〝十分待って〟
「…………」
ちらっとゆかりさんを見やると、真っ直ぐこちらを見つめてくる瞳に気がつきます。目と目が合いました。
ゆかりさんの顔に、くすっとおかしそうな笑みが浮かびます。
それからスケッチブックを手に取って、
〝私はこの本を読んだことがないわ。みぃちゃんのお話で知ったもの〟
向けられた紙面には、そう書いてありました。
わたしは顔を酷く赤くさせて、それから脱力してしまいます。
「どうして考えていることが分かってしまうの? そんなに分かりやすい顔しているかな?」
ゆかりさんは静かに首を振って、
「私なら分かるわ。みぃちゃんのことだもの。どんな顔をしていても、私だけは分かる」
久しく聞く、小さな澄んだ声が耳をくすぐります。
「……っ。そ、それより、ほら、質問は?」
わたしは熱くなった頬から気を逸らしたくて、わざと大きな声を出しました。
ゆかりさんはくすくす微笑みながら、話を本題に戻してくれます。助かった……。
〝じゃあ、二つ目〟
すっと人差し指と中指を立てて見せ、それからスケッチブックに言葉を書いてわたしに伝えてきます。
〝執事さんが死んだ後、どのくらいで警察が来たのかしら?〟
わたしはすぐに本を開きますが、明確な時間は載っていません。執事さんが倒れた後、すぐに警察が来てしまいます。
「んー……、細かくは書いていないなあ」
そこでわたしの予想を口にします。
「事件が朝食の時間に起きたとして、警察が来るのがお昼頃だったはずだから……。四時間くらいかな」
ゆかりさんはゆっくりと頷いて見せて、
〝良い読みね〟
と、わざわざスケッチブックに書いてくれます。
しかし、本当に聞きたいことはそういうことではなかったようです。続けてこんなことを訊ねてきます。
〝小説の方ではどう? どのくらいの文字数、行数で描かれているかしら?〟
「行数? えっと……、さっき見た限りではほとんど書かれていなくて」
お医者さんが死因を特定し、ユウトとサヤカが執事さんの遺体を見つめる場面でその章が終わり、次の章では冒頭で警察との会話から始まるのです。
「だからゆかりさんの質問に答えるのなら、ほとんど描かれていないことになる……と思う。ちゃんと答えになっているかな?」
不安なので問うてみます。
ゆかりさんからは頷きが返ってきたので、ほっと息をつきます。
〝知りたかったのは、サヤカたちが紅茶や執事さんをどのくらい調べたのか、というところだったから〟
補足説明を書いたスケッチブックを見せてくれます。
「ああ、そうか。わかった」
先程の医者は検死を間違えないという法則と同じく、専門家である警察が調べた毒に関する描写は間違っていない、ということなのでしょう。ゆかりさんはきっと、そこを確認したかったのです。
半ば自信を持ってそう指摘してみると、ゆかりさんは意外そうな顔をしてスケッチブックに文字を書きました。
〝それは盲点だったわ。みぃちゃんすごい。よく気づいたわね〟
「あれ? 違うの?」
娘の成長を喜ぶ母のような、慈愛に満ちた笑顔で拍手までされて、もはやわたしには何が何だか。
ゆかりさんは、わたしなんかの考えを簡単に見通せてしまうというのに。
でも、感心して褒めてくれているのは伝わったので、それでここは大人しく引いておきます。
「それじゃあ、ゆかりさん。最後の質問は?」
そう訊ねると、ゆかりさんが思案顔をしたので、わたしは「おや?」と思います。ここまですらすら来ていたのに。
ゆかりさんは珍しく時間をかけて悩んでから、スケッチブックに質問を書きます。
〝双子はどうなったのかしら?〟
「え、最後がそれなの? 毒殺された執事さんじゃなくて?」
思わず訊ね返すと、ゆかりさんはこくこくと首肯します。何か事件に関わりがあるのでしょうか。
ページを捲っていくと、最後の方に数行だけ乗っていました。階段下の掃除用具入れの中で眠っていたところを保護されたようです。
「無事みたいね。警察に保護されたって書いてある。階段下のスペースでかくれんぼでもしていたのかな?」
〝一晩中ずっと?〟
「あ、そっか……」
すかさず提示された返しの文字を見て、わたしもそれはないなと思いました。
では、この双子はどんな理由でそこに居たのか。それを考えるのはわたしの役目ではありません。
わたしはひとつ咳払いをして、いよいよゆかりさんから答えを聞きます。
「こほん。これで謎かけと質問タイムはお終いです。ではゆかりさん、お答えをどうぞ」
改まっておふざけな口調で訊ねると、ゆかりさんは神妙に頷き、スケッチブックを掲げます。
そこにはこう書かれていました。
〝十分待って〟