運命の赤い糸
若者が闊歩する夜の渋谷の、黒いじっとりとしたアスファルトの上で私は立ち止まって空を見上げた。真下で輝くネオンの光を恨めしく思っているかのように、空に点在する幾数もの灰色の雲が、真っ黒なキャンバスの上でまだらに並び、蛇の体にあるような不気味で不愉快な模様を作り出している。
夜だというのに明るくて、熱っぽいこの街に漂う空気は意外にも冷え冷えとしていた。
会社を辞めて、夜の十時に独り渋谷で歩いている男。五万九千円の黒のスーツに身を包んではいるが、ネクタイも締めておらず、上着のボタンも一つも止まっていない。私は両手を天高く上げた。冷え冷えとした風が脇腹をかすめる。上着はばさばさとはだけ、夜の街渋谷をたった今駆け抜けてきた風がシャツの首元から侵入し、私の胸から腹を優しく撫でた。酷く開放的な気分になり、自然と顔の筋肉が緩む。
女子高校生が数人、私の様子を不審がって、こちらをちらちら見てくすくす笑ったり、友達と私について何か話しているようだ。はっきりと聞こえるわけではないが、かろうじて耳に届く断片的な言葉から推測するに、彼女らは私のことを言っている。子供に笑われるのは恥ずかしいことではない。今私がしてきたことに比べれば、そんなこと、いちいち気にするほどでもない。
ポケットに手を入れ、持ち金を調べた。十万円ほどある。今日は同僚と飲みに行く予定だった。その同僚の名前は山下友里という。私より二年遅く入社した女性で、私と同じ大学を出た。大学生のときに、サークルで彼女と知り合い、当時からお互いを意識し合っていた。
今日は彼女との久し振りのデートのはずだった。
仕事を終え、彼女の所に向かった私は、彼女までもう五メートルのところでふと足を止めた。彼女が、デスクが横の男と何か話していた。うちの会社は入社時期でデスクの位置が異なり、新入社員は一か所に集められる。そこでフレッシュマン同士、慣れないうちはお互いに助け合いながら仕事をするのがうちの会社の方針であった。彼女の横の男は、有名国立大学を出たエリート新入社員だった。顔も悪くない。身長も、私より七センチほど高い。大学時代はスポーツをやっていたらしく、逆三角形の精悍な男であった。
彼女は私よりその男を選んだ。デートの約束は、あっさりと破棄された。大学生時代のあの青い思い出は何だったのか。背筋が冷たくなった。女というものはこんなものなのか。私は彼女に怒りを覚えた。何日も前から約束したことである。ここで怒らない男がいるだろうか。
私は彼女に詰め寄る。彼女は一歩下がって私の顔を見上げた。
私が口を開こうとした瞬間、そのエリート男が彼女と私の間に割って入った。
「すみません先輩、今日は帰ってください」
少し声を高くして男はそう言った。人を侮蔑するときに出す声色だった。激しい怒りが体中に火をつけて回った。しかし私も大人である。冷静にならなければならない。
「彼女と少しだけ話をさせてくれないか?」
「しつこいですよ、先輩。また今度彼女を誘えばいいじゃないですか。今日は私に貸してください」
――貸す、だと?
「お前、調子に乗るなよ!」
オフィス中に響き渡る声でその男を怒鳴りつけた。帰ろうとしていた数人の同僚が動きを止め、こちらを見た。目の前の男は迷惑そうな顔をして私を睨んだ。
「あんたみたいな人いるよ。自己中心的っていうの? 自分の思い通りにならないとすぐ大声出すタイプ。レベルの低い大学卒に多いんだよね、そういうの。バカじゃないの? さっさと帰りなよ。みんなあんたのこと変人だと思っているよ」
また背筋が冷たくなった。しかし、すぐに激しい怒りが全身から巻き起こり、もうそれは自分ではどうすることもできなかった。この瞬間、私も、目の前の男の運命も、決まってしまった。
右腕に全身の力が込められた。全く無意識であった。固く握られた拳が、男の心臓を直撃した。
男はパンチの衝撃で後ろに倒れた。倒れるときに後頭部も床に打ち付けていた。男は動かなくなり、男の足がピクピクと痙攣し、口からは泡混じりの唾液が垂れ流しになっている。
横で見ていた友里が悲鳴を上げた。残っていた同僚の動きも、途端に慌ただしくなる。
私は会社を飛び出した。もうこの会社にはいられない。辞めよう。
走りながら何度もそう頭の中で繰り返した。
私は凶暴な男なのだろうか。
心の中でそう自問し続けながら、私は行くあてもなく夜の街を彷徨った。風が冷たい。生きるということは難しいことなんだろうか。他人の言動に腹を立て、殴り、そしてその場から逃げ去る――。自分で難しくしているだけではないのか? いや、俺は正義を貫きたかっただけか? ――正義。それも曖昧な言葉だ。この街の在り方に似ている。ここは夜も明るい。それが若者に居場所を与えてしまった。不健全で、不都合な居場所。
しばらく歩いていると、路地裏に出た。ネオンの光が少し離れて、幾分落ち着いた感じがする。だが、閉められた店のシャッターの卑猥な落書きが、この静かな路地裏の雰囲気を決定してしまっていた。ふと、視線を感じて振り返ると、一人の女子高生が電柱に寄りかかって私を睨んでいた。ストレートの黒髪が美しい女の子で、大人びた雰囲気の中にあどけなさも感じられた。スカートは極端に短かったが、化粧は薄くて、眼の大きい、健康そうだがどことなく暗い感じの女の子である。
「お金くれない? やらせてあげるから」
私はふと乱暴な衝動に駆られた。男を殴ってきたという興奮が、まだ体の中で燻っていたらしく、何かを壊したいという危ない欲求が芽生えた。私はポケットから一万円を取り出した。
少女は私の眼を見つめた。
「少ないよ」
私はポケットから一万円札をもう一枚取り出した。
「もうちょっと欲しい」
「いくら欲しいんだ?」
「……」
私はポケットの金を全部出した。
「これでいいか?」
女子高生は目の前の十万円を見て、眼を丸くして私を見た。
「こんなに?」
「ああ」
夜の十時。一人寂しげに歩いていたこの少女は、十万円という金権の前にひれ伏し、私に体を売ることを承諾したのである。美しい少女だった。私がこの子の父親なら、夜の十時に家に帰ってこなかったりしたら酷く心配して、あちこち探し回るかもしれない。
並んで歩いていると、罪悪感がこみ上げてきた。本当に、自分が嫌いになりそうだった。さっきまで正義について自問自答していたくせに、今となっては女子高生買春の犯罪者になりさがってしまったのだ。
ホテルに入ると、彼女はベッドに座り、靴を脱いだ。短いスカートから伸びた二本の白い美しい足が、部屋の薄暗い照明に艶やかに照らし出され、太腿から脹脛にかけてのその滑らかな曲線は、さっきまでの辛い現実をすべて忘れさせてくれるような色気を発していた。
私は彼女を見下ろした。彼女は潤んだ瞳で私を見上げる。彼女は泣いていた。
「怖いのか?」
「……」
「初めてか?」
少女はゆっくりと肯いた。
「俺もだ」
彼女はふっと私を見上げ、しばらく私を見つめた。彼女の眼から涙が零れ落ちた。
「お願い、やさしくして……」
私は彼女の両肩に手をやり、ゆっくりと彼女の体をベッドに沈めた。私は静かに彼女の上に体を持って行き、彼女の顔を両手で優しく包み込んだ。
夏服の制服は白いシャツのようなもので、その下にすぐに下着が見えた。私は彼女の制服のボタンを一つ一つ丁寧に外していった。彼女の白くて美しい胸の肌が露になり、私の心臓が早鐘を打ち始めた。
彼女は静かに私を見つめている。
私は手を下にやり、彼女のスカートを脱がそうとした。その時、彼女がしくしくと泣き始めた。
私は思わず手を止めた。
「……ごめんなさい、気にしないで、続けて……」
私は一瞬躊躇ったが、すぐにまた手を動かし始めた。スカートを脱がし、シャツも脱がして、彼女は下着姿になった。私は黙々と続けた。この衝動はどこからわいてくるのだろう。自分でも不思議だった。目の前で動いている手が、自分の手ではなく誰か別の汚い男の手のように感じられた。
全裸になった彼女は、眼を瞑ってベッドに横たわっている。私はそっと彼女を抱きしめた。
ゆっくりと彼女の体を起こし、ベッドに座らせた。私は彼女の横に座り、彼女の肩をそっと抱いた。
彼女は眼を開き、私を見つめる。私は静かに彼女に接吻した。静かに唇が離れ、また私たちは見つめあった。彼女の瞳の奥に底知れぬ悲しみが動いている気がして、思わず目をそらした。
彼女は天使のようだった。本当に守りたかったものが、目の前にいる気がした。命を賭してでも守る価値のあるものが、そこにあった。その瞬間、この傷一つない純な美しい生き物を汚すことは私には決してできないと、私は悟った。
私は彼女の太腿の上に十万円をそっと置いた。
「もう、二度と体を売ってはいけない。君は美しいから、きっと優しくて強い男の子が、君を守ってくれる日が来るだろう。その日まで、絶対に誰にも体を許してはいけないよ。その十万円は、君が私の言いつけを守ることへの代金だ」
私がそう言うと、彼女は私の胸に泣き崩れた。怖かったのだろう。本当はこんなこと、したくなかったんだろうな。
服を着るように彼女に言ってから、私はなぜ彼女が私に体を売ろうとしたのか話を聞いた。
彼女の父親は五年前に労働中の事故で他界し、生前競馬やパチンコにのめり込んでいたせいで、消費者金融で多額の借金を作っていたという。彼女を養うのと、借金を返すため、母親は風俗で働いているらしい。1週間に数度だけ、彼女と会っているだけだそうだ。それでも彼女は母親を愛しているという。母親以外に、まともに愛せる人間が、彼女の周りにはいないようであった。
クラスの誰かが、自分の母親が風俗で働いることを漏らしたため、学校では酷く虐められているらしい。
彼女は私の想像をはるかに超えた苦痛に耐えてきたのだろう。この白い頬は、一体何度涙に濡れたことだろう。家に帰っても誰もいなくて、狭くて暗い、テレビもないアパートの一室で一人寂しくご飯を食べ、一人寂しく眠る。希望のない朝を、健気に迎え、お弁当を作り、電車に乗って一人学校に通う。辛い学校生活を決して諦めようとしない。たった一人の愛すべき母親が、体を売ってまで稼いだお金で通わせてくれている学校を、辞めるわけにはいかないのだという。
この美しい天使のような少女は、地獄のような日々についに耐えかね、愛に彷徨し、今日初めて夜の街を歩いた。そして私と出会った。
「世の中は辛いことがたくさんある。君は、確かに他の子よりもずっと苦しんできたね。でも、君は諦めずに生きた。それは凄いことなんだよ。君は誰よりも強い。生きろ。強く。絶対に境遇に負けるな!」
彼女は涙を拭いた。
「俺の携帯電話の番号を渡しておく。何かあれば、遠慮せずに電話してきなさい」
彼女は素直に受け取った。
「ありがとう」
彼女はそう言って微笑んだ。彼女の微笑みは、この冷たくて暗い世界で、最も眩しい光を放っていたようだった。
私は傷害罪で起訴された。もちろん、会社はクビになった。
判決は懲役六か月。執行猶予がつき、刑務所に入ることは免れた。男が死なずにすんだのと、同僚の証言で、男の挑発的な言動が原因と判断され、罪は少し軽くなった。
それから私は大学に再入学した。教員免許を取ろうと思ったのである。夜の街に出て、愛に彷徨する子供たちに、ほんの少しの優しさを分け与えてやりたいと思ったからだ。
数年後、教員免許を取り、晴れて私立の夜間高校教師としての道を歩みだした。
就任式の日、私はあの天使と再会した。
驚いたことに、彼女も教師になっていた。あれから母親と真剣に話し合い、母親は風俗を辞め、彼女も高校を辞めた。父親の借金を返済するのは不可能だったので自己破産を申し立て、その後は生活保護を受けながら、親子でスーパーやコンビニ、ファーストフード店でアルバイトをしながら生計を立てたらしい。彼女はその後勉強を続け、大検を受け、大学に進学し、教員免許を取って、晴れて高校教師となった。
「お元気でしたか? もう逢えないかと思った」
彼女は微笑みながらそう言った。
天使のような笑顔は、あの頃のままであった。
「これ、覚えてます?」
彼女は青い色のハンカチで包まれた封筒を鞄から取り出した。
封筒の中身は、古いタイプの一万円札が十枚――あの時私が彼女に渡した十万円である。
「『きっと優しくて強い男の子が、君を守ってくれる日が来るだろう』ってあなたが言ってくれたとき、嬉しかった。希望のある言葉を聞くのは、久しぶりだったから。大学に入って、友達もいっぱいできて、優しい男の子とも大勢知り合いになった。でも、みんなやっぱりただの男だった。あなたに勝てる男はいなかったわ」
彼女は茶封筒を私に差し出して、こう言った。
「この十万円は、あなたと私を結ぶひとつのものだった。名前も、住所も知らない私たちの、唯一の赤い糸」
彼女は俯いて、嗚咽した。しばらくして、顔をあげ、こう続けた。
「これは私の宝物。あなたの、私への信頼と愛情の結晶なの」
「君は美しくなったね。あの頃よりも、ずっときれいだ」
風が私たちを包み込む。鳥たちが遠くのほうで静かに鳴いていた。
私は人生で初めて、本当に愛すべき女性を見つけた。
END