出だしはいつも決まって
「おじゃましまーす……」
小声で形ばかりの挨拶をします。
まだ朝早いので、おそらくゆかりさんは眠っているはずです。
休日はわたしが朝から来ることを知っているので、たぶん昨夜は夜更かしせずに寝たはず。
いえ、わかりません。夕方まで寝ていたのだからやはり明け方近くまで起きていて、先ほど眠りについたという可能性も。
「寝顔が見られるかも……」
ふとした思い付きに、わたしはにやっとした笑みを作って、抜き足差し足で廊下を進み、居間に向かいます。
雨戸が閉められた縁側から向かいの襖を開き、するりと中へ。
薄暗い室内には光が直接差し込む場所がなく、程よい暗さを保っているので、素早く襖を閉めます。
畳が敷かれた部屋のほぼ中央位置。敷かれた布団に人ひとり分の膨らみが見て取れます。
すすす、とすり足で近寄って、枕の脇へ腰を下ろして覗き込むと、
「…………」
すー、すー、と規則正しい息づかいをする、透き通るような寝顔がそこにありました。
薄暗いとはいえもう陽が昇っているので、彼女の顔を堪能するのには何の障害もありません。
ただ残念な点がひとつ。
ゆかりさんは既に目覚めていました。
もしかしたら寝ていないのかもしれませんが、とにかく。今は眠っているふりをしているだけです。
ゆかりさんはあまり睡眠を必要としておらず、時々こうしてからかわれるので見分けがつくようになりました。
眠っている時のゆかりさんと、寝たふりをしている時のゆかりさんのわずかな表情の違いに。
わたしを驚かせようと、楽しませようとしてくれる彼女の健気な姿が、なんとも可愛らしくて。
「ふふ……」
思わず笑みが漏れます。
それを合図にしたようにゆかりさんの息づかいが乱れ、細かく途切れ途切れに息を吐き出しながら身体を震わせ始めます。
毛布をずり上げて口元を隠します。彼女はなかなか笑い上戸です。
こうなってしまっては、いたずらも何もあったものではありません。
「おはよう、ゆかりさん」
呼び掛けに、パチリと目を開き、隠していた口元の微笑みを見せてくれます。
ちょいちょいと手招きして、
「ん? なあに?」
わたしが訊ねると、左手の指で右手の掌を指すジェスチャー。それで伝わります。
「どうぞ」
わたしの右手をゆかりさんの顔の前に差し出すと、ゆかりさんは左手を手の甲に添えて、右手の人差し指をペンに見立てて、手のひらに言葉を書きます。
〝おはよう〟
少しこそばゆいですが、これはこれで。
さすがに布団の中にいただけあってゆかりさんの手はしっかりと温かく、わたしは知らずのうちにほっとします。
幽霊も体温があるんだ、などとひとりで勝手にのんびりしていると、ゆかりさんがさらに指を動かして、
〝みぃちゃんは、きょうもかわいいわね〟
「んん? えっと……、ゆかりさんと会うからおめかししてきたの、特別よ?」
冗談めかしにそう返すと、ゆかりさんはまたにこやかに微笑んで。
わたしも楽しくて、自然と笑顔になれて。
こんな時間が永遠に続くことを願わずにはいられませんでした。
〝きょうはどうする?〟
きちんとクエスチョンマークまでつけて訊ねられ、わたしは遠くへ行きかけた意識を引き戻します。
「ああ、えっと。どうしようか……」
天井を仰いで考えます。いつものことです。
わたしは特別何かしたくて来ているわけではなくて、強いて言うのならゆかりさんに会いたくて来ているので、目的は達成されました。
かと言って、このままじゃあね、と帰るだなんてとんでもないことです。そんなもったいないことは、わたしにはできません。
だから、わたしはいつも話題を用意してきます。
お休みの日を長く二人で楽しめるように。
不思議だったり、
嬉しかったり、
楽しかったり、
不気味だったり、
怖かったり、
良く分からなかったりする、
そんなお話を。
ゆかりさんは、わたしのお話を楽しみにしてくれています。
決して自惚れなどではなくて、彼女の柔らかい笑顔からそういう気持ちが伝わるのです。
ゆかりさんが喜んでくれるのなら。
退屈せずに済むのなら。
わたしと遊んでくれるきっかけとしてくれているのなら。
わたしはどれほど苦労してでも、お話を運んでくることでしょう。
動けない彼女の目となり耳となり、彼女のもとへお話を届けることでしょう。
「ゆかりさん、あのね」
出だしはいつも決まっていました。
「こんなことがあったんだけど―――」
読了ありがとうございます。
とても長いプロローグになりましたが、わたしとゆかりさんの事の経緯についてでした。
次回より一章が始まります。楽しんでいただければ幸いです。