1.
モンマルトルの丘からは、夕闇に沈むパリの街が一望できた。空に白く聳えるサクレ・クール寺院の大聖堂、その正面に張り出したテラスには、地元の住民や観光客がたむろしている。テラスに寄りかかってスマートフォンを構える私も、そのひとりだ。
画面のフレームが切り取るのは、濃紺に色を深める空と、残照を映して薄い紅に染まる雲。その下に整然と広がる家々と、点り始めた窓の灯り。薄闇に輪郭を滲ませるパリの姿はロマンチックで、SNS映えするだろう。
――パリ初日、夜になりました。これでもう十時近いの! これからディナーです。
サマータイムも入れて、日本との時差は七時間。あちらはまだ早朝だ。だから、画像をアップしたところで反応はすぐには来ないだろうと思ったんだけど――
――十時でこんなに明るいんだね! きれーい! ご飯、遅くない? 大丈夫?
意外にもすぐにコメントがついて、私は少し面食らった。しかも、茉莉絵からだ。こんな時間に起きているなんて、今の会社は家から遠いんだっけ。それとも、祐司くんにお弁当でも作ってあげるんだろうか。
そんなことを考えてしまうと、見えない手でお腹をぎゅっと掴まれたような不快感があった。SNSのアイコンに使われている茉莉絵の画像のせいでもある。それは、祐司くんとの新婚旅行でグアムに行った時のものだ。トリミングされた部分では、祐司くんが茉莉絵の肩を抱いて笑っている。実際の写真を見せられたから、よく覚えてしまっている。
――機内食も食べたから大丈夫。おひとり様だし、バーにでも入ろうかなって。
新婚夫婦に嫉妬するなんて醜いことだ。茉莉絵は、私の大切な親友でもあるのだし。自分にそう言い聞かせても、返信を打ち込む前には、深呼吸しなければならなかった。
――さすが璃子だね! でも、気を付けてね。璃子、美人だからしんぱい。
茉莉絵は私の気持ちなんて全く知らない。即座に返ってきたメッセージの優しさと善良さときたら目眩がするほどだった。本当にこの子は、信じられないほど無邪気なのだ。
――スマホ覗き込んでると危ないんだって。もう行くね。お仕事頑張って。
私とは真逆の明るさに耐え切れなくて、半ば強引に会話を打ち切る。大事な時なんだから、と付け加えようかと思って、止める。そんなこと、わざわざ触れたくないから。
茉莉絵と祐司くんの間には、もうすぐ赤ちゃんが生まれる。ふたりの愛の結晶だ。もともと望みなんて持ってなかったけど、私の気持ちは誰にも知られないまま葬り去るべきだと、やっと覚悟を決めることができた。良い切っ掛けでさえあったかもしれない。
今回のパリ行きは、傷心旅行というやつだ。
七月のハイ・シーズンにひとりで海外に行く私のことを、友人や同僚は少なくとも口では羨ましい、と言っていた。彼氏もいない寂しい女、なんて陰では言われているかもしれないけれど。
どうしてひとりなのか――本当のことは誰にも言えないから、「自立した女」なイメージを与えられていれば良い。というか、メイクもファッションも振る舞いも、私はそう見えるように意識している。茉莉絵なんか特に、そのイメージに疑問を持っていないだろう。
本当の私とは言えば、叶わぬ思いにうじうじと悩み、親友の無邪気な言動に傷つき、旦那さんとの仲に罅は見当たらないかと目を昏く光らせている。情けないほど陰気で卑怯で嫌になる。
だから、私はそんな自分とはお別れしようと決意した。茉莉絵の妊娠と出産を、心の底からお祝いしてあげられるように。行き先は、本当はどこでも良かった。パリを選んだのは、単に有名な観光地だったからというだけ。花の都で芸術の都、美食の街でもある。そんなところで数日でも羽を伸ばして贅沢したら、生まれ変わったような気分になれるかもしれない。そう思っただけだった。
ケーブルカーでサクレ・クール寺院の高台から下りると、私はムーラン・ルージュへと足を向けた。有名な老舗のキャバレー劇場を、ひと目見ておこうと思ったから。
「ふうん、これが……」
夜の闇に、ライトアップされた赤い風車が輝いている。今夜のショーの観客なのか、ドレスアップした男女が集うのは、華やか――なのかな。でも、イルミネーションなら日本でもどこでも見られるものだ。歴史的価値は別として、感動するかというと少し違う。
とりあえず、話のタネにしようとここでも画像を撮影する。それから探すのは、今夜の食事場所だ。茉莉絵に言った通り、適当なバーを探すつもりだった。パリのこの辺りは治安があまり良くないのは知っているけど――何かあっても良いか、という気分なのだ。
裏通りのバーに思い切って入ってみると、中には日本人はいないようだった。フランス語ではなさそうな言葉も聞こえるから、観光客相手の店ではあるのだろう。
「お勧めの赤ワインと、おつまみを」
カウンターの隅に落ち着いて、英語と身振り手振りを交えて何とか注文を通す。フランス語の筆記体のメニューはお手上げだったから適当に指さしたら、出てきた皿はチーズとハムの盛り合わせだった。
「美味しい……」
ひとりで宙に乾杯して、ワインをひと口。それから、チーズも。小さく呟くのは、半ば自分に言い聞かせるためだった。美味しいに決まってる。フランスの、本場の味なんだから。私の想いを忘れさせるだけの、強烈な体験になってくれなくては。
でも、期待していたほどの心地良い酔いは訪れてくれないまま、あっさりと一杯目を飲み干してしまった。もう一杯頼もうか、それともアパルトマンに帰った方が良いか。外国語の喧騒を聞きながら考えていると――
「これ、美味しいよ」
不意に声を掛けられて。更には新しい赤ワインのグラスを目の前に差し出されて。私は驚きに瞬きした。
「あれ、迷ってるみたいだったから。お勧めなんだけど、どうかな?」
話しかけられているのは、英語だった。空港で、アパルトマンの受付で、英語の耳になっていたから辛うじてついて行くことができる。でも、聞き取ることができたとしても、状況の唐突さには変わりはない。
「私に……?」
「もちろん、東から来た綺麗な人」
聞き返しながら、話しかけてきた相手をまじまじと見る。バーの薄暗い照明の下でも、明るい色の目と髪だろうと分かる。それに、こんなに気障なことをさらりと言えるなんて、きっとフランス人だ。しかもそんな物言いが様になるくらい、整った顔立ちをしている。格好良いと、言えるんだろう。
旅先でこんな風にナンパされるなんて、と思うとおかしくて、小さく噴き出してしまう。
普段なら無視するような誘いだ。でも、乗ってしまおうか、と思うのは、多分刺激が欲しいからだ。茉莉絵のことを考えては苛々もやもやとする思いを、忘れるだけの。
「ありがとう。――じゃあ、この人と同じのをください」
ただし、最低限の注意は怠らない。相手が差し出したグラスではなく、カウンターの中の店員に新しいのを頼む。万が一、薬を盛られたりはしないように。疑っていると態度で示したのは、牽制になったのかどうか。ナンパ男は、軽く苦笑すると肩を竦めていた。
「ひとり旅?」
「そう」
「意外。一緒に来たい男は多いだろうに」
ナンパ男はアンリと名乗った。私の璃子という名前は比較的発音しやすかったようで、リコ、リコ、としきりに転がすように口にしていた。旅行に来るのはカップルで、と決めつけたような言い方は、少し反発もあった。わざわざ口に出さず、苦笑してグラスを傾けるにとどめたけれど。
「失恋したから。ひとりが良かったの」
アンリが勧めてくれたワインが、最初とどれだけ味が違うかはよく分からなかった。ただ、ひとりで飲むよりは話し相手がいた方がマシなのは間違いなかった。お互いに母国語ではない、英語でのやり取りだとしても。
「恋を、失くしてしまった? 一緒に探してあげようか?」
私は、失恋した、をI lost my loveと言っていた。適切ではない、大げさな表現に聞こえたのかもしれない。私の目を覗き込みながら、アンリは悪戯っぽく笑っていた。
「……いらない。最初から私のじゃなかったから」
変な言い方だったかな、と思う。英語としてどうかじゃなく、嘘になってしまうから。
この想いが私のものだった瞬間なんてなかった。私は一度も自分の好意を伝えようとはせず、むしろ隠そうと必死だった。何も言わず、何もしないままで――そして、気付けば茉莉絵と祐司くんは両想い。私の入る隙なんてなくなっていた。私はずっと、当事者ではなかったんだ。
「強気なエトランゼ、パリでの予定は?」
「……色々。ルーブルとか、凱旋門とか」
堂々していたつもりだったのに。アンリのブルーグレイの瞳に同情の色が混ざっている気がして、私はやや強い口調で答えた。初対面の男に哀れまれるなんて冗談じゃない。私はひとりでも大丈夫。ひとりでしか、ないんだから。
「モン・サン・ミッシェルとか?」
「そうね、行きたいとは思ってる」
アンリの瞳が、今度は微かに笑っていた。私の強情と、あまりにありきたりな観光予定がおかしいとでも言うかのよう。彼がワインでサラミを呑み込んだのは、何か皮肉を呑み込むためでもあったのかもしれない。
「良ければ案内するけど。君のガイドをさせてよ。何なら、旅に限らなくても」
「へえ?」
整った顔に誘うような微笑みを浮かべて、彼が次に囁いてきたのは甘ったるい口説き文句みたいなことだったけれど。人生のガイド、とでも? お酒の席とはいえ、こんなことを真面目な顔で言える人に出会えるなんて。ワインを飲むこともできないほど、私はひとしきり声を立てて笑うことになってしまった。
「ありがとう。お陰で沢山笑えたわ」
「本気なんだけどね」
目尻に浮かんだ涙を拭っていると、アンリはなぜか少し傷ついた顔をしていた。演技だろうけど、さらりとこんな振る舞いをすることができるのがフランス人、なんだろうか。生憎、私は騙されて酔わされてあげることはできないけど、貴重な体験かもしれない。
「ルーブルに行くのはいつ?」
「明日、かな」
少しだけ、楽しくなったから。だから、本当のことを答えてあげた。ストーカー、という言葉が頭を過ぎったけど、観光客も多いであろうルーブル美術館で、たったひとりの女を待ち伏せるなんて不可能だろう。
「地下ロビーに逆ピラミッドがある。カルーゼル・デュ・ルーブル――モールと、美術館の間の通路のところ。そこで待ってるから」
「え……?」
でも、アンリは、ごく真面目な顔で待ち合わせを提案してきた。ルーブル、美術館、ピラミッド。聞き取れた単語と、アンリが指先で描いた三角形から、内容を察する。
「来てくれる?」
「分からない。……もう遅いから、帰る」
急に怖くなって、私は店員に目配せするとカードで会計を済ませた。その間も、アンリの視線を感じながら。店を出て、早足でタクシーを探す間もずっとドキドキは続いていた。
無事にタクシーに乗って、しかもそのタクシーがぼったくりなんてこともなく、私は無事にアパルトマンに着いた。先に置いていた荷物と再会すると、帰って来た、という実感も湧いて、ドキドキも薄れた。アンリという、少し格好良い甘ったるいフランス人。旅の良い思い出と、後から思えるだろうか。
彼が言っていた単語で、意味が思い出せないものがあった。エトランゼ、Étranger。スマートフォンで検索してみると、英語のstrangerにあたる単語らしい。
異邦人。見知らぬ人。彼にとってもパリの街にとっても全く当てはまる言葉だ。私自身が、どこにも居場所がないような気がしているんだから。