58.目醒めました
体が重い。
まるで質量のある水の中にいるような感覚をレティシアを包む。感覚が鈍って分かりにくいが、全身が冷えているような気もする。
指一本すら動かすのが億劫だ。
(……何してたんだっけ…………まあいっか……)
目も閉じている、と思う。開けようとしているが、つもりだけなのか、それとも暗闇なのか真っ暗だ。
このままどこまでも沈んでいけそうな気がする。その感覚はどこか魅力的に感じて。
レティシアはそのまま身を任せようとした。そう思うと沈む感覚が強くなった気がする。
けれど何だか煩い。なんの音かも判断できないけれど、沈むレティシアを引き上げようとしている感覚がある。
(わたくしは疲れたわ……もうこのまま沈ませてよ……)
そう思うも、段々とその喧騒はレティシアに近づいてくるようだ。
顔を顰める力もない。動けないので、それから遠ざかることも出来ない。
煩わしく感じていると、次第にその喧騒が意味のある言葉であることに気がついた。
『お嬢様、起きてください!』
『諦めては駄目です!』
その言葉は、温かいものだった。
冷え切った体がじんわりと血が巡る気もする。
特に両手が温かい。そこから全身に温かさが広がっていくようだ。
(この温かさを、もう少し感じていたいわ……)
そう思えば、ここから起きないととレティシアは考えた。
温かさのおかげか、指一本すら動かすのが億劫だったのが、少しずつ動かせるようになってくる。
そしてゆっくりと目を開けた――
◇◇◇
重く感じる瞼を持ち上げる。
視界には見慣れた天井。
レティシアは自室のベッドで寝ていたらしい。
(さっきのは夢だったのかしら……)
あまり頭が働かない。ぼんやりと先ほどの事を考える。
体が重い。特に手が重いと感じて、目だけで周囲を伺う。
すると視界の端に、ベッドの両サイドに伏せている人物が2人。
「るね……じょぜふ……」
2人の名前を呼ぶ。弱々しい声だったが、2人の鼓膜に響いたらしい。
揃ってゆっくりと顔を上げた。寝起きでぼんやりした表情から、驚愕の表情に変わる。
「お嬢様っ。良かった。目が覚めたのですね」
ルネが目を潤ませながら言う。
「わたくし……」
「気分は悪くないですか?」
「ええ……どうしたのかしら……」
「それはおいおい。ゆっくりしてください。いきなり起きると体に障りますよ」
レティシアはぼんやりしたままだ。ジョゼフの言葉を聞いて、思考しようとするのもやめた。
そしてずっと繋いでくれていたであろう手を離される。
少し寒く感じてしまい、レティシアは温もりを求めるように手を動かした。
「お嬢様?」
「……寒いわ」
そう言うと、ルネは両手を包み込むように握ってくれる。
再び温かさを感じて、ほうと息を吐いた。
「報告ついでに、体が温まるお茶を用意してきますね」
「あ、ジョゼフさん。私が」
「いえ、ルネはそのままお嬢様のそばにいてください」
「分かりました」
2人の声も聞こえてはいるが、意味をあまり理解できなかった。
ジョゼフは部屋を出ていく。その間、ルネはレティシアの手をマッサージしてくれていた。
温かくて、気持ちがいい。
ベッドに横たわったまま、ぼーっとする。ルネもレティシアに無理に話かけてこない。
静かな空間に満たされていたが、ジョゼフが戻ってきた。
「お嬢様、起きれますか? 無理しなくても大丈夫です」
「……起きるわ」
ジョゼフの言葉に答え、レティシアは起きあがろうとする。ルネが手伝ってくれて、ベッドの上で上体を起こす事が出来た。座り続けるのが辛いので、背中にクッションを挟む。
「……お茶、淹れてくれる?」
「もちろんですとも」
ルネは支え終わると、またレティシアの手をマッサージしてくれる。
ジョゼフがお茶を淹れるのをぼんやりと眺めた。
渡されたティーカップを持ち、ゆっくりと口に運ぶ。
じんわりと体に広がる温かさに、また一つ息を吐いた。
体が温まった事で、思考もゆっくりと動き始める。
「ところでわたくしはどうしたのかしら?」
「……お嬢様、倒れる前の事は覚えていらっしゃいますか?」
ルネの言葉に、レティシアは頷く。
「ええ。公爵達のことでしょう?」
あまり仔細に思い出すと怒りがぶり返しそうになるので、端的に言う。
「そうですか。……お嬢様は過度なストレスで倒れたのです。……1週間、目を覚ましませんでした」
「まあ……そんなに寝ていたのね。通りで体が重いはずだわ」
過度なストレス。間違いなく、バンジャマンとジュスタンが原因だ。
しかしレティシア自身、倒れるとは思わなかった。
軽く見積もっていたとかではないと思う。
「もしかしたら、このまま目を覚まさないかも知れないと言われ……生きた心地がしませんでした」
「まあ……」
ルネの震えた言葉に、レティシアは確かにそうだったのだろうと思う。
あの不思議な空間で、レティシアは沈んでいくまま身を任せようとしていた。おそらくあのままだったら、2度と目が覚めなかったに違いない。
「目が覚めて、本当に良かったです」
「私も肝が冷えました。どうです? スープなども召し上がれそうですか? ゆっくりで良いので、食べた方が良いかと」
ジョゼフもかなり心配している。
レティシアはゆっくり頷いた。
「ええ。ありがとう」
「あ、じゃあ今度はジョゼフさんがマッサージしてください。私が取ってきます」
ルネが立ち上がり、最後にレティシアの手の甲を撫でた。そして手を取ったまま、ジョゼフに渡す。
ジョゼフがレティシアの手を取ると、ルネはスープを取りに行った。
「お嬢様、申し訳ございません」
「ジョゼフが謝ることなんてないわ」
「いいえ、年の功と言いつつも、結局何も出来ておりません。お嬢様の負担を軽くする事も出来ていない。今回のことで身に沁みました」
「そんな……」
ジョゼフはレティシアの手をぎゅっと握る。
ルネより骨張っているけれど、柔らかい手だ。
「……お嬢様、一旦屋敷から離れませんか? もちろんお嬢様の希望で良いのですが」
「まあ。それでは亡命すると言うことかしら?」
「いいえ」
ジョゼフはまっすぐレティシアを見て言った。
「私の家です。妻と子供が同居しているところで、少し休んでは如何でしょうか?」




