3.
翌日、セーヌ川のほとりでアンリと待ち合わせた。かつては鍵が鈴なりになっていたという芸術の橋も、今ではすっきりとした姿になっている。
そのまま川沿いに歩けば、目に入るのは、ノートルダム寺院の高く尖った塔や、歴史ある石造りのパリ市庁舎。ガイドブックと目の前の風景を照らし合わせようとすると、アンリに本を閉じられた。そんなのは見ないで僕に任せて、ということらしい。
そして足を踏み入れたマレ地区は、アートとファッションが集まる地区。著名なブランド店はもちろん、細い路地に並ぶ小さな店も、ひとつひとつじっくりと覗き込んでしまいたくなる可愛らしさや綺麗さだった。まるで、地区自体が宝石箱のような。服に靴に、アンティークのアクセサリーに。芸術より歴史より、身に着けるものの方に目を輝かせてしまうのは、我ながら底の浅い人間だと思う。
「似合う?」
「とても素敵だよ」
ひとりだったらまず選ばないような、鮮やかな花柄のワンピースも、アンリに乗せられれば良いかな、と思ってしまう。デートごっこも堂に入って来た感じ、だろうか。ただ、支払いは全部私持ちなのがデートらしくはないかもしれない。ガイド代の名目で、半ば強引に彼にお金を出させなかった。仮初の関係に過ぎないと、自分に言い聞かせるためでもあった。
これで、彼が何かを強請ってきたらそういう手口ね、と納得も行ったかもしれないけれど、そんなことはなかった。だからアイスや山盛りのムール貝をシェアしたり、お互いに帽子を被せあったりしている間に、私たちは少し仲良くなった、かもしれない。
ディナーを終えると、アンリはこの日も礼儀正しく別れの挨拶を口にした。ホテルの場所を探ったりしない。それなら、お金でも、身体目当てでもないんだろうか。
「これを君に。これくらいは良いだろう?」
ただ、彼はそんな台詞と一緒に小さなブーケを渡してきた。ルーブルに行った日に私が買ったような、道端の屋台で売ってる花だ。ピンクの小ぶりの薔薇を集めたブーケ。アパルトマンに帰ってから、白い薔薇の隣に活けてみると、私の仮の部屋に香りと彩りが添えられた。
三日目は、郊外のブローニュの森でピクニック気分。パリの西部に位置する広大な公園にいると、一国の首都を訪ねているのだということを忘れそうになる。例によってアンリのお勧めの店で買ったサンドイッチや、市場の果物を抱えて、芝生の上で寛ぐのも悪くなかった。といってもごろごろしているだけではない。森とひと口に言っても、内部にも市場はあるし、薔薇園もある。昨日とは趣向を変えてアウトドア、ということなのか――それとも、私にお金を使わせないためなのかも、とも思えてくる。
お互いに立ち入ったことを聞かないのは、暗黙の了解になりつつあった。そもそも言語の壁があるから、話したくても話せない部分もあるのだけど。でも、こうも連日一緒に過ごしていると、さすがに気になってくる。
「アンリって、仕事は何をしているの?」
森の一角に広がる湖で、ふたりでボートに乗りながら尋ねてみる。周囲からはカップルや家族連れの笑う声が聞こえる。私たちも和やかに歓談しているけれど、やっぱり彼らとは違う――形容できない、言葉で括れない関係だと思う。
「何に見える?」
「学生じゃないよね?」
観光客で一杯のパリでも、住人にとっては生活の場所だ。学生なら夏季休暇かもしれないけど、アンリは私と同年代に見える。もちろん、外国人の年齢は見た目では分かり辛いし、こちらでは年配の学生も多いのかもしれないけど。
オールを手にしながら、アンリは軽く笑い、その表情で学生はハズレ、と伝えてくる。かといって正解も教えてくれないんだけど。
「休暇だったんだけど予定がなくなってね。退屈していたところだったんだ」
「私は暇つぶし?」
「とんでもない。お陰で最高の休暇だよ」
甘い言葉を吐きながら、彼の目は笑っていないのにもさすがに気付けるようになってきた。といっても、悪意や下心が見える、というのも違う。
アンリは私を放って置けない感じがした、と言ったけど、それは彼も同じじゃないかと思う。
見知らぬ外国人、通りすがりのエトランゼに優しくするなんて普通じゃないもの。そんなことをする理由は、休暇の元の予定と関係があるんだろうか。私が見知らぬ男の誘いに乗ったのと同じような自暴自棄が、アンリの側にもあるのかもしれない。だから私も、彼を放って置けないのかも。上辺だけの和やかさだと分かっていても、気付いていない演技を続けてしまうのかも。
それに昨日、私が微笑みひとつ浮かべないで友人の――茉莉絵の赤ちゃんのためのベビー服を見ていた時、彼は何も聞かなかった。整ったよりそつのないエスコートより、そういうところが私に彼といたいと思わせる。
四日目は、パリ中心地に戻った。街のシンボルとして聳えるエッフェル塔の界隈だ。
「ちょっと珍しい角度から見せてあげる」
アンリはそう言って、エッフェル塔が隣接するシャン・ド・マルス公園ではなく、十六区のシャイヨ宮殿に案内してくれた。セーヌ川を挟んだ高台から見る眺めは確かに絶景だけど、絵葉書にもなりそうな「普通の」構図でもある。だから首を傾げていると、アンリはこっちこっち、と手を振ってセーヌを渡る橋の方へと私を導いた。手を繋ぐ訳ではないのが私たちの距離感というやつなのだろう。連日一緒に行動しているのに、アドレスや電話番号を交換するでもなく、待ち合わせの時間と場所を約束するのに留めているのも。
とにかく、アンリの案内に従って歩くうちに、エッフェル塔の足元に辿り着いた。間近に迫る塔の高さと大きさよりも、でも、更に近くの更にささやかな建造物に、私は小さく歓声を上げた。きっと、アンリの思惑通りに。
「これのことだったのね……!」
展望台に並ぶであろう観光客で混雑する辺りからは少し離れて、メリーゴーラウンドが設置されていたのだ。昼間でも電飾が明るく瞬いて、カラフルな装飾を施された白や黒の馬が上下しながら回っている。そう、ただの飾りではなくて、ちゃんと稼働している!
「素敵でしょ? 乗ってみる?」
「この歳で!?」
「誰も気にしないよ」
さらりと手を差し伸べられて、戸惑ったのも一瞬だった。目の前を横切っていくおもちゃの馬には、子供だけじゃなく確かに大人も跨っている。デートや旅行のテンションのまま、はしゃいでしまうんだろう。私も同じようにできるかは分からないけど――試してみたい、とは思った。
子供たちに混ざって、次の回を待つ列に並ぶ。料金をアンリに教えられて、硬貨を用意しながら。係員にそれを手渡す時は、童心に帰ったようなワクワクもあって。そして、馬を貫くポールに掴まると、メリーゴーラウンドが動き出す。
「リコ! こっち見て!」
後ろの馬に乗ったアンリに呼ばれて振り向けば、満面の笑みで手を振っている。メリーゴーラウンドを眺める周囲の人たちも。照れながら小さく振った手を振る私にも温かな笑みが向けられる。もしかしたら、浮かれたカップルに向ける生温い目かもしれないけど。
「リコ、どうだった?」
「……楽しい。ありがとう」
音楽が止まると、アンリはすかさず私のところに駆け寄って手を差し出してきた。木馬に揺られた高揚が、私を素直にさせる。私たちの手が初めて触れようとした、その時――
「Henri!」
彼の名を呼ぶ声が聞こえた。私のように拙いカタカナでの発音ではなく、本来のフランス語の響きだった。
メリーゴーラウンドから降りた私たちに、スーツ姿の男性が大股に歩み寄る。ダークブラウンの髪と目、アンリと並ぶ長身。私たちを見る表情は険しく、見知らぬ外国人から向けられる敵意は私を怯ませた。アンリが進み出て、その男性と私の間に入ってくれたけど。
アンリと、スーツの男性と。ふたりは、早口のフランス語で何かを言い合っていた。私に対してゆっくりとした英語で話してくれるのとは違って、一単語も理解できない。そのやり取りを目の前で見せられると、私はアンリのことを何も知らないのだと思い知らされるようだった。彼の素性、この男性との関係、時々ちらりと私に向けられる眼差しの意味。それらを、何も。
呆然として見守るうちに、不意に、アンリが私の腕を取った。そして、耳元で囁く。といっても私に対してじゃない、スーツの男性に対してだけど。
「――――」
やっぱり、知らない言葉での意味の分からない響き。それでも、アンリの体温を間近に感じながら聞くとさすがにどきりとせずにはいられなかった。
スーツの男性は、最後までアンリに向かって何か言うと、近づいてきた時と同じく大股で去っていった。その人の姿が雑踏に消えて見えなくなって初めて、私はアンリに声をかけることができる。
「……何、今の人。何て言ってたの?」
「知り合い。恋人って言ったら驚いてた」
言いながら、アンリはもう歩き始めていた。スーツの男性が消えていったのとは逆の方へ。どこへ行く気か知らないけど、彼の言葉は聞き捨てならない。彼の背を追いながら、問い質すように声を上げる。
「私たち、恋人じゃないでしょ?」
「うん……ごめんね」
足を止めて、私に振り向いた時――少なくとも、この数日間は朗らかだったアンリの表情が曇っていた。でも、やっぱりそれ以上は説明してくれない。
だから、私は考えてしまう。彼が嘘を吐いた理由を。恋人だなんて。真実ではないことを彼自身もよく知った上であの男性にそう告げたのだ。そして、男性も驚いただけじゃないはずだ。言葉が分からなくても、表情を読みとることができる。あれは――怒りと、絶望の表情じゃないだろうか。
メリーゴーラウンドでの一件の後も、アンリはちゃんとガイドを務めてくれた。私たちの間に流れる空気は、かつてなくぎこちないものだったけれど。私もアンリもどこか上の空で、目の前の風景や食べるものや飲み物よりも、他のものに気を取られているようだった。彼は、あの男性のことを考えていたんだろうか。
そして、まだ辺りは明るいけれど、夜のひんやりとした気配が漂い始めた頃。一休みに入ったカフェを出て、これまでだったらそろそろ別れの挨拶を交わそうか、という頃。私は、アンリの目を真っ直ぐに見上げて、口を開いた。
「ねえ、アンリ。最初の夜に、失くした恋を探してくれるって言ったでしょ」
「リコ?」
アンリのブルーグレイの瞳が戸惑いに揺れて、あれはやっぱり気まぐれの言葉だったと教えてくれる。でも、嘘でも気まぐれでも、私は言われたことをちゃんと覚えている。私を放って置けないと思ったということも。彼が私に対してそう感じたことは、きっと間違っていない。だから責任を取ってもらおう。
私は彼の反応に構わず続けた。微笑みを、少し無理に浮かべて。
「やっぱり手伝って。……私の部屋に来て」
「リコ、それは――」
身体にしろお金にしろ、彼に悪い目的があるなら願ってもない提案のはずだった。でも、アンリは目に見えてたじろいだ。怯えたような顔さえ、見せた。
ああ、やっぱり。
彼の反応のひとつひとつで確信が深まる。私が今日、パリの街並みも見ないで考えていたことは合っていた。彼の本心が見えないまま、私が行動を共にしてしまったことにも納得できる。自暴自棄とはいえ、レイプされても良いと思っていた訳じゃない。そこまで行かなくても、関心のない異性からの好意なんて煩わしいだけのはずだった。アンリに、それを感じなかったということは――
「私が好きだったのは、女の子なの」
大きく目を見開いたアンリの表情で、分かる。アンリにとってのあのスーツの男性は、私にとっての茉莉絵だったんだろう。
私はあの子を、ずっとずっと大好きだった。あの子が私を見ているように同性の友人としてではなく、恋愛感情という意味で。
この作品を執筆したのは2019年3月なのでノートルダム寺院は健在です。ポン・デ・ザールの南京錠が撤去された2015年から2018年までのどこかの話ということでお願いします。
ブローニュの森は娼婦や娼婦目当ての客も出没する治安の悪い一角もあり、一人や女性だけで行くのはお勧めできないそうです。