2.
パリでの滞在先として、私は九区のアパルトマンを選んでいた。オペラ座や百貨店の並ぶ華やかな区である一方、中心部から離れれば静かな街並みも広がっている。観光への便利さと寛ぎを、両立できそうだと期待していた。
ホテルではなくアパルトマンにしたのは、パリジェンヌのような日々を、という旅行代理店の謳い文句に惹かれたからだ。キッチンに冷蔵庫、電子レンジまで備えてあって、市場で買ってきた食材を自炊することもできる、と。私自身が本当にそうしたいというよりは、話のタネにできそうだ、と思ったからかもしれないけれど。特に、茉莉絵はこういうのが好きそうだ。あの子なら、一緒に行きたかった、とか言うかもしれない。
パリ二日目の朝は、旅の疲れのためか昨晩の酔いのためか、目が覚めたら十時を回っていた。とはいえ一週間の予定のうちのたった一日だ、多少の寝坊も贅沢と言うものだろう。
軽く身支度を整えて、アパルトマンの周囲を散策してみる。朝食をどうしようかと考えながら。目に留まったパン屋で、サンドイッチを幾つか。それから、クロワッサンにジャムの小瓶も。ついでに花の屋台を見つけたから、白い薔薇を一輪買ってみる。花瓶は備品に含まれてなかったかもしれないけど、コップにでも挿せば華やかだろう。
アパルトマンに戻って薔薇を活けて、サンドイッチを軽くトーストして朝食にする。皿に並べたところをSNSにアップしてみると、日本はちょうど夜になったばかりだからか、友人たちから次々にコメントがついた。……茉莉絵からも。ほとんど思った通りに、璃子に通訳とガイドをお願いしたい、なんて送ってきたから思わず笑ってしまった。あの子が行くなら私とじゃなく祐司くんと、だろうに。本当に、無邪気で優しい、良い子だと思う。
パリの中心である一区に出かけたのは、午後になってからだった。昨晩、行きずりの男に予定を話したのを忘れた訳ではない。でも、ナンパ男のために予定を変えるのも癪だった。第一、相手もその場の勢いで言っただけに決まっている。本当に待ち合わせのつもりだなんて、あるはずがない。
そう、思っていたのだけど――
「リコ! 来てくれたんだね!」
ルーブルの地下。有名なガラスのピラミッドをそのまま逆さにしたデザインの採光窓。地上のオリジナルに負けず劣らず、人気の撮影スポットになっている場所。ひと通りの鑑賞を終えてその場所に足を向けた私は、自分の名前を呼ぶ声に目を瞠ることになった。
こちらに向かって満面の笑顔で手を振る長身の男性は、昨晩一緒に飲んだアンリ、なんだろう。バーの暗い照明と今とでは大分印象が違うから自信がないんだけど。でも、パリで私の名前を知っているのは彼だけだ。
「本気だったの? いつから待ってたの? ……よく、私の顔を覚えてたわね」
時刻はもう夕方近い。広大な美術館の、有名な作品をさらりと見ただけでもこの時間だ。なのに、この人は来るかも分からない外国人の女を、ずっと待っていたんだろうか。東洋人の顔は見分け辛いと聞くけれど、よく確信を持って寄って来ることができたものだ。。
眉を顰める私に、アンリの微笑みはあくまでも優しい。頭ひとつ分の身長差を、軽く背を屈めて埋められて、耳元で囁かれる。
「ルーブルで物足りなさそうな顔をしてる人はとても目立つよ、リコ」
私がどきりとしたのは、彼の笑みや態度に絆されたからでは、断じてない。私の退屈や無感動を、みごとに見透かされていたからだった。
「何を見てきたの? モナリザ?」
「……そう。サモトラケのニケも、ミロのビーナスも」
誰もが知ってる収蔵品の数々だ。芸術的な価値は理解していると思うし、美しいのだろうな、とも思う。それらが辿って来た歴史も、貴重なものだ。それは、認識しているのだけど。
「で、どうだった?」
答えが分かっているだろうに尋ねてくるアンリが、無性に苛立たしかった。そう、貴重な芸術品を間近に見ても、私の心は動かなかった。昨日のムーラン・ルージュと同じ、ふうん、と思うだけだった。心の傷を旅で癒してもらおうなんて、安易な考えだったんだと思わされたところだった。何を見ても、祐司くんと茉莉絵だったら、と思ってしまって、ふたりの影を勝手にあちこちに見てしまって。
「……ガイドの申し込みにはまだ間に合う? この旅行で、良い思い出は作れるかしら」
この逆ピラミッドまで来たのは、アンリに期待してしまったからだったんだろう。パリでの初めての夜に会った変な人が、何か、特別な体験をさせてくれるんじゃないかと。忘れたいのに忘れられない面影を、見えないようにしてくれるんじゃないかと。これも、勝手な期待だ。だから、アンリの顔を真っ直ぐに見ることができなくて、私は少し、目を逸らしながら尋ねた。
「喜んで、お姫様。テスト代わりに、今夜のディナーに招待するよ」
でも、アンリは私の狡さを責めたりしなかった。微笑んで手を差し伸べる一連の動きは実にスマートで、つい手を取ってしまいそうになるほどだった。そうしなかったのは、私はお姫様じゃないと分かってたからだ。
こちらでは、おひとり様は何かと肩身が狭いと聞いていた。特にディナーでひとり、ということはなくて、家族や恋人や友人と一緒でなくてはいけないとか。だから、ひとり旅を決めた時点で、少なくとも夜はちゃんとした店には行けないだろうと諦めていた。初日の夜はバーに入ったのも、自炊ができるアパルトマンを選んだのもそれが理由だった。
だから、小洒落たビストロで、現地の男性と同席する事態なんて、全くの予想外だった。
「美術館だから、少しお洒落してて良かった」
「そんなに気取った店じゃないよ。でも、綺麗だよ、リコ」
「お酒も料理もとても美味しい。連れて来てくれてありがとう」
「どういたしまして」
テーブルにはキャンドルが置かれている。柔らかく揺らぐ炎の灯りで、アンリの雰囲気はまた変わって見えた。少し、親しみが持てるような? 共に過ごした時間が長くなるにつれて打ち解けたということなのかも。
アンリが私を案内したのは、ルーブルからもほど近い裏路地にある店だった。詳しく調べてはいなかったけど、ガイドブックには載っていないと思う。言われなければ気付かないような、パリ一区にもこんな一角が、と思わせるようなひっそりとした佇まいで。地元の人が行く店、というやつだろうか。
「今まで入った店と比べてどう?」
「パリには昨日着いたの。昨日が最初の夜で」
「君にとって初めての夜を一緒に過ごせたなんて光栄だ」
何か厭らしい意味に聞こえてしまうのは、私が日本語に変換してしまうからだけだろう。英語でもフランス語でも、多分あいさつ程度のお世辞でしかないはず。だから私はアンリのコメントには触れずに、ずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「……どうして私に声を掛けたの?」
返事を待つ間に、鹿肉のローストを口に運ぶ。ジビエを食べた経験はあまりないけど、心配していた臭みもなく柔らかい。ベリーを使った甘めのソースと肉汁が口の中で溶け合うのは至福の味わいだった。
パリの夜、金髪碧眼のイケメンと美味しいディナー。夢のような――というか、映画やドラマみたいなシチュエーションに酔うことができたら良かった。でも、私はやっぱり醒めていた。アンリを魅力的に思う女性は多分多いのだろうけど、私は違う。彼は、私が好きな人じゃない。だから、彼に誘われたからって舞い上がってしまうことはなかった。
アンリも、私の動作を真似るかのようにナイフとフォークを操って肉を頬張った。形の良い唇が満足げに微笑んで、ワインで飲み下すまでに数秒。それだけの間を開けてから、彼はやっと答えた。
「辛そうに見えたから、かな。放って置けない感じがして」
「そう」
彼の言葉を喜ぶことはできなかった。結局、私から見ても彼は知らない人だ。理由にならない理由で手を差し伸べられても嬉しくはない。むしろ、初対面の人間にも分かるような落ち込みようだとしたら大変だ。茉莉絵と笑って顔を合わせられるように、祐司くんと一緒にいるところを見ても平静でいられるようにならなきゃいけないのに。
「私はひとりで大丈夫だってば。……でも、ガイドはお願いしたいな。このお店、美味しかったから。……明日も、会える?」
だからこれは、内心を押し隠して微笑む練習だ。アンリへの不審も戸惑いも、同情めいた言い草への不満もあるけれど、それは見せずに恋愛ごっこに興じてみよう。地元の人に案内してもらってパリ観光、なんて。いかにも茉莉絵が喜びそうだ。あの子は、私にその手の噂がないのを心配してくれるから。だから、茉莉絵を安心させることにもなるはずだ。
「『合格』できたなら良かった。じゃ、明日はポン・デ・ザールで会おうか。分かる?」
「芸術の橋――カップルが鍵を飾るので有名なところ?」
「そう。今は撤去されちゃってるけどね。君との愛を誓えないのは残念だね」
どこまで本気か分からないことを言うアンリも、きっと何かを隠しているんだろう。あまりに親切すぎるから。でも、問い質すような野暮はしない。非日常を味わいたくて飛び出したんだから。お芝居でも良い、演じてみよう――私は、そう思った。