雪降る夜の幻想
ここから本編になります。
雪が舞う山のどこか。降り積もる雪を見つめながらどこか他人事のように自分の状況を確認した。
時刻は恐らく夜、それも遅い時間だろう。気温が下がり肌を刺すような寒さが増したように感じるからだ。山の巨大な樹木にしっかりと縛られている手足はどうにも抜け出せそうにない。既に二日も縛り付けられたままだがまださすがに死ねないようで寒さと空腹と痛みが体中を支配していた。
何度も何度も目を閉じ意識を失いそして寒さか痛みのせいで目覚めてしまう。こんなことが続くならひと思いに殺してくれればよかったのにと思う。
けれど、雪が降り始めたおかげでようやく死が近づいてきたような気がし、目を閉じる。思い出すのは悲しい思い出と醜い自分の姿。このまま目覚めなければこれ以上辛くないのに。
すると、誰かの声が、遠くなった意識にもはっきりと聞こえてきた。
「――どうして、こんなところに」
死神が来たのだろうか。こんな山奥に人が来るはずがないと目を開けるとやけに小奇麗な身なりで驚きながら私を凝視してくる男性がいた。昔一度だけ見た貴族のような高そうな服に防寒のためのマフラー。黒い髪はこの地域では中々珍しいため恐らく異国の人間かもしくは人間じゃない何かだと感じた。そんな異質さしか感じられない彼はこの場にはひどく不釣り合いだ。
「……死神? それとも本当に吸血鬼が来たのかしら」
「何のことだかわからないが君はどうして――」
よく通る低い声もはっきりと聞き取れない。風が耳元でうなりひゅーひゅーと渦巻いているような音が耳にこびりついている。
「私は……吸血鬼の贄です……お気になさらず……どうせもう死にますから……」
わかっていた。吸血鬼の贄とはただの人間の気休めでしかない無意味な行為であると。だからこそ、無意味なことだからこそ私はきっとここにいる。父親譲りのこの赤毛が風になびいて視界に入り男性が一瞬見えなくなる。
この髪が嫌いだった。母親や姉のように美しい金色の髪がよかったのに。
次の瞬間、自分のくすんだ赤からゾッとするほど綺麗な赤が自分のすぐそばにきたかと思うと男性の瞳であることに気がついた。自分の髪とは違う、綺麗な赤色――。
「死にたがりなのか、それとも見栄なのかな?」
「……いつかは死にます……それが私は早い、だけです」
でも、せめて死ぬなら、誰かに必要とされて死にたかった。そう思うと涙がじわりと滲んで頬を伝った。
すると、すぐそばに温もりを感じて優しく切ない声が降ってきた。
「君は吸血鬼の贄なんだろ? じゃあ僕が好きにしたっていいんだ」
雪が舞う山のどこか。降り積もる雪に一滴、二滴と紅い雫が染み渡り、まるで雪に咲く花のようだった。
吸血鬼の贄が捧げられてから五年。贄は――未だに元気に命の恩人に説教していた。
「リヒャルト様、また無駄なことを。やめてくださいません? 朝起きたら薔薇の香りに包まれるなんて気分が悪いです」
「え……いやほら……その……薔薇とか好きだろ? この前薔薇園、喜んでくれたし……」
「ええ、それは少量と屋外に限ります。無駄に広いこの部屋を埋め尽くす量の薔薇なんて不快になるだけです。嫌がらせも程々にしてくださいませ」
「あの……えっと……」
「それにその薔薇をどうするおつもりだったのですか? 何百もある薔薇を廃棄しろと? 無駄遣いも本当におやめください薔薇が可愛そうです。というかお金の無駄です」
「金は僕のだし――」
「そんなこと言って無駄遣いするお方は嫌いです。節度ある行動をお願いしますね」
「……………………」
「返事は?」
「……はい」
吸血鬼のリヒャルト伯爵。彼の唯一の眷属であるティニアは彼に物言うことのできる数少ない貴重な人物でもあった。
彼、吸血鬼リヒャルト・トパージオンは吸血鬼貴族では一般的な癖のあまりない落ち着いた短い黒髪に、意外と珍しい赤い瞳を持っている。人にまず与える印象といえば冷徹貴族。しかし実際はどうしようもないヘタレな部分を秘めている我が儘坊ちゃんだ。正確には彼女、ティニアの前でのみ見せる顔である。
一方、ティニアは元人間で、リヒャルトの眷属であり吸血鬼ではないが人間でもないあやふやな存在になっている。吸血衝動もなく能力があるわけでもない。吸血鬼の弱点がある人間、といった様子だが正直どこまでがそうなのか誰にもわからない。長くて赤い髪はややくすんでおりストレートなのだがやや毛先に癖があるというなんとも中途半端なものだ。唯一、銀の瞳という珍しい特徴は彼女の涼やかな印象を高めるのに一役買っている。リヒャルトにだけ見せる氷の女王のような冷たさの秘密はその銀の瞳ではないかと思うほどに美しく妖しげだ。
そんな彼と彼女が出会った雪の日から五年。お互いがお互いに求めるものは平行線のまま、交わることは決してないまま――。