陽だまり
彼、リヒャルトとの朝食を終え、まだ薔薇の香りが充満する自室へと戻る。すると、控えめな可愛らしい声が飛んできた。
「ティニア様!! リヒャルト様が泣いてしまわれますのであまり厳しいことは――」
「メグ……あなただって流石に寝起きにむせるほどの薔薇があったら嫌でしょう?」
亜麻色の髪を三つ編みにしているうっすらそばかすの浮いた二十代ほどの女性。黒を基調としたこの屋敷のメイド服を身に纏い凛とした立ち振る舞いをする彼女は僅かに考えた素振りを見せたかと思うと苦笑しながら答えた。
「……確かにお気持ちはわかりますが。で、でもリヒャルト様はティニア様のために――」
「好意も度が過ぎれば嫌がらせと同じよ。そもそも私はあの方からそんなものが欲しいわけじゃないもの」
困ったように何やら呟き始めるメイドのメグは一番付き合いの長い傍付きだ。五年前から私のわがままを受け入れてくれる優しい子。たまに申し訳なくなるがそれで終わりだ。私はこんなところにだらだらいていいわけじゃない。
「私はこうやって甘やかされることじゃなくて使い潰されることが望みなのに」
「まーたそのようなことを……! ティニア様、そんなにご自分を卑下するのはよしてください」
いつもこの屋敷の人間は私が自分のことを卑下していると思ってる。そんなことはない。実際、ここに来るまではただの村娘だったのだから。
着せられた服は室内着にも関わらずドレス。ここに来た当時はふざけてるのかと思ったが今じゃ当たり前だ。もちろん、最初に色々文句をつけたせいで動きやすいドレスのようなものになっているが。色は何色が好きかと聞かれたので暗い色、と答えたらそれ以降ずっと暗い色のドレスが部屋着に送られてくるようになった。極端すぎる、と思ったが自分の我が儘を言ったあとなのでさすがに文句を言えなかった。今日はワイン色のドレスで裾が広がっていないタイプのものだ。しかし、最近のはドレスというよりワンピースに近くなったデザインのような気がする。ドレスに似た何かではあるが周りが「ドレスです。ドレスったらドレス」と念を押して言うのでドレスということで納得している。恐らく私への思いやりなので。
「……外に出たい」
「うっ……それはぁ……その……難しいと思い、ます」
メグの視線の先には鉄格子がしっかりとはめられた窓。実際、この部屋から出るのだって一人では禁止されているしここ最近外の光を浴びてない。
「……いくら眷属化したとはいえ、日の光を感じられないのはなんだか……」
「まあ、危ないですわ。リヒャルト様くらい強い力を持っていれば日の下を歩けますがティニア様ほどだと……」
「わかってる」
彼、リヒャルトの眷属となった私は吸血鬼に近い習性へと変わっている。見た目こそはただの人間だし吸血衝動なんてものもない。リヒャル曰く、吸血鬼にほぼ近いから寿命や性質は吸血鬼。血を求めない吸血鬼とのこと。先日の薔薇園も魔界のどこかにある場所に飛んだだけで日の下に出たわけではないのだ。
外に出たい……。
「メグ……一人になりたいから下がってくれる?」
「大丈夫ですか?」
「ええ、何かあったらすぐに呼ぶから」
「かしこまりました。それでは失礼します」
躊躇いながらも部屋から出ていくメグの足音を慎重に聞き、完全に離れたことがわかると窓の傍へと寄った。
できるだけ音を立てないように鉄格子を外し、ようやく全てを取り外すと久しぶりに窓を開けて外の空気を吸いこむ。妙な懐かしさと共に急がなければという焦りが自分を急かし衣装が汚れるのも躊躇わず窓の外へと降りた。
先日、鉄格子の一つが曲がって見えたので触ってみたらなんとその窓の鉄格子が全て面白いように外れたのだ。リヒャルトにもメイドにもこのことは言わず、いつか使えないかと考えていた。まあ、今回のことですぐに直されてしまうだろうが。
リヒャルトは人間界に居を置く吸血鬼でも変わり者らしく今ここも人間界だ。怪しまれると屋敷ごと別の地域に移動させているようでずっと同じ場所ではないらしいが。
時間はまだ朝食を終えたばかりの午前。まだそこまで日は昇っていないがどことなく気怠く感じる。リヒャルトの眷属だからかそこまで害は感じないようだ。
吸血鬼の弱点として世間一般に知られているニンニク、十字架、流水などは実際に対して効果はなく、炎や銀製の武器、そして日光などが弱点とのことだ。正直、炎で燃やされれば人間だって死ぬし銀製であろうとなかろうと武器で刺されたら人間だって致命傷になる。そこまで大差はないように思えるのだ。見た目こそ、吸血鬼と人間の違いなんて尖った耳と牙くらいなのだから。
だからこそ、この日光というものが自分が眷属化したという実感を与えてくれる。
「さーて、どうせすぐにバレるし散歩でもしようかしら」
いつものことでこういった脱走だのをすると恐ろしい早さで従者の誰かが追いかけてくる。慣れていることとはいえ、散歩もろくにさせてもらえないのは少しばかりいかがなものか。
どうせ、行くところもなく帰るのは間違いなくあの屋敷だというのに。
五分ほど歩くとどうやら森に来たらしく、少し離れた場所に屋敷が見えた。無駄に大きな屋敷だが全貌を見るのは片手で数えるほどだった。
「……ちょっとだるくなってきたな」
木陰に入り日光から避けるようにして座り込む。長時間外で活動できないのも元々人間だった身としては不便極まりない。
僅かに葉と葉の間から覗く雲をぼんやりと見つめながら意味もない時間を過ごしていく。
「……私は餌なのに……」
「誰かいるのか?」
ぽつりと漏れた独り言に応えるような声に思わず顔を上げる。そこにいたのは二十代前半ほどと見られる青年が驚いたような顔を浮かべていた。平凡な茶髪に黒い瞳。間違いなく人間だろう。
「えっと……こんなところで何をしているんだい? その……村の人じゃないよね?」
この近くにどうやら村があるらしい。それがわかると同時に私に向けられた疑惑の目を感じ取った。
どう見ても上物の服を来た女。見た目は恐らく十八前後に見えているだろう。怪しいことこの上ない。しかし、変に言い訳しても意味がないことはわかっている。こういう時、素直に言っても言い訳しても大して変わらないことは学習済みだ。
「ええ、村の人間じゃないわ。見えないかしら。あそこの屋敷から少しばかり抜け出してきたの」
「あの屋敷……あそこって……お化け屋敷って噂の……」
「あら、そういう風に噂されてるの。実際は変わり者の伯爵様が住んでる屋敷よ」
青年は怪訝そうな顔でこちらを見つめてくる。恐らく、私があまりに淡々とおかしな事を言うのだから信じそうで信じられないのだろう。
ざぁっと風が吹いたと同時に青年は私に目線を合わせるようにしゃがみ込んでくる。前にも、こんなことがあったような気がする。
「君は……」
青年の言葉を聞く前にある気配を感じ取り鳥肌がたった。
「……ごめんなさい、今すぐあなたここから離れて」
「えっ、どうし――」
「いいから。死にたくないなら早くここから離れて」
声が真剣だったからか青年は大人しく私から離れてあっという間に見えなくなった。足の速さに僅かに感心したがそれどころではない。
近づいてくる気配は覚えのあるもの。だってそれは――
「ティニア!! ティニアティニアティニア~!!」
私の主、リヒャルトに決まっていた。
かなり着崩しており、薄い作業用のシャツ一枚に長めのズボンという出で立ち。そんな格好で仕事するなと何度毎回思うが彼の仕事スタイルに口出しするのはさすがに出しゃばり過ぎなので何も言わないでいる。というよりも初めて見た時に思ったことがこんな軽装でも質のいい生地を使っているから金持ちって怖い、と真剣に考えたくらいだ。
「ティニア~……勝手に屋敷から出ちゃ駄目じゃないか~! どれだけ僕が心配したと」
「貴方が来たことを考えれば心配度はよくわかりますが仕事はどうなさったのですか」
先程まで背筋が凍るような気配だったのによくもまあこんなに一瞬でヘタレになれるものだとつくづく思う。だが、青年がこのままここにいたらと考えるとゾッとする。この人なら一緒にいたという理由で殺しかねない。
「仕事? ああ、オリバに押し付けてきた」
何でもないように言うがオリバ――オリバ・エフェメールはリヒャルトの腹心にあたる従者で付き合いも長いらしくかなり昔から苦労をかけているようだ。かわいそうなことに彼に仕事を押し付けて自分を追いかけに来たらしい。普段は従者の誰かが追いかけに来るのに今回は彼が直々に来るから思わず驚いてしまった。
「オリバさん、ただでさえ苦労しているんですからこれ以上苦労かけないであげてください」
「オリバの苦労はいつものことだから。それよりこんな所にいたら具合が悪くなっちゃう。人間の匂いもするし早く戻ろう」
「…………」
結局は、自分の意思なんてないも同然。逃げるはずないのにこの人は私を束縛する。でもそれが心地よく感じる私はとうの昔に壊れているのだ。
「そうですね、オリバさんのためにも戻らないと」
「僕よりオリバが大事なの!? あの所帯持ちのほうが!?」
「元々リヒャルト様を大事と思うことはあまりありませんけど」
いつもどおりの悪態をつきながら屋敷へと足を向ける。私は吸血鬼の贄。血を捧げる餌。
だから、愛なんていらない。
「何だよ……あれ……」
青年は離れたところで二人を見ていた。声までは聞き取れないものの明らかに人間ではない男が青年の目には恐ろしい怪物に見えたのだ。
どこか物憂げだった女性は屋敷から抜け出してきたと言っていた。そして彼女は普通の人間。青年にはある可能性が浮かび上がった。
か弱い女性を捕らえている化物という物語みたいな可能性。実際に彼女は抜け出したと言っていたし化物が無理やり連れ戻していた(青年にはそう見えた)し冗談ではなく彼女は囚われのお姫様なのではと。
「……助けてあげないと」
謎の使命感に駆られた青年はひとまず村へと戻り対策を立てるのだった。