4.
アパルトマンには、アンリが贈ってくれたブーケの香りと彩りがまだ残っていた。
「そこ、座って。今グラスとお皿出すから」
「う、うん」
思い切り贅沢しようと思って借りた1DKの間取りの、ダイニングにはテーブルと椅子が備えられている。花を飾ったテーブルを示すと、道中で買ってきたワインや総菜を抱えたアンリがぎこちなく頷いた。戸惑いの表情を見せつつ、彼はここまで来てくれた。スーパーで、どのワインがお手頃な割に美味しいとか、どのブランドのチーズが好きだとか教えてくれたりして。優しくて面倒見が良いのは、彼の偽りのない本来の姿なのかもしれない。
夜に男の人を部屋にあげるのは初めてだった。男の人と付き合えるかどうかを試したことはあるけど、いつもデートを何回かするだけで終わってしまったから。女のことのデートは――試したことがない。私の性的指向というやつがどうであれ、私が茉莉絵と付き合えないことは変わらないから試しても仕方ないと思って。
そうだ、だから夜、自分の部屋で誰かとふたりきりになるのも初めてなのかも。でも、アンリなら良いだろう。彼は、他の男性や、たまに近づいてきた女性と違って私をそういう目で見ていないと、今ではほぼ確信している。
「えっと、リコ……ごめん。どこまで……?」
「はい、乾杯」
キッシュやテリーヌ、チーズやハム。買ってきた総菜をお皿に並べてカトラリーを添える。ワインをふたつのグラスに注ぐ。私の分を手に取って、彼のと強引に縁を合わせる。
どこまで気付いているのか、という彼の問いに応えるつもりは、取りあえずはなかった。隠し事をしていた後ろめたさがあるなら、しばらく味わっていてもらおう。それに、そんなことより全てぶちまけたい衝動が強かった。こんなことを他人に言う気になったのは初めてだけど。外国で、外国語で、知らない人同士。そんな関係だからこそ、なんだろうか。
「茉莉絵は、小さい頃から仲が良かったの。幼稚園――義務教育の前から知ってた。あの子の最初の恋も、最初の彼氏も、最初のデートも、最初の失恋も。みんな、私は知ってるの。祐司くんが知らないことだって、沢山」
「marier? 誰が結婚するって? リコ、もう少しちゃんと聞かせて」
アンリに聞き返されて、思い出す。マリエは、フランス語で結婚、という意味らしい。結婚式場を探す時に知ったのだと、あの子が頬を染めて教えてくれた。その、幸せの絶頂を絵にかいたような表情を見た時に感じた苦みを思い出して、私はワインを一気に飲み下す。飲まなきゃやってられない気分だった。
「私の好きな女の子よ。結婚したの。素敵な人と、とても幸せそう。赤ちゃんもできるの」
「そう。リコ、何ていうか……」
アンリが気まずそうにワインを啜る間に、私は二杯目をグラスの半分近くまで空けた。アルコールで身体が熱くなる。同時に、衝動も強まる。長い間溜め込んできた思いが喉をせり上がって、溢れてしまう。英語の文章を考えるのももどかしく、私は短い文を立て続けに並べ立てていた。
「祝福したいとは思ってるの。旦那さんも良い人だし。私は、あの子に何も言ってない。あの子も気付いてないはず。良い友達でいられれば十分だと、分かってる。何かしてやろうなんて、全然思ってない。本当に。でも、我慢できなくなりそうだったの」
「うん、分かる、と思うよ。リコ……」
上辺だけの慰めではない証拠に、アンリはグラスを握ったまま言葉を選んでいるようだった。彼の呼吸の音を聞き、彼が唇を舐めるのを見守ったのは数秒だっただろうか。やがて彼が発した言葉は、なかなか上手い表現だと思えた。
「君は、失恋して……新しい恋なんていらなかった。その気持ちを、どこかに置いてきたかったんだね……?」
「そうね。そこに貴方が現れたから」
「ちょうど良いゴミ捨て場だったね」
自虐めいた彼の台詞に、私は思わず笑ってしまう。昨日だったか、暇つぶしなの、と言ったことへの意趣返しのよう。でも、私は更に切り返す言葉を持っていた。
「でも、貴方も似たようなものじゃなかった? さっきの人は、誰?」
グラスをひと息に空けるのは、今度はアンリの方だった。心の中に隠していたことを打ち明けるには、勢いや酔いが必要なんだろう。開けたばかりのボトルは、もう半分近くがなくなっていた。
「ルイっていう。……多分、気付いていると思うけど――僕の、恋人だ」
アンリは小さな声で、私の顔色を窺うように打ち明けた。こちらは日本よりも進んでいるイメージがあるけど、それでも偏見は皆無じゃないんだろうか。宗教的な何かしらもあるのかもしれない。でも、私にとっては予想が裏付けられただけ。だから、お互いのグラスに新しくワインを注いで、軽く頷くだけだ。
「女に声を掛けたのはなぜ? 日本人はすぐ引っ掛かると思った、とか?」
「違う! そんなつもりじゃ……。でも、ごめん。僕の身勝手だった。君には、すまないと思う、リコ」
彼が謝る必要はないと、正直に言って思う。私たちは、お互いに絶対に恋愛の対象ではなかった。黙っていたのは彼だけじゃなくて私も同じ。カップルごっこに過ぎないのを分かっていてこの数日を過ごしていた。それが不誠実といえばそうなんだろうけど、でも、お互いにその気が全くないからこそ、居心地が良い時間だったのかもしれないじゃない。
私が黙ってグラスを傾けていると、アンリは訥々と続けた。私と違って、英語の単語や文法を考えるのに手間取ってるなんてことはないだろう。彼にとって喋りづらいことを、教えてくれようとしているのだと思う。
「よくある話、よくあるケンカだ。休暇の予定が急にキャンセルになった、ってね。仕方ないのは分かってるし、多分いつもならすぐ収まってた。うん、喧嘩はよくあることで――お互いに我慢していることや嫌なことは幾らでもある。忘れたつもりや許したつもりの昔のことも」
考えたことをそのまま順番に口にしているんだろう。アンリが紡ぐ文章は短くて、だからぼそぼそとした口調を補うように聞き取りやすかった。彼が躊躇うように言葉を途切れさせるから、頭の中で翻訳する猶予もあるし。
私が彼の言葉の全てを訳し終わっても、でも、アンリはしばらくグラスを握りしめて黙っていた。眉を寄せながら下げ、唇を曲げて悔恨っぽい表情を浮かべる顔の筋肉の器用さに、さすが外人さんなのかな、とかぼんやりと思う。悲しそうで苦しそうなのに、相変わらず格好良いのもすごい。
「それで……色々言い合った挙句に言ってしまったんだ。お前なんか嫌いだ、他の人と付き合ってれば良かった、って」
「だから、真逆に走ってみた? 女で、外国人だから?」
「……ごめん、リコ。そういう訳じゃ……いや、そういう、ことだと思う」
アンリが目を伏せると、睫毛の長さが目についた。整った容姿だ。モデルのような、と評する人もいるだろう。茉莉絵なんかはきゃあきゃあ歓声を上げて喜ぶかもしれない。でも、私はただその端整さを認識するだけだ。さして感銘を覚えることもなかった、モナリザやサモトラケのニケと同じように。私にとって、男の人というのはそういう存在でしかないんだ。
気にしていないよ、と伝えるために、私はグラスを置くとにっこりと微笑んで見せた。
「ううん。私も……同じことをしようとしてた。恋愛の……練習になるかな、って」
アンリとルイの喧嘩のいきさつは意外と普通だな、とちらりと思った。友達から聞かされるような愚痴と大差ない。男同士でも男と女でも、恋人同士はあまり変わらないのかもしれない。私は経験のしたことのない、多分これからもすることがない話だから、ほんの少しだけ羨ましい。茉莉絵と焼き餅を焼き合ったりできたら、なんて。
他の人と付き合えたら、っていうのは私には贅沢な悩みだ。私にはそもそも恋人がいたことがないんだから。違う相手なんて、考えることはできないんだから。でも――こんな私じゃなかったら、今とは違う状況だったら、と思う気持ちは、とてもよく分かる。
「アンリといて楽しかったよ。お陰で良い旅行になったと思う。ありがとう。感謝してる」
だから、アンリを責めたりしない。まずはお礼を述べて、それからワインで口を湿して、軽く首を振る。この間にアンリも並べた皿に手を出し始めていて、家飲みのような形になっていた。酔いも進んで、私の口も滑らかになる。
「でも、楽しかったのは私が観光客だからだよ。毎日時間通りに会えたのも、おしゃべりが弾んだのも。私がこっちには仕事がなくて、他に友達もいないから。旅行の間しか成立しないことだったよ」
「そう……だろうね」
私たちは知らない人同士。だからこそ、この数日間は楽しかった。お互いを何も知らないからこそ、お互いに都合の良い相手になりきることができた。特に私にとっては、外国で、旅行中で、非日常の時間だったし。ローマの休日さながらに、別の人にもなれたかもしれない。でも、舞台はいつまでも続く訳じゃないんだ。
手を伸ばしてフォークを取って、チーズをひと口齧る。アンリが勧めてくれただけあって美味しくてワインに合う。でも、毎日食べるような味じゃない。パリでの思い出は、あくまでも旅のひと時の夢みたいなもの。私は茉莉絵を好きなままで、茉莉絵は私の気持ちを知らないままだ。それが、私の世界なんだ。
チーズを呑み込む頃には、自分の手で幕を下ろす覚悟も固まっていた。
「それに、やっぱり違うの。私はアンリを好きにはならない」
「うん。……そうだね、僕もだ」
はっきりと頷かれて、少しだけ胸が痛む。私が先に「振った」のに、勝手なことだけど。でも、今の私たちはふたりとも、すっきりとした顔をしている気がした。ごっこ遊びはもう終わり。ふたりとも、自分の気持ちを確かめることができたのだ。それなら――いるべき場所に、戻らなければならない。
「ごめんね。ありがとう。ルイにもごめんなさい。……彼と話し合った方が良いと思う。好き、なんでしょ?」
それに、私と違って両思いなんだから。
言外の言葉が伝わったんだろう、アンリは軽く眉を寄せて同情を伝えてきた。でも、今なら不快も苛立ちも感じない。私の気持ちも事情も私のもので、どうしようもないこと。そして、受け入れるべきこと。はるばるパリまで来て、色々なものを見たり聞いたり食べたりして――アンリと会って。そう、考えることができるようになっていた。
二本目のボトルに手を伸ばしながら、アンリが弱々しく微笑んだ。ガイドしてくれてた時と違って気弱な雰囲気がするのは、彼も演技していたんじゃないかと思う。男らしさとか、恋愛に慣れた感じとか、そんな役を。
「そう、だね。……でも、言いづらいな」
「多分心配してるよ。探してたんじゃない? あれ、彼ってアンリの家知ってるよね?」
「えっと、一緒に住んでるんだ。だから、友達の家に泊ってた」
「うわあ」
スーツ姿のルイが焦った様子だったのは、そういう訳だったのか、と私は腑に落ちる思いだった。家に帰ってもいないアンリを探して、あちこち心あたりを駆けまわっていたんじゃないだろうか。もしかしたら、アンリが案内してくれたのも、彼との思い出の場所なのかもしれない。だから、あのメリーゴーラウンドで鉢合わせたのかも。
「……きっと、怒ってるよね」
「恋人って言っちゃったんでしょ? それは、怒るでしょう」
茉莉絵が他の女の子といるのを見て、私は嫉妬したことがある。茉莉絵がその子たちをそういう意味で好きになることはあり得ないと知っていたのに、だ。アンリが本当に絶対に女を対象にしないのかは分からないけど、ルイだって面白くはないだろう。むしろ対象外だからこそ、ふざけた真似だと思うのかもしれない。
私の答えに、アンリはフランス語で何事かを呟くと大げさなジェスチャーで天井を仰いで見せた。それから、がばりと私の方に向き直ると、切実な声と表情で懇願してくる。
「リコも僕に付き合って。何て言ったら良いか、一緒に考えてよ」
「良いけど。私、あんまり恋愛経験ないよ?」
何しろ茉莉絵ひと筋だったんだから。友達の話も聞き手になるばっかりで、だから「強い女」を演じることもできていたのだけど。でも、そう告げてもアンリはめげなかった。
「女性からの視点も必要かな、って。……女の子の部屋に上がり込んでこんな話をするの、初めてでさ」
「貴方の初めてになれて、光栄、かも」
いつか言われたことを返してあげると、彼も覚えていたようで声を立てて笑った。つられて私も笑う。ワインのせいか、こんなところで恋バナになったからか、ひどく楽しかった。つまりは私たちは、お互いに初体験の夜になったということらしい。「普通に」使われるのとは、全く違う意味で、だけど。