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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼嫁

鬼嫁にあらず

作者: 東風

何となく思いついてしまったネタをちょっとまとめてみました。

お読みいただけますと幸い。

 「あれ? 俺のマント、どこさ? 洗ってくれって言ってあったろ?」

 「ママ、ご飯! 学校に遅れちゃう!」

 「びゃ~! うぎゃ~!」

 「おい、泣いてるぞ? 抱っこしてやれよ! それと俺のマント!」

 「ママ、私、この間お姫様がしていた髪型にしてほしい。三つ編みいっぱい作る奴」

 「ひ、ひ、ひ~! ぎゃ~!」


 朝は戦場だ。

 比喩ではないつもりだが、夫は「そんな大げさな」というだろう。

 でも、私にとっては紛うことなき戦場である。

 自分のものを自分で用意しようとしない夫の出勤の用意をし、就学した娘に服を着替えるように注意しながら、家族全員分の朝食を用意し、数ヶ月前に生まれたばかりの息子に乳を与えておむつを換える。

 お陰様で、朝食を用意している私自身が、食いっぱぐれることが多い。


 「マントはタンスの一番下に入ってる! ご飯の用意できたから、二人ともさっさと食べて!

 髪型は一本に括るだけにしなさい! 綺麗にしてほしかったら、明日から一人で起きてきて!

 あぁ、ごめん、ごめん。顔真っ赤にしちゃって。大丈夫? うんちかな? おしっこかな?」

 「おい、食べてるときにうんちとか言うなよ~」

 「言うなよ~、ママぁ~」

 「じゃぁ、今度から食べる前にあんた方でおむつ換えてあげてちょうだい!」

 「朝からヒステリーかよ、ママ、怖いな~」

 「ママ、こわ~い」

 夫と娘が顔を合わせて「ねぇ~」と言い合っているのを、殺意を込めて睨みつける。

 二人はあわてて私から目をそらせると、スープとパンを口に流し込んだ。


 二人を送り出すと、ようやく私の時間……なわけがなく、息子との時間である。

 さっきうんちを取り替えたばかり。幼子は口からお尻までの距離が短いからか、出すとすぐにお腹が減る。

 それは娘の時にも経験して理解していたことなんだけど、息子の場合は顕著だ。


 ふにゃふにゃ独り言を言っている間に食器を片づけてご飯を摘まもう、そう、食べようという段階ではなく、摘まもうとしているところで、息子が激しく泣き出した。

 ようやく寝返りができるばかりになった息子は食欲旺盛な割に、一度に飲む量は小食なので、娘の時よりも乳を与える回数が多い。

 抱っこして膝に抱え、胸をぺろんと出すと、泣いていたはずの息子がほにゃぁと笑った。

 おっぱいをぺしぺし叩いて、さっさとよこせと目を輝かせている。

 「……もう……仕方ないわね」

 さっきまでトゲトゲしていた気分が、少しだけ和らぐ。

 まろやかな頬を撫でると、息子の小さい手が、私の手を叩いて避ける。

 一生懸命飲んでいるのに邪魔だ、と言いたいらしい。

 私は小さく吐息して、汚れた食器が散乱するテーブル、娘が一度履いて「色がなんかイヤ」と放り出した靴下が転がる絨毯、夫によって「そろそろコレだと暑いんだよね。洗って仕舞っといて」と放り出されたローブを視界にいれ、がっくりと肩を落とした。


 息子が「んっく、んっく」とおっぱいを飲み続けている間に、掃除をして洗濯をして、とこの後の流れの算段をつける。

 子供が産まれる前まで、共働きということもあり、掃除は休みごとに行うものだった。

 しかし、幼い赤子がいる限り、そんなことをしていては大変なことになる。

 それは、娘が小さい頃に、娘が床に散らかした食べ残しに蟻が群がり、それを娘がご丁寧にちっちゃい指で一匹ずつ捕らえては口に運んでいた、という衝撃の事件以来、私のトラウマだ。

 とりあえず掃除。何はなくとも掃除。最初にやるのは掃除。

 よし、と気合いを込めたところで、可愛らしい息子がけぷっと愛らしいげっぷをした。

 それと同時に飲み込んだはずのお乳が彼の口から盛大にリバースし……。

 私の「掃除を先に」という野望は潰えたのであった。


 急いでお湯を沸かし、盥に入れ、水も入れて温くし、適温になったところで全身乳臭くなった息子を「ていっ」とつっこむ。

 その間に、もう一つの盥にこちらは熱めのお湯をはり、真っ白に染まった乳児服をつっこむ。

 どちらが先か、ということではない。

 同時にやるのだ。


 時ならぬ入浴に、風呂好きの息子は足をばたばたさせて喜んでいる。

 それを横目に私はお湯の中で赤子用のつなぎをせっせともみ洗い。

 静かになったので慌てて目を向けると、寝返りを覚えたばかりの息子が、よりにもよって、お湯の中で寝返りをうっていた。

 見事に顔が水面に沈んでいる。

 「?!?!?!?!?!!!!!」

 声にならない悲鳴を上げてお湯から引っ張り出すと、息子は上機嫌に足をばたつかせていた。

 危ない。手首までの水深で子どもを水死させるところだった……。

 全身から力が抜け、妙に心臓がばくばくとしているのに、私の手はルーチンワークで息子の体を拭き新しい服を着せる。

 お湯から出された息子は非常にご不満で、その後、しばらくふぎゃふぎゃと泣き続けていた。 

 洗濯は後回しにして、息子を抱き上げ、散歩に行くことにする。


 まだ午前中も早い内だというのに、疲労感がハンパない。

 中空に駆け上っていく太陽を見ながら、考えても詮無いことが頭をよぎる。


 私も仕事にいきたい。お仕事したい。言葉が通じる同僚相手に建設的な話をしたい。


 職場恋愛を経て職場結婚した私は、夫が羨ましくて仕方なかった。

 何故、奴は途切れることなくキャリアを積んでいるんだろう?

 何故、私は子供が産まれる度に、仕事を長期に休んで、家で悶々としているんだろう。

 勿論、子どもは可愛い。夜、寝顔を見るだけでほにゃ~と体から疲れが溶け出す気持ちになる。

 それでも考えてしまうのだ。

 何故、私なのだろう、と。

 息子がある程度大きくなり、託児所に預けられるようになったら、私はまた職場復帰する予定でいる。

 でも、そこでの上司は夫だ。

 かつては、私の方が上司だったのに。

 夫の能力に疑問があるわけではない。

 でも、私だってやれたはずなのだ。

 息子を身ごもったときに、それとなく夫に言ってみた。

 「あなたが子どもの面倒みてみない?」と。

 夫は邪気のない笑みでこう言っただけだった。

 「無理無理、俺、何もできないし。子ども達だって、ママが一番だって!」

 私だって、子どもの世話や家事など、最初からできたわけではない。

 夫と結婚して、少しずつ覚えたのだ。

 そして、子どもができる前までは、確かに、私たち夫婦は互いに家事を分け合っていたはずだった。

 私がいるこの場所は正しいのだろうか?

 私は世界から隔離されているんじゃないだろうか?

 私は今、閉ざされた家という場所の中で、私自身を無駄に消耗しているのではないだろうか?

 子育てが終わったとき、私の手の中には何が残るんだろう?

 恐怖心がにわかに湧き、手のひらを眺める。

 空っぽの手のひらを。


 背中から、息子のすぷすぷと呼吸する音が聞こえた。

 動きもないから、眠ってしまったのだろう。

 公園のベンチに浅く腰を下ろし、ぼーっと空を眺めた。


 いい天気だった。


 そういえば、朝ご飯、やっぱり食べ損ねたな……。

 青い空を見上げながら、空きっ腹をさすってため息をつく。


 ドォォン!

 突然の地面を揺らす轟音に私は背筋を伸ばした。

 音が響いたと思われる東に目を向けると、城壁からもうもうと煙が上がっていた。

 目を細めて睨みつけていると、城壁がゆっくり崩れていくのがわかった。


 王城を、そしてもう一つの門がある西をみるが、そこは静かなまま。

 娘の学校は王城近く、夫は王城に勤めている。

 つまり、二人は大丈夫。何かがあったとしても、学校の万一の避難場所は王城だし、夫が何とかするだろう。


 でも、ここは?

 逃げまどう人々を見て、眉を顰める。

 咄嗟に腰に手をやり、ロッドがないことに愕然とする。

 息子をお風呂に入れるときに、邪魔だから、とかごの中につっこんだことを思い出す。

 私たちの家は、東門に近いところにある。

 どうしようか、私は迷った。


 「ちょっと、奥さん! 大変よ! 魔獣が攻めて来たんですって!

 すぐに逃げなきゃ!」

 近所のママ友が青ざめたまま、子どもを抱きしめて西へ走っていく。

 「西じゃなくて、王城の方へ向かってください! 騎士団と魔術師団がそっちからきます!」

 私が声をかけるけど、アタフタしているママ友に聞こえたかどうか、わからない。

 大勢の人が右往左往して、無意味に走り回っている。

 そうこうしている内に、東門の方でもう一度大きな音が響いた。

 東門があったあたりに、ぽっかりと大きな穴が開き、その向こうの平原が覗く。

 私は息を飲んだ。

 平原には、黒い雲のように、魔獣がそこを埋め尽くしていた。

 東門の守備隊が頑張っているのは見えるが、あれでは焼け石に水だ。


 「王城へ! 皆、王城へ!」

 私は叫びながら走った。

 家へ。あの崩れた城門のそばにある我が家へ。

 ここから王城よりも、そっちの方が遙かに近い。

 そして、危険にも近い。


 背中では、私のただならぬ様子に驚いた息子がおぅおぅ何かを喋っていたけど、今のところ昼寝もして、その前におっぱいも飲んでいたので、まだ十分ご機嫌なようだ。

 迷いがないわけではない。背中にいる息子まで危険に巻き込もうとしているのだから。

 でも、私は足が速い方ではない。体力もない。息子を負ぶったまま、狂乱の大路を通って、王城にたどりつけるとは到底思えなかった。

 二人で生き残らなきゃ。

 この子を守らなきゃ。

 娘は、必ず夫が守ってくれるから。

 この子は私が守らなきゃ。


 「ごめんね、ちょっと揺れたり……なんだりするけど、ママ、頑張るから。あなたも頑張って」

 おんぶ紐越しに息子のお尻をぽんぽん叩くと、息子はきゃっきゃと笑って足をばたばたさせた。

 勿論、私の悲壮な覚悟なんて、寝返りができるようになったばかりの息子にわかるはずはないんだけど、いつものご機嫌な様子が、私の選択を肯定してくれているようで、肩の力が抜ける。

 それにしても、と私は考える。

 息子が寝返りができるような月齢で本当に良かった。

 首がすわる前だったらこんな無茶な行動は絶対にできなかっただろう。

 それでも勿論、限度があるわけだけど……。


 「王城へ! 皆、王城へ! すぐに騎士団と魔術師団が来ます!」

 私は逃げる人混みに刃向かうように走りながら、声を振り絞る。

 背中で、息子までが「おぉぉう! おぉぉう!」と一緒に叫んでる。

 「ちょっと、そこのおばさん! 危ないぞ!」

 「危なくないですし! 魔術師ですし! おばさんでもありません!」

 親切でお節介なおっさんに叫び返し、彼の手をふりほどいて先へ、先へと急ぐ。

 家の屋根が見えている。

 でも、その近所の家は半壊し、火の手もあがっていた。


 魔獣は普段群れることはない。

 世界の歪みが作り出すと言われているが、それが生まれる瞬間を見たことがある者もいない。

 多くの魔獣は成人男性の半分程度の大きさしかなくて、一匹二匹が山野に現れる程度だ。

 それでも、その力は人間よりも強く、魔術師とは違う系統の方法で魔力を使い、人々に被害を出す。

 魔獣は人間の中にある淀みと、魔力を糧に増えていくらしい。つまり、彼らは人間のみをターゲットにしてくる。

 よって、国中の人々に、魔獣を見かけたら、速やかに領主に報告するよう義務づけられている。そうすると、領主から国に連絡がいき、騎士団と魔術師団の混成小隊が派遣される。

 この混成部隊により魔獣は駆逐され、国は維持されていた。


 だけど、ごく希に、魔獣が大量発生することがある。

 発生条件はわかっていない。

 発生する場所も一定ではない。

 周期は二~三〇年に一回。

 たまたま、今日のここ、ということなんだろう。

 過去にはこの気まぐれな大量発生により、一夜で滅びた国もあった。


 崩れた瓦礫に足を取られないよう注意しつつ、そろそろと進む。

 隣家は完全に崩れ、庭付き一戸建てで素敵な我が家も半壊している。

 家計の足しにしようとして、最近ようやく充実してきた家庭菜園も、娘が夫にせがんで作ってもらったちょっと不格好なブランコも、息子の生後一〇日の記念にと作った小さな手形の粘土板も、全部瓦礫の下だ。

 恐怖よりも、怒りがわき上がった。

 私たちの愛の巣を! まだローンが残っている我が家を!

 怒りにまかせて我が家に突撃しようとして、「きゃっきゃ」とはしゃぐ背中に気づく。

 危ない、危ない。

 独身時代の無茶な行動は、今はできない。

 私は素早く視線を走らせ、お隣さんの敷地内に転がるとあるもの(・・・・・)を見つけた。

 「これだ!」

 私はいそいそと用意をし、軽く体を揺すって重さ以外に問題がないことを確かめた。


 そこかしこで、倒れてぴくりとも動かない人に群がる魔獣。

 顔も背格好もわからないけど、あれは今朝まで生きていた人で、私の知り合いかもしれない人だ。

 私は息子のお尻を叩いた。

 「ちょっと静かにしててね。ママ、急ぐから、少しの間だけね」

 言葉がわかるはずもない息子は、さっきまでの大移動ではしゃぎすぎたのか、うとうとし始めたようだ。

 静かな今の内に……。

 私は物陰を伝って、我が家に入り込む。


 半壊した愛着のある我が家にショックを受けている暇はない。

 幸い、家の奥の方にあるバスルームは壊れていないようだ。

 私は背後を気にしながら、無事なバスルームに駆け込もうとした。

 「あれ?」

 思わず声がでる。

 半壊の余波か、全く無事に見えたバスルームのドアが開かない。

 家がゆがんでしまい、ドア枠がきしんでしまったようだ。

 行儀悪いとは思ったが、足をドア枠にかけ、両手でノブを引っ張る。

 開かない。

 どうしよう、ここまで来たのに!

 後ろを気にしながらドアを引っ張る。ミシリと音はするけど、動こうとはしない。

 周囲を見回し、ダイニングのイスが転がっているのを見つける。

 魔獣は音に敏感だ。

 できれば、音を出したくはない。

 今はスヤスヤ寝ている息子だって起きてしまうかもしれない。

 だけど……。でも……。


 職から離れて久しいと、色々勘も判断も鈍ってくる。

 私には正解が見つからない。

 やっぱり、ここまで来たのは間違いだったのだろうか。

 私はもう、魔術師としての資格はないのかもしれない。


 喉にこみ上げる熱いものを何とか飲み下そうとしているところで、最悪のことが起こった。

 「ふぎゃ~~~~~~~~~~~!!!!」

 息子が泣き出したのだ。

 魔獣の気配が近づいている。

 壁の陰にいるからすぐに襲われないだろうけど、見つかるのは時間の問題だ。

 「泣きたいのは、ママの方よ~~~~~~~~~~!!!!」

 私は振り上げたイスを思い切りよく扉にぶつけた。

 ダイニングのクリーム色の壁紙にあわせて買った、ちょっとお洒落なクリーム色のイスは、バスルームの扉とともに大破したのであった。

 「高かったのに~~~~~~~~!!」

 「ぴぎゃ~~~~~~~~~~~~!!」


 ロッドを手に入れた私は正に無双状態。

 怒りにまかせて東門の外を火の海にし、目に映るすべての魔獣をそこに放り込んだ。

 「ありがとう! ありがとうございます!」

 「助かりました!」

 「味方で良かった!」

 「やべぇ……こっちを夢に見そうだ……」

 賞賛の声(一部を除く)も耳に心地よい。社会に受け入れられている、必要とされている、自然とそんな気持ちになり、胸の底に鬱屈していたもやもやがすっきりと晴れていくのを感じた。


 後日、魔獣を越えた炎の魔女、という全くありがたくない称号をいただき、がっくり床に両手をついくことになるが、このときは知る由もない。


 私の中の魔力がスッカラカンになり、肩で息をし、ぼーっと火の海を眺めているところで、後ろから声が聞こえた。

 「魔獣よりも暴れたんじゃねぇの、あのオバサン」

 「赤ん坊背負ってとか、何考えてんだよ。単に自分が暴れたかっただけじゃないか?」

 遅れて駆けつけてきたあげくに、見せ場を奪われた騎士団の連中が、これ見よがしに嫌みを呟く。

 ぎりっと奥歯をかみしめ、ロッドをぎゅっと握りしめる。

 魔力がスッカラカンになるまで頑張ったことを後悔した。

 一発くらいはお見舞いしてやりたい。

 いや、でも、奴らが能力ある魔術師に嫌みを言うのは、いつものことだ。

 私は後から後からわいてでる嫌みを耳から閉め出そうとして、固まった。


 「魔獣を駆逐することが魔術師団と騎士団の役目だ。

 その役目に欠片も努力していない奴に、俺の嫁の悪口は言わせねぇぞ」

 聞き慣れた声に背筋が伸びる。

 ぐえっという蛙が潰れたような音が二回聞こえ、追って二回、どさりと何かが落ちる音がした。

 それっきり、小うるさい騎士達の声は聞こえなくなる。

 近づいてきた気配が、私の肩をそっと掴んだ。

 「おい、それ……大丈夫か?」

 私の背中では、大きな鍋を頭からかぶせられた息子が泣き疲れて眠り込み、おむつからあふれ出たおしっこがしとしとを降りしきっていた。

 「大丈夫よ、勿論。いま、気分壮快なの」

 私は夫を振り返り、にっこりと微笑んだ。

 「だって、私、魔術師ですもの」

 追いついた魔術師団と騎士団は、何故か私たちを遠巻きに眺め、決して近寄ってくることはなかった。

 二人ばかり騎士が転がっていたけど、気にしない。

 ただ、夫だけは苦笑を浮かべながら、私の頬を撫でてこう言ってくれた。

 「お疲れさん」



 「ママ、髪の毛、クルクルにしてって言ったのに~」

 「そういうことは昨日の内に言いなさいって言ったでしょ?」

 「ゴミ、捨ててくる。今日は燃えるゴミの日だよな、ほかにないか?」

 「ないで~す」

 「ないみたい」

 「そうだ、果物、すり下ろしておいたから、食べさせるのはよろしくな」

 「わかった」

 「ほら、パパと一緒にでるぞ。髪はリボンさえつけときゃ可愛いって」

 「パパ、オトメゴコロが全然わかってない! 女の子はそれだけじゃダメなの!」

 「オトメゴコロっていうくらいなら、ちゃんと顔を洗って行きなさい! 歯、磨いたのか?」

 「洗った~、磨いた~。行って来まーす!」

 慌ただしく夫と娘を見送り、私は息子に、夫が用意しておいてくれたすり下ろした果物を与える。

 少しずつ、離乳食も進んでいる。

 まだおっぱいと半々だけど、娘の時に比べると、離乳食のすすみは良い方だ。

 離乳食の横には、夫が作っておいてくれたチーズスフレがあった。

 トーストを用意して、スフレと一緒にいただく。

 息子がちっちゃい手を伸ばしてきたので、スフレを少し遠くに置く。

 「あなたにはまだ早いね~。でも、パパのチーズスフレ、ふわふわですっごく美味しいから、早く食べられるようになるといいね」

 パンをぬるいミルクに浸して、息子の口に放り込んでやると、にこにこと笑う。

 チーズスフレのことは忘れたらしい。

 私もにこにこと笑う。


 あれから、夫は家事に協力的になった。

 家が半壊し、夫婦で力を合わせる必要がある、とわかったのだろう。

 娘の勉強を見てくれたり、私がお風呂に入っている間に息子の面倒を見てくれたり、と甲斐甲斐しい。

 夜中に起きた息子を、私の代わりにあやしてくれたりもする。

 娘は相変わらずマイペースだけど、私だけでなく、パパにも頼るようになった。

 何でもかんでもうまく行くわけじゃない。

 昨日だって、夫とは喧嘩をしたばっかりだ。

 それでも前より鬱屈しない。

 なんだか、掛け違えていたボタンが直されたように、しっくりとはまる感じ。


 魔獣襲撃の直後、夫から私の職場復帰と夫の育児休暇申請について相談があった。

 私の活躍は国王陛下の耳にも届き、遊ばせておくには惜しい人材、ということになったらしい。

 「おっぱいに頼らなくなってきたからな。ここからは男同士、しばらく仲を深めるさ」

 夫はそう言って笑ってくれたけど、私は首を縦には振らなかった。


 私自身、あの襲撃を境に、少し考え方が変わっていた。

 あのとき、私はあの場所にいたから、ご近所の大勢の人を救うことができた。

 息子にけが一つさせることはなかった。

 職場にいなければ「私の居場所がない」と思いこんでいたのは間違いだった。

 いずれは職場に復帰したいと思っているけど、いま、ここにあるのも確かな私の幸せであり、私のいる証だ。

 自分を犠牲にするのではなく、今、ここにいる自分を大事にしよう、と思った。

 まだ小さい息子との時間。おしゃまになってきた娘との時間。

 そして、臆することなく私に手をさしのべてくれる夫との時間。


 「さぁ、今日こそお掃除するわよ!」

 腕まくりをする私の背中で、ハイハイできるようになった息子が不満のブーイングと唾とばしを行っている。

 お団子にまとめた私の髪はしっとりと重くなっていた。

 それでも気にせず、掃除を始める。

 お風呂だって洗髪だって、何度でもやり直しはできる。

 夕食作るのが遅れたら、お総菜買ってきてバランスを整えればいい。

 大事なのは家族皆がそろってること。

 皆が皆のために、ちょっとずつ損をしているって、知っていること。

 「さぁ、歌いながら頑張ろう~♪ ら~ららら~らら~♪」

 強引に息子の好きな歌を歌うと、息子もあうあうとノってきた。


 空は今日も晴れていた。

20180608 ご指摘いただきました、誤った表現を訂正いたしました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ぼちぼち面白かったです。主婦日記みたいなファンタジーもあたらしいかもですね [気になる点] おっとり刀は急いで駆けつける意味です。特に漢字でかくと [一言] がんばってください
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