコ)です」

「はあ」


 へりくだりながら、ツクシはおや、と思う。ヤコを連れていったのも、この客人と同じ服装の人たちだった。


「いない、です、いま」

「店主が? ならあなたでも構いません。拾われた哀れな土筆嬢、お手隙なら是非話がしたい」


 客人はそう述べ、ツクシに向かって深々とこうべを垂れた。胸とくびれがなければ、その姿はヤコの敬畏した将軍マクベスに空目する。サーカスでヤコに買われ、カジブネでこき使われるばかりだったツクシは、突然自分に向けられた敬意に慌てふためく。桃色躑躅(ツツジ)の国章を背負う位の人間が訪ねてくること自体、この一帯では滅多にない。それが昨日から合わせて二度目である。


「わ、わたしになにができますでしょう」

「腕前は聞き及んでいます」

「ぜんぶヤコの仕事です。わたしは、なにも」


 両手をバタバタと振って否定する。それでも客人は帰ろうとしない。敬意を解かず、そのくせ玄関には無理矢理踏み入ろうとする。休業と聞いて片付けを後回しにしていたツクシは、どうにか押し戻そうと立ちはだかった。困った顔をされ、我に返って道を開けた。


「埃臭いですね」

「すみません、すみません」

「少し窓を開けましょうか。南と東にあったでしょう」

「は、はい」


 薄暗い店舗を、端から端まで駆け回る。


 いつもは五時にヤコが開けるブラインド。端に通した繰り紐を下に引いて、がらがらと上へ束ねる。窓はツクシには動かせなかった。客人の手を借りて、風を招き入れる。絵描きのバケツをひっくり返したように淀んだ空色に、秋のいわし雲がずっと遠くまで続いている。


「あれ」


 ふと気づいて、ツクシは顔を上げた。


「お役人さま、以前にもいらしたことが?」


 窓辺に立つ長身の女性に訊ねる。東の窓はともかくベッドサイドの南の窓は、天井に吊るされたぼろ雑巾の陰になって玄関から見えないはずだった。初めて来た人間は、先の台詞をいうことができない。


 客人はツクシを無感情に一瞥し、重そうなスリングベルトを床に下ろした。黒い上着を脱ぎ捨て、手近な椅子に膝を揃えて腰掛ける。ヤコが金物を打ち鳴らす間の待合席は、湾岸のフジツボのような形と色で、カウンターに沿って五つ並んでいる。


「ずいぶん、見晴らしがいいですね」


 玄人らしい雰囲気の女兵士は、姿勢よく、長くため息をついて呟く。


「郊外ですが、雲海は観光にいい。足を運んだ甲斐がありました」

「はあ。まあ、この辺り、もうお店も少ないですし」


 ツクシの質問には答えてくれない。じれったくなって、彼女のそばで棒立ちしたまま癖毛をいじる。日中は常にヤコの金槌が鳴り響いているから、明るいのに静かな店は珍しい。


「あの、お役人さま」


 あらためて、問い直そうと居住まいを正すと、それを制するように、客人がツクシの眼をずいと覗き込んだ。


「憶えていませんか」

「えっ?」


 雲一つない、空色の瞳をしている。


「私を憶えていませんか」

「その、じゃあ、やっぱり」


 ツクシは途端に冷や汗をかく。やはり彼女は以前にも、カジブネに来たことがあったらしい。


「すみません、わたし、忘れっぽくて」

「憶えていませんか」

「すみません」


 申し訳なくなって俯く。女の手がツクシの頬に伸びる。つう、とやさしく撫でる。


「もう七年経ちました。ですが背は伸びていませんね。なにも変わらない、あなたは本当に」 


 指先は朝一に握る金槌のように冷たい。打てば文字通り、よく響きそうだと想像する。


「すみません」

「なんです」

「頑張ってるんですけど、なにも思い出せなくて」

「構いません。謝らないで」


 女は乾いた笑いを漏らす。懐かしむような眼で、窓の向こう、雄大ないわし雲を見上げる。陽はあるけれど降り出しそうに、空模様はとりとめがない。


「死ぬときは二人で寄り添って死のうと、あなたは、私と契りを交わしました」

「……えっ?」


 いっている意味がわからなくて、ツクシは言葉を取りこぼす。


「汗と糞尿にまみれたサーカスの地べたで、あなたは、不潔きわまりない唇で私にキスをした。上流の男どもの(にお)いが染みついた、紫色のその唇で。あなたが忘れても私が憶えています」


 女がツクシに視線を戻す。青銅色の瞳に強く穿たれる。凪いだ雲海の中、佇む鍛冶屋の飛行船は決して揺れないはずなのに、記憶や常識が崩れ去る感覚に襲われ、ツクシは思わずその場でよろける。


 すかさず女兵士が立ち上がった。ツクシの身体を両腕で支え、微笑む。


「まるで出来の悪い熱気球のような反応。この空において唯一の〈屈せぬ(うつわ)〉が、こんなかよわい少女のふりなどして」


 ゆっくりと抱きしめられ、豊かな身体が、温もりをツクシに分け与えてくる。


 なにを考えているのか読み取れない。ツクシは、激しく混乱していた。女性とみだらな行為におよんだ経験はこれまで一度もなかった。サーカスの頃に偉い男のひとたちと、心の伴わないことをたくさんして、ヤコに拾われ、ヤコに初めて愛された。契りを交わしてくれたから、初めてツクシの方からくちづけをした。


 ”死ぬときは二人で寄り添って死のう。” 


 ──ツクシとヤコを繋ぐ、大切な契りだった。


「どうして、それを知ってるの」


 抱きしめて離さない腕の中で、必死に抵抗する。


「ヤコはいまどこに」

「案ずることはありません、土筆嬢」

「なにも、なにも悪くないのに。なんで、連れていっちゃうの」

「〈器〉の隠匿は極刑と決まっています。私の意思ではなかった」

「わたしたちの契りを汚さないで」

「私の契りでもある」

「知らない。あなたのことなんて、わたしは知らない!」


 幼稚な金切り声で、客人を拒絶する。また足元が揺れた気がした。あるじを失った飛行船が、啜り泣く代わりに小さく軋む。


 ツクシは、ヤコが御用になった理由を想像する。「滅亡」した雲の下の文明へ何度も降りていったヤコの姿を思い出す。安全かわからないものを勝手に持ち帰って、届出もせずに鍛治を施して、そうと明かさずに売り捌いた。降りるときは必ずツクシも一緒で、どんな貴重な物資よりも大事に扱われた。


 地上にはたくさんの生きた人間がいた。誰もがなに不自由なく生活していた。ヤコの背中におぶわれながら、人々の営みを遠目に眺めた。


「地上で暮らしてはいけないのですか」


 ある日のツクシの疑問に、ヤコは珍しく悪態をついた。


「空旅が嫌になったか」

「い、いえ、そうではなくて」


 教わった「滅亡」という言葉に、似つかわしくない景色が広がっていたから。


「俺は、お前と空で死にたい」

「それはもちろん、そうです」

「この文明は不完全に滅亡している。これ以上いかれることはない。ヒカゲツツジの民が移り住んでも滅亡はしない。ただ、淘汰される」

「トウタですか」


 ヒカゲツツジは雲上国家の直接の統治下にある、雲海の飛行船群の名前だ。かぐわしく鮮やかな桃色の躑躅(ツツジ)を模した国章と対比するように、ヒカゲツツジの街の旗や下水の水門には、淡く黄緑掛かった白の日陰躑躅が刻まれている。


「お前は住めない、ツクシ」


 有無を言わせない口調だった。


「お前は住めない。だから俺と一緒に、空で死ぬんだ」


 その日も地上に気球を垂らして、棄てられた工房から端材を盗んだ。カジブネの滞在する雲海は層が厚いぶん、湿度で建材がよくやられる。ヤコはいつだって生きるために生きていた。自分自身とツクシのために、いけない商売に手を染めつづけた。桃色の躑躅が鬱陶しいとしばしばぼやいた。ツクシもおおむね同意だった。ヤコはツクシを抱かないけれど、サーカスでツクシを使った男のほとんどが、鮮やかな国章を隠そうともしなかった。


「わたしは、どうすればいいんですか」


 女兵士の腕の中で、船の軋みを代弁するように言葉をぶつける。


「ヤコがいないと、わたしは生き方がわからない」

「私が支える」

「ヤコを奪ったくせに、そんなこと」

「極刑は私の意思じゃない」

「じゃあなにができるの。お役人さま、なにが」

「できる限りを尽くすと誓う。私の言葉を思い出して」


 女が抱擁を緩めた。ツクシは腕を振り払い彼女から退(しりぞ)く。なかば諦めたような女の瞳を見ていると、実感のなかった昨日の出来事が、残酷な現実としてツクシの心を襲う。”ヤコが帰るまでは休業”、そんな日は永遠に来ないと、ツクシは心のどこかで理解している。いつまで一人でいられるか、そんなことは考えたくないのに、桃躑躅の女がそれを突きつけてくる。


 思い出せ、という言葉がなにを指しているのか、一瞬戸惑った。


 ”死ぬときは”──……。


 悲鳴が漏れる。


「わたしを、殺しに」


 床に下ろされたライフルが、視界の端に留まる。


 主人を失った脳なしを介錯するため、派遣された暗殺者。華奢のわりに、底冷えするような眼差しを放つその風貌にも説明がつく。結末を先延ばしにしようとするツクシの生涯に、まもなく、容赦なくピリオドが打たれる。


「死にたくない」


 すり足で後ずさる。女がフジツボの席から腰を上げる。


「やめて」

「だが土筆嬢、あなたはそれを望んでいる」

「ヤコと一緒じゃなきゃいやです」

「だから私が野狐だ。何度言ったらわかる」


 奥の部屋に逃げようとしたツクシを、女はまた掴んで引き留める。寝間着の裾につま先が深く引っかかってつんのめった。またしても女の腕に支えられ、流れるように抱きしめられる。丸眼鏡が鼻先までずり下がる。女の胸は汗と雨の匂いが染み付いている。


「なに、いってるの」

「野狐ではないとしたら、私はなんだというのだ」

「知らない。まだ、名乗られてない」

「初めに名乗ったろう、思い出せ。鍛冶の野狐だとたしかに名乗った」


 ツクシは記憶を掘り起こす。要件を尋ねたとき、返ってきた言葉だ。


 女が微笑む。ツクシの最愛が、ツクシにしか見せない表情に似ている。


「……わからない」


 最愛が、女の身体になって帰ってきた。


 ヤコが決して話そうとしなかった「滅亡」の真実と、もしかして関係があるのだろうか。


「あれはヤコに会いにきたって意味じゃ」

「いいや。私は野狐が城に出頭したことを知っている。もうこの店にはいないことも、知っている」

「その口ぶり。あなたがヤコだなんて、やっぱりでたらめにしか聞こえない」

「野狐はたしかに出頭し、今日明日中には処分される手筈だった。けれどそうはならなかった。事実私は、野狐はここにいる」

「ヤコは男です。お役人さま、あなたじゃない」

「あなたは本当になにも知らないのだな」


 女はまた席に腰掛ける。


 スリングベルトを装着する様子も、短刀に手を伸ばすそぶりもない。


「野狐はあなたに、地上のことをどう話していた?」

「お役人さまがヤコなら、どうしてそんな質問をするのです」

「質問に答えなさい」


 ツクシは眉をひそめつつ、ヤコとの日々を思い出す。それこそツクシが疑問を投げかけたあの日だ。


 この文明は不完全に滅亡している。


 これ以上いかれることはない。


 移り住んでも滅亡はしない。ただ、淘汰される。


「核心を突いているが、なにも明かしていないも同然だな」


 女がため息をつく。


「熱気球を出せ。見た方が早い」

「はっ? それは……」

「地上に降りる」

「いいのですか」

「構わない。既に法は犯された。私が城の命令にそむいた瞬間から、居場所は、失われている」


 いいから出せと促される。


 だんだんと口調がヤコに似てきていることに、ツクシは気づいている。


 スリングベルトが拾われる。悠々と二メートルもありそうな背丈を起こしておもてへ向かう。黒いマントに覆われた背中に女性らしい特徴はなく、したがってその姿は混じり気なくマクベスに、あるいはヤコの去り際に空目される。直感で、ツクシは寝巻きを引きずりながら後ろをついていく。彼女こそが最愛の彼だと、根拠もなく確信してしまっている。


「あ、す、すみません。お役人さまのお越しなのに、お茶もお出しせず」


 引き留めるまともな口実は残っていなかった。流し目にもう一度、いいから出せと促される。


   2


 生物、無生物を問わず万物に霊魂が宿っていると、最悪の形で証明されてから10年が経つ。


 元凶がどこの誰かは些細なことだ。年端もない〈屈せぬ器〉に自身の宿命を理解させるだけなら、わざわざ歴史を語るほどでもない。顛末をひた隠す道理もないが、公開された情報は虫食いで霞みがかっている。ただ、”器と霊魂(アニマ)の結びつきが、何かを引き金として希薄になった”とだけ、一般には伝わっていた。液体中の分子の運動のように、ゆたかな流動性をもって霊魂が地上を飛び回る。同時に、各々の器としての素質に、明確に優劣がつくことになった。それが、十年前のことだ。


「高温の熱湯から、さらに高温の熱湯へ、熱を移動させることはできないだろう」

「はい」


 土筆は双眸に高揚をたたえて相槌を打つ。土筆が物理学に目がないことを、野狐は野狐の記憶から探りとっていた。


「霊魂は、まさに熱力学にたとえられるほど、よく酷似した性質をもって器を飛び出した」


 他人、および他の無生物に宿る霊魂を、引き寄せやすい体質が一定数存在した。それがたとえば土筆で、野狐で、ヒカゲツツジに追いやられた者たちだ。凪いだアニマの海にひとたび彼らが降り立てば、霊魂はまたたく間に、より優れた器へと飛び移る。抜け殻は当然のように死に絶える。


 二人きりには広すぎる熱気球で、分厚い雲海へと乗り出していく。


 下降はひどくゆったりとしていたが、もといた飛行船「野狐の鍛治船」は、海面のように張り詰めた雲の層に遮られ、すぐに見えなくなった。


「どこへ降りるのですか」

「どこへ降りたい?」

「わたし、場所の名前わかりません」


 土筆の頭を撫でる。東北の沿岸を選んだ。第六十七雲海の下あたりと、土筆には説明した。


 躑躅の追手に気づいた。


「ヤコ!」


 土筆が叫ぶ。


 事実もう野狐は、野狐の霊魂を授かる以前の性格や記憶を、野狐のそれに書き換えられつつある。


「案ずるな、躑躅の連中は降りてはこられない」


 身長が野狐の腰あたりまでしかない土筆を、優しく抱きかかえる。


「〈屈せぬ器〉はそう多くはない。この程度の案件では奴らも出し渋るだろう」

「なんなんです、それ」

「〈屈せぬ器〉。野狐がお前を地上へ連れていったいちばんの理由は、お前が〈屈せぬ器〉だからだ」


 遠くを飛ぶ兵士の銃弾を、気流にあおられながら間一髪でかわす。兵士の姿が雲に見えなくなる。そろそろ雲海を抜け、地上の都市が見える頃だ。


「無数の霊魂を引き寄せ社会秩序を壊しかねない器は、はるか上空に住処を移した。だが、器の形質にも種類がある」

「わたしとヤコは」

「同じではない。野狐は非常に器として優れたが、あらたに霊魂が入ってくるたびに人格が書き換わった」


 説明しながら、俯く。"私"もそうだったからだ。野狐への刑罰執行に立ち会った"私"は、彼が何らかの方法で掻き回した霊魂の運動に巻き込まれ、彼の霊魂を授かり"彼"となった。”私”は彼の肉体にて処刑された。馬鹿みたいな話だ。


「書き換わったって、そんな」


 土筆が表情を歪める。


「そんなの、わたしは知らない」

「ああ。お前はちがう。優れていながら、どんな霊魂にも支配されない。いつまでも土筆、お前はお前のままで居続ける」


 それが〈屈せぬ器〉だと、締めくくる。


 野狐の残した最愛の少女は、話を理解したのかどうか、曖昧な表情のまま視線を寄越す。寝間着のまま連れ出したからか、どこか夢心地の顔つきにも見えた。掬い上げるような風が吹き、気球がぐらりと傾く。


「躑躅のお役人さまたちが降りてこないのは、書き換わっちゃうからですか」

「そうだ」


 屈する器、と土筆が呟いた。野狐は詰襟の内側で苦笑する。


「わざわざ呼び連ねるほどのものでもない」


 ただ魂を吸い尽くし、自身の人格すらおぼつかない生物兵器だ。


「地上のアニマたちは、いまどうなってるんですか」

「問題は解決していない。当然、定着せず流れ動いている。ただこれ以上社会秩序の書き乱れることのないよう、代替の利かない職業人は僻地に離れ、都市はなかば抜け殻のような人々の往来に溢れている。誰と誰が入れ替わっても、営みに支障をきたさないように」


 希薄になった器と霊魂を元のように結びつけるすべは、躑躅の雲上都市にて研究が進められている。ただ原因がわからないこともあって、見通しは甘くないようだ。


「ヤコは」

「ん?」

「ヤコは、どうしてわたしに吸われてしまわないの」


 その疑問はもっともだった。逆にどうして土筆の霊魂は、野狐に乗り移らずにいられるのか。七年も。


「わからない」

「え?」

「些細なことだろう。結果として、ヒカゲツツジの城下町は十年前の地上世界のように、一切の混乱もなしに営まれている」


 野狐は眼下を指差す。


「見えてきた」


 土筆が頭をかくんと落とす。霊魂が霊魂を食い、カット・アンド・ペーストを繰り返し、劣った器の淘汰を果たした「日本」の景色が広がっている。


「私はこの女兵の器を利用してここまで逃げてきた。ツクシ、もう鍛治船に戻ることはないと覚悟しろ」

「そんな」


 少女は悲嘆に暮れながら、どこか、感情を伴っていない雰囲気を感じさせる。野狐に買われて七年、徹底して雲の下の真実に気付かぬよう気を回した彼の執念が形となって、土筆の「実感」を阻害している。野狐の記憶によれば、この少女はまともに文字も読めないらしい。つい十年前までは眉唾でしかなかったアニミズムなぞ、聞いたこともないのだろう。


「信じてくれるか、私の話」

「それは、どれのことを言ってますか」

「人および物に宿る霊魂の、器からの乖離にまつわる一切を」

「信じられない。さっぱりわからないです」


 小さな身体が強く、しがみついてくる。


「でも、あなたの中にヤコがいる。それはなんとなくわかります。なんでだろう、わからないけど」

「お前はそれでいい」


 ”私”なら「あなた」と慕うところ、野狐は鋭く「お前」と呼びつける。


「躑躅の連中は私しかり、お前しかり、地上に降り立つことを嫌っている。第六十七雲海の下の土地は、ちょうど無人の廃墟の群生地だ」

「そこに逃げるんですね」

「社会秩序を掻き乱さぬよう、細心の注意を払う」


 土筆のよれた前髪が、ばたばたと暴れて(ひたい)を叩く。


 少女が世界の(ことわり)を理解しようがしまいが、野狐が責任を持って付き添えば関係のないことだ。野狐の最愛を”私”は、”私”を殺してしかと引き継ぐ。契りを交わす。


「逃げて、どうするんですか」


 野狐は固い指先で、ツクシの唇をつうとなぞる。


 質問には答えなかった。


   3


 桃色躑躅の狙撃手が見えなくなってからも、ツクシはしばらく、国章の帆のゆらめいていた辺りの雲間が気になっていた。


 気球はやがて着陸した。胸とくびれのあるヤコの話したとおり、見渡す限り人影はなく、木箱を落として散らしたように廃墟が点在している。ツクシはヤコの話の半分も理解しきれていなかったけれど、自分がいてはいけない存在で、ヤコがそんな自分を庇って罪を背負った、ということだけ噛み締めていた。その罪の内容や重さは、生涯ヤコに寄り添っていくと決めたツクシには関係のないことだった。


 いいところがある、とヤコが言う。


 ツクシは黙ってついていく。


「気仙沼にアトリエは一つしかない。潮風にさらされず、人とも交わらない絶好の場所……」


 ヤコは楽しそうに話す。「アトリエ」はカジブネの雲海にもあったからツクシも知っている。絵筆の持ち手の加工、吟味にて、ヤコの腕が光ったのだ。


「そこで、わたしたちは死ぬんですか」

「死ぬ? 気が早いよ。めいっぱい楽しんでもばちは当たらないさ」


 軽くやわらかい口調に、ツクシは慣れないながらも心躍る。昨日から今日にかけて、ヤコは姿も心もがらりと変わって落ち着かない。足はやがて背の低い建物の前で止まる。左から右に風が地面を撫でる。半円のシルエットの建物で見るからに廃墟だけれど、周りのそれに比べて瓦礫が少ない。小綺麗にまとめられ、軒先には玄関灯が揺れている。


「ここ、なにがあるんですか」


 入口を通り、薄暗い屋内に踏み入る。


 皮のついた死体があった。


「ヤコ、これ」


 最愛の彼の、……女の身体をした彼の服を引っ張る。彼は笑みを一瞬消す。すぐに取り繕う。


「死んでいるね」

「いや、その、どうするんですか」

「どうしようもないよ。ずいぶん前に死んだみたいだ」


 ヤコは平然と言って目を逸らす。けれどツクシは釈然としなかった。軒先も屋内も生活感があって、ついさっきまで生きている人がいたかのような温度に満ちている。


「ヤコ、別のところにしたいです」


 ヤコは笑みを崩さない。


「そうはいかないよ」

「どうして」

「ここは僕のすべてなんだ。どうしても、離れられない」

「すべてってなに。わたしと死んでくれるって、ヤコ、わたしと契りを……」


 微笑むヤコの眼差しが自分に注がれていないことに、ツクシは気づかない。


「契り?」

「ヤコ、ヤコ。憶えてるでしょう、ねえ」

「……そうだね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 ヤコの右腕がゆっくりと持ち上がって、自身の豊かな胸を鷲塚む。結局どこの誰だったのか、ツクシの知るよしもない躑躅の女兵士の肉体。


「まあ、僕の知ったことではないさ」


   4


 〈屈せぬ器〉の引力が、ヒカゲツツジにも干渉した事例を報告する。


 隔離対象隠匿の罪に問われていた男が、地上へ亡命した末、とある活動家の霊魂に器を譲った。〈屈せぬ器〉はその男から、最も新しく取り込まれた霊魂のみを自分の身に譲り受けようと試み、失敗した。男のすべての霊魂は〈屈せぬ器〉に打ち負け、消滅。


 〈器〉はいまだ、第六十七雲海の真下に位置する廃墟に潜伏している。一刻も早く処分されたし。

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