prologue.2 スパイ
__シルマーリ帝国。
世界は大きく分けて、人間が暮らすヒューマン大陸と、魔族が暮らすイービル大陸、更には獣人族の暮らすサファリ大陸と、エルフや精霊の暮らすフェアル大陸に分かれている。
そして、ヒューマン大陸で最も巨大な国が、シルマーリ帝国である。
シルマーリ帝国は勇者・シュウトを輩出すると共に、世界随一の戦力を誇る騎士団の精鋭部隊を此度の最終戦争に投入している。
そんな帝国の帝王『ミゲール・ゴンザレス・ドールマン』は、シルマーリ帝国帝都・カイゼルにそびえ立つ王城の玉座の間にて一人、魔王打倒の報告を待っていた。
勇者率いる連合軍が魔王城へと攻め込んでまだ半日しか経っていないが、ミゲールはこの戦が短期決戦になると報告を受けており、その報告が正しければ、間もなく知らせが来るはずなのだ。
生か死か? 人類の存亡を賭けた最終決戦の報告が……。
帝王自身が人払いを命じた為、誰もいない玉座の間の扉がコンコンとノックされる。
「……入れ」
ドアが開く。 そこには漆黒の仮面と全身漆黒の軽装備に身を包んだ……魔王の懐刀として恐れられるアンノウンが立っていた。
「……長い間ご苦労だったな、ヴィー。 ……いや、今はアンノウンと呼ぼうか」
魔王軍最強の男の登場に、結果を悟ったミゲールは驚きもせず、むしろ労いの言葉を掛けた。
すると、アンノウンは顔を隠した仮面を外す。 その素顔は、銀髪の美少年だった。
「定期的に手紙のやり取りはあったけど……直接会うのは“あの日”以来ですか。 お久しぶりです、団長……いや、今は帝王か。 長年の癖は直らないもんですね」
アンノウンは苦笑いを浮かべながら、帝王であるミゲールに話しかけた。
「フッフッフッ、あれから三年前か……。 先ずは報告を聞こうか」
「……俺が用意した転移石で、無事に魔王城の城門へと移動した連合軍は、戸惑う魔族に奇襲を仕掛けて最終決戦が始まりました」
転移石は、主に魔界でのみ生産されているため、世界中に流通している訳ではない。
だから、アンノウンが独自のルートで連合軍の人数分となる一〇〇個の転移石を用意したのだ。
「突然現れた連合軍の奇襲は成功し、魔族側は対応が遅れました。 ……そして、魔王城に突入する前日、俺は個別に魔王軍七騎将の半数を任務と偽って城から遠ざけ、もう半数は訓練と称して疲弊させて魔王軍の戦力を大幅に削っておいたので、結果的に七騎将が満足に戦えなかったことで魔王軍の戦力は大幅に下げる事に成功しました」
魔王軍七騎将とは、魔王軍のピラミッドでも魔王とアンノウンの下にいる猛者達で、一人ひとりの戦力は勇者パーティーに匹敵する。
「七騎将を欠いた魔王軍は劣勢になり、連合軍の犠牲は最小限に留める事が出来たし、おかげで勇者パーティーを最短で魔王の下へと向かわせる事にも成功しました。 そして、魔王と勇者パーティーの互いの戦力を加味してより確実な方法考えた結果、先ずは俺が勇者パーティーを痛めつける事で魔王・ハーデスを油断させた所を、俺が背後から魔王の心臓を一刺しした後に、勇者・シュウトにトドメを刺させました。 ……無事、魔王は死んだよ」
事前に魔王軍の戦力を削り、勇者パーティーと自ら対峙したのも、魔王を裏切ったのも、全てはアンノウンの計算だった。
邪神からコモンスキル・エンドーブサタンを授けられた魔王が誕生すると、対となる存在として勇者と聖女専用のコモンスキルを持つ者が現れる。
つまり、魔王の命を刈り取れるのは、同じく神より選ばれしコモンスキル・ブレイブハートを持つ勇者のみなのだ。
アンノウンがどんなに強くとも、例え魔王を倒せても、それは一時の時間稼ぎにしかならず、魔王は必ず再生する。
つまり、勇者以外が魔王を死に至らしめるのは不可能だった。
もし、魔王と勇者パーティーとの戦いにアンノウンが介入していなかったとしたら、勇者パーティーが魔王を倒す確率は限りなく低かっただろうし、良くても相討ちだろうと考えたアンノウンは、より確実な方法を実行に移したのだ。
「三年か……。 長かったな、おまえをスパイとして魔界に送り込んでから」
「おかげさまでね。 ホント、長かったけど……今思えばあっという間でもあった」
アンノウンは微笑みながらも、酷く憔悴した表情を浮かべる。
魔王の切り札、懐刀と噂され恐れられたアンノウンは、ミゲールに送り込まれた人類側のスパイだった。
だが、この事実を知るのはミゲールを含め三名のみ。 人類側にも魔王軍側からのスパイが紛れ込んでるのを加味して秘蔵とされていた。
「さて、おまえの任務はこれで終わりだ。 これから何不自由なく暮らせるだけの報酬を与えよう。 それで自由に暮らせば良い……と言いたい所だが、願わくば今後はこの帝王の傍で、新たな世界を創る手助けをしてくれるとありがたいんだがな」
ミゲールからの申し出を聞き、アンノウンの表情は一層曇った。
その胸中に渦巻く感情は、強い負い目。
スパイとはいえ、三年もの間魔王軍に潜入し、仲間として魔族と過ごしたのだ。
そんな常に仲間を欺いている状況に、次第に彼の心は罪悪感から暗くなり、最終的に仲間を裏切った負い目は、アンノウンの心を強烈に蝕んでいた。
それは、ミゲールも気付いていたアンノウンの変化だった。
本来の彼はどんなに辛い事でも明るく振る舞う少年だったが、魔王軍に潜入して以降、定期的な文書での報告でも次第に文字数が減り、端的な言葉しか紡がれなくなっていたから。
今回実際に再会し、その表情からアンノウンの心が荒んでしまったのを理解した。 そして、それは全て命令を下した自分のせいだとも。
だからこそ、ミゲールは最大限の誠意をアンノウンに示さなければならないと考えたのだったが。
「ありがたいお言葉ですが、お断りします。 その申し出を受けるには、俺の手は血に染まり過ぎた」
決して無駄な殺生はしていない。 それでも、多くの人間や魔族、それ以外の種族も自らの手で葬った罪の意識、仲間を裏切りの負い目は、アンノウンから未来への希望を消し去っていたのだ。
それこそ、この最終決戦が終わった後、裏切り者として七騎将に命を委ねる覚悟を持つほどに。
しかし、アンノウンはそうしなかった。
「……実は俺、薄っすらとだけど、記憶が戻ったんだ」
アンノウンはまだ幼かった一〇年前、瀕死の所を、当時はまだ帝国騎士団の団長だったミゲールに保護されたのだが、その際にそれまでの記憶を失っていた。
それから、ミゲールは少年の名を『ヴィー』と名付け、育てる事にしたのだ。
アンノウン……ヴィーは、当時の騎士団長であるミゲールですら驚愕する才能を見せた事で、将来の魔王打倒の切り札にするべく、より一層の訓練を課される。
だが、その成長の過程で発現した自らのコモンスキルによって、更なる重要な役割……魔王軍にスパイとして送り込まれたのだった。
当然、その間に記憶が蘇る事はなかった。
だが、そんなヴィーの記憶が蘇った。 それは、ミゲールにとっても喜ばしい事ではあるものの、不安要素でもあった。
「なんだと? 記憶が蘇ったのか?」
「はい。 聖女が……ルミーナの決死の想いが、俺の記憶を呼び覚ましてくれたんだ」
聖女・ルミーナの最終奥義の際、アンノウンは聖なる光に包み込まれた。 そして、その時ルミーナが呟いた名前を聞いた瞬間、失くしていた記憶が蘇ったのだ。
「……本当にうっすらとしか覚えてないけど、俺は一〇年程前、父と母と三人で外出中に魔族に襲われたんだ。 父と母は……残念ながら俺を庇うように、俺の目の前で殺された。 そのショックで記憶を失ったんだと思う」
当時の現場の状況を知っているミゲールとしては、ここまでは驚く情報ではない。 父と母の亡骸こそ無かったが、地面に染み込んだ大量血が、ヴィー以外の人間がいた事の証明にもなっていたから。
結局、ヴィーの身元を証明する手掛かりは見つからなかったが。
「で、親を殺した奴……『バブル』という名の魔族だったのを思い出したんだが……幸か不幸か、バブルは当時の魔王軍七騎将の一人だったんだけど普段から素行が悪過ぎて、ムカついた俺がアンノウンの立場で一年前に粛清してたんだ。 まあ、記憶は失ってたからバブルが親の仇だなんて意識は無かったけど、一応仇討ちは出来たのかな。 今だったらあんなに楽に殺してやらなかったけど」
記憶がなかった時の事とはいえ、自らの手で両親の仇討ちが出来たのだから、アンノウンとしても少しだけ溜飲が下がっていた。
「それで……お願いというのは、俺と聖女のルミーナは幼馴染だったみたいでね。 彼女が遠征から帰って来たら、一度だけ面会させて欲しいんだ。 そして聞きたい、両親の事や昔の自分の事……本当の俺は、どんな人間だったのかを」
「まさか、聖女とヴィーが幼馴染だったとはな……」
記憶が蘇った事により思い出した幼馴染の存在。 ミゲールも長い間ヴィーの身元を探したが、あまりにも探すための材料が乏しくて見付けられなかった。
ただ、幼馴染の存在が発覚した今、ヴィーの身元を探すのは然程難しい事ではないだろう。
この玉座の間に、憔悴した表情を浮かべたヴィーが入って来てから、ミゲールは最悪のシナリオも想定していた。
それは、ミゲールの負い目でもあった。
天涯孤独のヴィーを拾い、愛情を以って育てたつもりとはいえ、幼い頃から過酷な訓練を課し、その上スパイとして魔王軍に潜入させたのだ。
ヴィーが全てを恨み、怒りを爆発させたとしても、全ては自分の責任だとミゲールは覚悟していたのだ。
なんにしても、どうやらその可能性が消えた事に、ミゲールは胸をなでおろす。
「……そうか、あい分かった。 勇者パーティーが帰還した後、ルミーナとの場を設けよう」
「ありがとう。 それで……ルミーナと話して、本当の自分を知る事が出来たら……俺は旅に出ようと思う。 俺には、この世界にも魔界にも相応しい居場所なんて無いから、世界を旅して周ろうかと思うんだ」
「何を言う! 御主は何の気兼ねする事なく此処に居ていいのだぞ!」
「……ハハ、そう言ってくれて嬉しいよ、団長。 実は、ちょっとだけ……おまえはもう用無しだからって言われて殺されるのかもって思ってたんだけど……そんなに俺の事考えてくれてたんだな」
「御主を殺す? ……馬鹿な事を言うな。 御主がどれだけの苦労をして来たか、命令した私が一番よく分かっておる。 御主は死神などではない、英雄なのだ。 どうか、そんな事は考えないでくれ」
「そうかい? なんなら、記憶を取り戻す前なら、いっそ殺されても楽になれるかなんて思ってたんだけどね……」
「ばっ……馬鹿な事を言うな……」
言葉が詰まり、少しだけ涙ぐむ帝王の姿を見て、ヴィーは少しだけ嬉しかった。
自分は、ほんの少しでも、間違いなくこの人に愛されていたのだと知れたから。
「……それに、魔王軍最強と恐れられる御主をどうやって排除するというのだ? ……折角魔王がいなくなったのに、魔王以上に厄介な奴を敵に回したくなどないわ」
実の息子同然に思っていたヴィーの告白にミゲールは心を痛めつつも、冗談を言って返す。
……実際、アンノウンを敵に回すなど、冗談どころではなかったが。
「ハハハ、俺に魔王の代わりは出来ないよ。 でも、これはもう決めた事なんだ。 これからは、アンノウンとしての自分と死神としての自分を捨てて生きていきたいんだ」
どこか投げやりにも見えたが、ヴィーの決意が固いのは間違いなかった。
「近衛騎士団として、私の傍にいる気は無いか? いや、もう働かなくとも生活の保障はしよう。 それほど、御主の成した事は大きいのだから」
「俺が近衛騎士? とんでもない、お断りしますよ」
何を言っても無駄か……と、ミゲールは諦めるしかなかった。
「……仕方ないか。 だが、『ディエゴ』も、『アリシア』も、御主に会いたがっておる。 せめて、二人には挨拶していってくれよ? ルミーナだって、幼馴染が生きていたと知れば……」
「勿論。 懐かしいな……ディエゴの叔父さんとも会って話したいし、アリシアさんにも改めて謝りたい」
ヴィーの存在を知るのは、ミゲールの他に二人だけ。
その一人が、現在のシルマーリ帝国宰相にして騎士団の名誉顧問も兼任する、ミゲールとは幼少の頃からの相棒である『ディエゴ・ドラマーナ』。
そしてもう一人が、ヴィーがミゲールに引き取られて魔王軍にスパイとして送り込まれるまでの七年間、ヴィーの教育係を務めた他、生活の世話をしてくれた『アリシア・システィーナ』だった。
帝国最強の女性騎士と呼ばれたアリシアはミゲールの一番弟子だった事もあり、剣の腕は言わずもがな、あらゆる武器や戦闘術に精通しており、ディエゴと共に幾多の戦闘術の英才教育をヴィーに施した。
また、まだ幼かったヴィーの身の回りの世話を直接面倒見てくれたのも彼女であり、ヴィーの存在を知る数少ない一人なのだが、今は騎士団を引退している。
「それに、俺は聖女に、俺が幼馴染だったと知って欲しい訳じゃない。 それを知って彼女がどういう反応をするかは分からないけど、俺は全てを捨てて生きて行くと決めたんだ。 余計な蟠りはもういらない」
過去の自分を知りたい。 でも、自分が幼馴染だと知られたくはない。
どこか矛盾した考えだが、それが今のヴィーの望みだった。
「ヴィーよ……御主の才に気付き、鍛え、スパイをさせた儂が言うのも烏滸がましいのだろうが、御主には感謝しているのだ。 これからの人生、儂の生きている限り、御主には自由に過ごして欲しいと願っておるし、そのバックアップは最大限させてもらおうと思っておる。 御主は、この世界にとってそれだけの事を成してくれたのだからな。 とにかく、まずはルミーナの事は任せろ」
それは、ミゲールのヴィーに対する贖罪でもあった。 本来なら近衛騎士として傍にいて欲しかったのが本音ではあるが、ヴィーが望むのならばこれからは好きに生きて欲しいと思っているし、その為なら帝王の権限を最大限利用するつもりでもある。
「……ごめん。 じゃあ、心置きなく残りの人生を送らせてもらうよ」
「うむ。 では、ルミーナが帰ってくる間は、客人としてこの城に住むといい」
「客人だなんて烏滸がましい。 俺は家に帰るよ……七年間過ごした、あの家に」
ミゲールは当時、騎士団の団長であると同時に、長子として次期帝王となる存在だった。 既に既婚者であり、実の息子や娘もいたミゲールが得体の知れない子どもを引き取ったと知られれば、ヴィー自身にも何らかのとばっちりが降りかかるかも知れないと考えたミゲールは、町外れの一軒家にヴィーを住まわせたのだ。
「旅立つ前に、昔を思い出してのんびりするよ」
ヴィーにとっては辛い訓練の記憶が蘇るが、それ以上に、アリシアやディエゴ、そしてミゲールと共に幼少期を過ごしたあの家は、貴重な思い出だったのだ。
「何を言う! これまでの苦労を労う意味でも、暫くは城に滞在してもらうぞ?」
「……ハハ、勘弁してよ」
嫌だと言っても聞かない雰囲気を察し、ヴィーは玉座の間から逃げる様に去るのだった。