# 第5章:「交差する未来」
# 第5章:「交差する未来」
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、私の目を覚ました。起き上がると、身体の奥底から疲労感が押し寄せる。先月からの生理痛、ストーカー事件、そして仕事のプレッシャー——女性として生きることの複雑さを日々感じていた。
スマホを確認すると、佐々木マネージャーからのメールが届いていた。
「水野さん、大きなプロジェクトを任せたい。今日、詳細を説明します」
新しいプロジェクト。それは昇進のチャンスかもしれない。拓也だった頃、このような機会があれば迷わず飛びついただろう。しかし今は複雑な思いがある。女性管理職としての壁、家族からの「結婚はいつ?」というプレッシャー、そして断片的に戻る千尋の記憶が示す暗い過去——。
朝のルーティンをこなし、会社に向かった。道中、いつものように周囲への警戒を怠らない。ストーカー事件以来、無意識の防衛本能が身についていた。
オフィスに着くと、美里が興奮した様子で近づいてきた。
「千尋、聞いた?大手ITソリューションの統合システム案件だって!あの鈴木拓也のチームと合同で担当するんですって!」
息が止まりそうになった。拓也。かつての自分自身。前回の商談以来、彼とは直接顔を合わせていなかった。
「マネージャーに呼ばれてるよ」と美里が言った。
会議室に入ると、佐々木マネージャーが満面の笑みで迎えてくれた。
「水野さん、おめでとう。君をプロジェクトリーダーに推薦したんだ」
「え?」
「このプロジェクトは両社にとって非常に重要だ。君の能力なら必ずやり遂げてくれると信じている」
私の中で複雑な感情が交錯した。リーダーシップを発揮できるチャンス。しかし同時に、拓也と密接に仕事をする必要がある。
「そして、先方のリードエンジニアは前回会ったあの鈴木拓也さんだ。彼もこのプロジェクトのために特別に選ばれたようだよ」
緊張が走った。最近、拓也を見直したのか、その決断に同意すべきなのか迷う。しかし、この機会を通じて「過去の自分」をより深く理解し、もしかしたら変えることができるかもしれない。
「頑張ります」
決意を固め、プロジェクト資料に目を通し始めた。
---
翌日、キックオフミーティングが開かれた。両社のチームメンバーが集まった会議室に入ると、正面に拓也の姿があった。彼は少し緊張した面持ちで、スーツのネクタイを整えていた。
「おはようございます」と声をかけると、拓也は軽く頷いた。
「水野さん、またご一緒することになりました。よろしくお願いします」
前回の商談とは異なり、敵対的な態度はない。しかし、どこか警戒しているように見えた。
ミーティングが始まり、両社の役員から期待の言葉が述べられた後、私がプロジェクト概要を説明する番になった。
スライドを表示させながら、私は自信を持って話し始めた。拓也だった頃の経験と千尋のIT知識が融合し、説明はスムーズに進んだ。参加者たちは熱心にメモを取り、時折頷いている。
拓也の反応が気になった。彼は真剣な表情で聞き入っているが、時折眉をひそめる場面もある。反対意見があるのだろうか。
私の説明が終わると、拓也が立ち上がった。「続いて、技術的な実装について説明します」
彼のプレゼンテーションは論理的で簡潔だった。技術者としての視点は鋭く、私が見落としていた部分を補完してくれている。拓也だった頃の自信に満ちた話し方とは異なり、より聞き手を意識した説明になっていることに気づいた。彼は変わりつつあるのか。
ミーティング後、拓也が私に近づいてきた。
「素晴らしい説明でした。質問があるのですが、少しお時間いただけますか?」
カフェテリアでコーヒーを前に、拓也は技術的な詳細について質問してきた。彼の態度は敬意を持ったものだったが、時折見せる眼差しに違和感があった。私を「例外的な女性エンジニア」として見ているようだった。
「このアプローチは新しいですね。私なら別の方法を考えていました」と拓也。
「どのような方法ですか?」
彼が説明した案は興味深かったが、拓也自身が未来で経験するトラブルを含んでいた。私は未来知識を使って問題点を指摘した。
「確かにその懸念は…」拓也は驚いた様子で私を見た。「よく気づきましたね」
「経験から学んだだけです」
不思議な感覚だった。かつての自分に、未来の失敗を防ぐアドバイスをしているのだから。
話が一段落つくと、拓也は少し迷うように視線を落とした。
「実は、前回の商談後、あなたの提案について調べてみたんです。そして…私の認識が間違っていたと気づきました」
その言葉に驚いた。拓也が素直に非を認めるとは。
「女性エンジニアについて…偏見があったと思います。申し訳ありませんでした」
心臓が早鐘を打った。自分自身が変わりつつあるのを目の当たりにしている感覚。
「謝罪は不要です。これからの協力関係が大切だと思います」
拓也は微笑んだ。その笑顔に、かつての自分自身を見た気がした。
---
プロジェクトは急ピッチで進み始めた。毎日のように拓也とのミーティングがあり、時には夜遅くまで議論することもあった。彼との協働を通じて、拓也だった頃の自分自身をより深く理解できるようになってきた。
拓也は優秀なエンジニアだ。しかし、人間関係では苦労している面がある。特に女性スタッフとのコミュニケーションが不自然なのだ。彼は無意識のうちに命令口調になったり、説明を簡略化しすぎたりする。
ある日、プロジェクトチームの女性メンバーが拓也の対応について相談してきた。
「鈴木さん、私の意見を全く聞いてくれないんです」
彼女の悩みを聞いた後、私は拓也と個別に話す機会を設けた。
「鈴木さん、チームメンバーの意見をもう少し聞いてみてはどうでしょう?特に田中さんは優れた視点を持っています」
拓也は少し戸惑ったように見えたが、「そうですね、気をつけます」と答えた。
数日後、拓也の変化に気づいた。彼はミーティングで田中さんの意見を積極的に求め、彼女のアイデアを採用した。田中さんの顔に明るさが戻ってきた。小さな変化だが、意味のあるものだった。
プロジェクトの中間発表が近づいた頃、私は体調を崩した。生理痛が例年になく重く、頭痛と吐き気に悩まされた。それでも重要な発表を前に休むわけにはいかない。
痛みをこらえながらオフィスに向かうと、拓也がロビーで待っていた。
「おはようございます…あれ、顔色が悪いですが大丈夫ですか?」
「ええ、少し体調が…でも大丈夫です」
会議室に向かう途中、突然の痛みで足がもつれた。拓也が咄嗟に私の腕を支えた。
「無理をしないでください。発表は私が代わりますよ」
その言葉に驚いた。拓也だった頃、女性の体調不良を「甘え」と見なしていた自分。その拓也が今、理解を示している。
「ありがとうございます。でも、この発表は私の責任です」
「分かりました。でも何かあったらすぐに言ってください」
発表は何とか無事に終えた。終了後、拓也がペットボトルの水を差し出してきた。
「お疲れ様でした。すごく説得力がありました」
「ありがとう」
言葉を交わしながら、拓也の中に少しずつ変化が生まれていることを感じた。しかし同時に、彼の根深い部分はまだ変わっていないのではないかという不安もあった。
---
プロジェクトの進行とともに、拓也との距離も縮まっていった。時には仕事後に軽食を共にすることもあり、そこで彼の個人的な話も聞くようになった。
「実は、婚約者がいたんです」
ある夜、拓也がふと打ち明けた。「小林奈々という女性で…」
その名前に、私は身を固くした。奈々。拓也の元恋人であり、この時期はまだ交際中のはずだ。
「でも、最近うまくいっていなくて」拓也は続けた。「彼女はいつも『もっと自分の気持ちを表現して』と言うんですが、どうすればいいのか分からなくて…」
拓也だった頃の悩みを、今度は外側から聞くという不思議な体験。当時の自分が抱えていた問題が、今はより鮮明に見えた。
「私から言っていいかわからないけど」慎重に言葉を選んだ。「彼女は、あなたの内面を知りたいのかもしれません。仕事だけでなく、あなた自身のことを」
拓也は少し困ったように笑った。「感情を表すのは苦手で…男らしくないと思われるのが怖いんです」
その言葉にはっとした。拓也の心の奥底にある不安。「男らしさ」という鎧の下に隠された弱さ。かつての自分自身が持っていた葛藤だ。
「男らしさって何でしょう?」と問いかけた。「感情を表現することは、人間として自然なことだと思います」
拓也は黙って考え込んだ。その表情に、何かが動き始めたことを感じた。
---
プロジェクトも佳境に入った頃、予期せぬ出来事が起きた。帰宅途中、駅のホームで倒れている男性を見つけたのだ。近づいてみると、それは拓也だった。
「鈴木さん!大丈夫ですか?」
拓也は顔を上げた。その目は充血し、酒の匂いがした。
「水野さん…すみません…」
彼を起こし、近くのカフェに連れていった。水を飲ませ、少し落ち着いたところで事情を聞いた。
「奈々と…別れました」
その言葉に、私は息をのんだ。歴史が動き始めている。拓也と奈々の破局は、拓也の人生の大きな転機だった。この出来事がきっかけで、拓也はより女性に対して冷淡になり、仕事に没頭していく。
「どうして…?」
「彼女は『もう無理』と言った。『感情がないロボットと付き合っているようだ』って…」
かつての自分が経験した痛み。そして、その痛みが「女性は身勝手だ」という偏見を強化していったことを思い出す。
「辛いでしょうね」
「僕は…何がいけなかったんでしょう?」拓也の目に涙が浮かんでいた。拓也だった頃には、人前で涙を見せることは決してなかった。
「あなたは悪くない」
拓也を励ましながらも、複雑な思いに駆られた。この出来事が、拓也をどのように変えてしまうのか。そして、私にはそれを変える力があるのか。
拓也を自宅まで送り届けた後、私は深く考え込んだ。過去の自分自身を救うことはできるのか。そもそも、なぜ私はこの時代に、この身体で存在しているのか。単なる偶然か、それとも何か目的があるのか。
---
翌日、拓也は休暇を取っていた。プロジェクトは一時的に私一人で進めることになった。オフィスで資料を確認していると、美里が興奮した様子で駆け込んできた。
「千尋!大変なの!」
「どうしたの?」
「あの…性暴力の加害者だった男、裁判になるって!」
息をのんだ。「どういうこと?」
「別の女性への暴行容疑で逮捕されたんだって。そして、その調査の過程で、あなたの事件の証拠も見つかったみたい」
頭が混乱した。千尋の過去の傷。その加害者が、今になって裁かれる可能性が出てきたのだ。
「警察から連絡があるはずよ」美里は続けた。「千尋の証言が必要になるかもしれない」
その予感は的中した。午後、警察から連絡があり、3年前の事件について改めて話を聞きたいと言われた。記憶喪失という状況で、どう対応すればいいのか迷った。
警察署に向かう途中、断片的な記憶がフラッシュバックのように浮かんできた。
_暗い路地。男の息遣い。無力感。そして激しい恐怖と屈辱。_
警察署で、刑事が丁寧に説明してくれた。
「被疑者の河野正樹は、あなたへの暴行についても、新たな証拠から裏付けが取れました。防犯カメラの映像が再解析され、また、彼のスマートフォンからあなたの写真が発見されたのです」
千尋の記憶を持たない私は、詳細を語ることはできない。しかし、断片的な記憶と警察の情報から、大まかな流れを理解した。河野は千尋の会社の取引先の社員で、飲み会後に彼女を追いかけ、暗い路地で襲ったのだ。
「記憶が完全ではないので、詳しいことは…」と私が言うと、刑事は理解を示してくれた。
「無理をする必要はありません。私たちが持っている証拠で十分です。ただ、裁判になった場合、証言を求められることがあるかもしれません」
警察署を後にした私は、複雑な思いに包まれていた。千尋の傷が今になって癒される可能性。しかし同時に、その過程で彼女のトラウマを私が背負うことになる。
マンションに戻ると、思いがけない人物が待っていた。拓也だ。
「すみません、突然来て…美里さんから住所を聞いたんです」
彼を部屋に招き入れると、拓也は申し訳なさそうに言った。
「昨日は恥ずかしいところを見せてしまって…感謝の気持ちを伝えたくて」
彼は小さな花束を差し出した。そのジェスチャーに、少し驚いた。
「ありがとう。でも気にしないでください」
緊張した空気の中、拓也が部屋を見回した。
「素敵なお部屋ですね」
「ありがとう…お茶でもどうですか?」
リビングでお茶を飲みながら、拓也が静かに話し始めた。
「昨日は、本当に弱い部分を見せてしまって…でも、あなたの言葉で少し考えました。『男らしさ』って何なのか」
彼の表情には迷いと決意が混ざっていた。
「奈々に連絡してみたんです。もう一度話がしたいって」
予想外の展開に驚いた。拓也だった頃、奈々との別れを受け入れるのに何ヶ月もかかった。しかし今の拓也は、わずか一日で行動を起こしている。
「彼女は『考えてみる』と言ってくれました」拓也は少し微笑んだ。「あなたのおかげです」
「私は何もしていませんよ」
「いえ、あなたは違います。僕の中で何かが変わるきっかけをくれた」
拓也の眼差しが変わった。それは単なる尊敬や感謝ではなく、もっと個人的な感情に見えた。
「実は…あなたと話すようになって、女性に対する見方が変わってきたんです。特にあなたは…」
彼の言葉が途切れた。その目には、戸惑いと新たな感情が浮かんでいる。拓也は私に好意を抱き始めているのか?
突然の電話の音で、会話は中断された。警察からだった。
「水野さん、河野容疑者があなたの名前を口にしました。彼はあなたに復讐したいと言っています。警戒してください」
血の気が引いた。また新たな恐怖が私を襲うのか。拓也は私の表情の変化に気づいた。
「どうしました?」
「ちょっと…問題が」
事情を簡単に説明すると、拓也の表情が引き締まった。
「一人にしておくわけにはいかない。警察には通報しましたか?」
「ええ、でも…」
「僕がついています。何かあれば、すぐに助けます」
拓也のその言葉に、奇妙な安心感と違和感が入り混じった。かつての自分が、今の自分を守ろうとしている。何という皮肉だろう。
その夜、拓也は近くのホテルに宿泊し、翌朝も私の通勤に付き添ってくれた。彼の保護的な態度には感謝しつつも、「女性は守られるべき弱い存在」という前提が透けて見えることに複雑な思いがあった。
---
数日後、プロジェクトの重要な節目となる会議があった。両社の役員も参加する大規模なプレゼンテーションだ。
会場に向かう途中、また例の男性—河野正樹らしき人物—を見かけた。心臓が早鐘を打つ。彼は釈放されたのか?それとも私の錯覚か?
会議室に入ると、緊張感が漂っていた。拓也が近づいてきて、小声で言った。
「大丈夫ですか?顔色が悪いように見えます」
「ええ、ちょっと…」
会議が始まり、プレゼンテーションは順調に進んだ。しかし、質疑応答の時間になると、クライアント側の役員の一人が鋭い質問を投げかけてきた。
「このアプローチでは、現場のニーズに対応できないのではないですか?」
その質問に答えようとしたとき、会議室のドアが開き、一人の男性が入ってきた。河野だ。彼は警備を突破して侵入してきたのだ。
「水野千尋!」彼は叫んだ。「お前のせいで俺の人生は台無しだ!」
会場が凍りついた。警備員が駆けつける前に、河野は私に近づこうとした。その瞬間、拓也が立ち上がり、河野の前に立ちはだかった。
「彼女に近づくな」
拓也の声は冷静だが、強い意志が感じられた。
「お前は関係ない!どけ!」河野は怒鳴った。
その時、美里が非常ボタンを押し、警報が鳴り響いた。警備員が数人駆けつけ、河野を取り押さえた。
混乱の中、会議は中断された。私は震える足で応接室に案内され、拓也と美里が付き添ってくれた。
「大丈夫?」美里が心配そうに尋ねた。
頷くのが精一杯だった。拓也は静かに私の隣に座り、「もう安全です」と言った。
警察が到着し、河野は逮捕された。彼は保釈中に禁止されていた接触を試みたため、今度は確実に拘束されるだろう。
その日の夕方、拓也が私をマンションまで送ってくれた。
「本当にありがとう、鈴木さん」
「いいえ、当然のことです」拓也は真剣な表情で私を見た。「あなたは特別な人です、水野さん」
その言葉の重みが、胸に響いた。
「水野さん…よければ、今度食事でもどうですか?」
予想外の誘いに、言葉に詰まった。拓也—かつての自分自身—が私に好意を持ち始めている。この複雑な状況をどう扱えばいいのか。
「考えてみます」と答えるのが精一杯だった。
拓也が去った後、窓から彼の背中を見送りながら、深く考え込んだ。今の状況には多くの皮肉が重なっている。かつての自分が現在の自分に好意を持ち、かつての自分を変えようとしている現在の自分。そして、千尋という実在の女性の人生を生きている私。
この複雑な関係は、どこに向かうのだろうか。そして、私がこの時代に、この身体で存在している本当の理由は何なのか。
---
翌週、中断された会議が再開された。今度は厳重な警備の下、無事にプレゼンテーションを終えることができた。プロジェクトは正式に承認され、本格的な実装フェーズに入ることになった。
会社に戻ると、佐々木マネージャーが私を呼び、意外な話をした。
「水野さん、部長への昇進を推薦したいと思っている」
息をのんだ。「部長ですか?」
「ああ、君のリーダーシップは素晴らしい。このプロジェクトの成功で、君の評価は社内でも非常に高い」
昇進。キャリアの大きな転機だ。拓也だった頃なら、迷わず飛びついただろう。しかし今は、様々な思いが交錯する。
「考えさせてください」
帰り道、美里と話しながら歩いた。
「部長への昇進!すごいじゃない」美里は喜んでくれた。
「でも、悩むところもあって…」
「え?どうして?」
「女性管理職として、期待される役割や、周囲の目が気になるの」
美里は理解を示した。「確かに、女性部長はまだ少ないもんね。いろんなプレッシャーがあるだろうけど…でも、千尋ならできるわ」
マンションに戻ると、母親から電話があった。いつものように結婚の話を切り出してくると思ったが、今回は違った。
「千尋、お父さんが入院したの」
動揺した。「何があったの?」
「突然の心臓発作で…もう大丈夫だけど、あなたに会いたがっているわ」
週末、千葉の実家に帰ることにした。病院で父親と対面すると、彼は弱々しく横たわっていたが、私を見ると顔を明るくした。
「来てくれたか」
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、もう心配ない」彼は私の手を取った。「千尋、お前の好きな道を進め」
「え?」
「お母さんはまだ古い考えだが…私は、お前が自分の道を歩むのを応援したい」
その言葉に、胸が熱くなった。拓也だった頃には経験したことのない、父親からの理解と支援。
「それから…あの事件のことも聞いた。なぜ言ってくれなかった?」
彼は千尋の性暴力被害を知ったのだ。
「心配かけたくなくて…」
「辛かったな」父親の目に涙が浮かんでいた。「一人で抱え込まなくていいんだ」
その言葉に、私も涙があふれた。千尋の傷を共有し、癒す瞬間だった。
実家から戻ると、拓也からメッセージが来ていた。「食事の件、考えてもらえましたか?」
複雑な思いで画面を見つめた。拓也との関係をどう進めるべきか。彼は変わりつつある。しかし、根本的な部分はまだ変わっていないのではないか。そして、私自身は本当に彼を変えることができるのだろうか。
数日後、拓也の誘いに応じて食事に出かけることにした。場所は落ち着いたイタリアンレストラン。カジュアルすぎず、かといって堅苦しくもない雰囲気だ。
「お待たせしました」
私が着くと、拓也は既に席に座っていた。彼は立ち上がり、椅子を引いてくれた。その仕草に、かつての自分には見られなかった気配りを感じた。
「綺麗ですね」
拓也の言葉に、少し照れた。お互い仕事の話で会話を始め、徐々に個人的な話題へと移っていった。
「奈々さんとは、話せましたか?」と尋ねると、拓也は少し表情を曇らせた。
「ええ…一度会いました。しかし、彼女の気持ちは変わらなかったようです」
歴史は変えられないのか。それとも、単に時間が必要なのか。
「彼女は『あなたは変わった』と言ってくれましたが、『もう私たちはやり直せない』とも…」拓也は続けた。
「辛かったでしょう」
「いえ、むしろ…清々しい気持ちもあったんです」拓也は少し考え込んだ。「彼女の言う通り、私は変わらなければいけない。そして、それは奈々のためではなく、自分自身のために」
その言葉に、希望を感じた。拓也は単に女性に好かれるために変わろうとしているのではなく、自分自身の成長として変化を受け入れ始めている。
食事が進むにつれ、拓也はより個人的な話を始めた。
「実は僕、子どもの頃から期待に応えることを求められてきたんです。『男の子なんだから強くあれ』『泣くな』『弱音を吐くな』と」
拓也の内面が初めて見える気がした。かつての自分自身の、語られなかった心の声。
「それで、いつしか感情を閉じ込めるのが習慣になってしまって…」拓也は少し恥ずかしそうに笑った。「でも最近、あなたと一緒にいると、そんな自分でいる必要がないような気がするんです」
その言葉に、心臓が早鐘を打った。
「あなたはどうですか?」拓也が尋ねた。「プライベートなことは、あまり話してくれないですね」
「私は…」言葉に詰まった。「記憶の問題もあって、自分のことを話すのが難しいんです」
「そうでしたね、すみません」拓也は申し訳なさそうに言った。「ただ、もっとあなたのことを知りたいと思って…」
デザートの時間、拓也は真剣な表情で私を見つめた。
「水野さん、正直に言います。あなたに惹かれています」
予想はしていたが、実際に告白されると動揺した。かつての自分自身からの告白。この状況の複雑さを拓也は知る由もない。
「突然すぎて、すみません」拓也は続けた。「答えは今でなくていいです。ただ、伝えたくて…」
その夜、私は眠れなかった。拓也との関係をどう進めるべきか。彼は変わりつつある。しかし、その変化は本物なのか。そして、私自身はこの世界に永遠にいるのだろうか、それとも元の世界に戻る日が来るのか。
---
翌週、部長昇進の正式なオファーがあった。決断の時だ。しかし、その前にもう一つの問題が浮上した。河野の裁判に向けて、証言の準備をする必要があったのだ。
弁護士との打ち合わせで、3年前の事件について話すよう求められた。記憶喪失を理由に詳細は避けたが、断片的に戻ってきた記憶を元に証言した。
「本当に辛い経験でしたね」弁護士は共感的に言った。「あなたの証言は、他の被害者を救うことになります」
その言葉に、千尋の人生を生きている責任を実感した。彼女が経験した痛みを癒し、正義を取り戻す手伝いをすることが、私にできることなのかもしれない。
会社に戻ると、昇進の話が社内で広まっていた。ほとんどの同僚が祝福してくれたが、中には「彼女は若すぎる」「経験が足りない」といった声もあることを耳にした。特に年配の男性社員からの反応は冷ややかだった。
「千尋、気にしないで」美里が励ましてくれた。「彼らは単に女性が上に立つことに慣れていないだけよ」
ガラスの天井。女性がキャリアの上昇を目指す際に直面する見えない障壁。拓也だった頃には気づかなかった現実だ。
その夜、決断を下そうとしたとき、拓也から電話があった。
「実は、僕も昇進の話があったんです」
驚いた。「おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも…内心複雑で」拓也の声は迷いを含んでいた。「もっと責任が増えて、プレッシャーも大きくなる。本当にそれでいいのか、考えています」
拓也が自分の気持ちを素直に表現している。これは大きな変化だ。
「恥ずかしながら、昔の僕なら『男だから当然引き受ける』と考えていたでしょう。でも今は…何が自分にとって大切なのか、考えています」
その言葉に、希望を感じた。拓也は「男らしさ」の檻から少しずつ自由になりつつある。
「悩むこと自体が成長だと思います」と私は言った。
「あなたは昇進、引き受けますか?」
「はい、決めました」
その決断は、千尋のためでもあり、自分自身のためでもあった。女性管理職として、新たな視点を会社にもたらすことができるかもしれない。
---
数週間後、私は正式に部長に就任した。同時に、河野の裁判も始まった。さらに、拓也とも時々食事をする関係が続いていた。多くの変化が同時に訪れる中、私は徐々に千尋としての人生に深く根を下ろしていくのを感じていた。
部長としての最初の会議で、私は女性社員の働きやすさについて提案した。
「育児や介護などのライフイベントに柔軟に対応できる制度を整えることで、優秀な人材の流出を防ぎ、多様な視点を持つチームを作れます」
提案は賛否両論だったが、少なくとも議論の俎上に載せることができた。拓也だった頃には気づかなかった問題に光を当てる立場になったことに、使命感を覚えた。
裁判では、勇気を出して証言台に立った。河野と対面することは恐ろしかったが、他の被害者のためにも声を上げる必要があった。
「記憶は完全ではありませんが、あの夜の恐怖は忘れられません」
証言を終えた後、法廷の外で待っていたのは拓也だった。
「来てくれたの?」
「あなたの勇気に敬意を表したくて」拓也は静かに言った。「本当に強い人だと思います」
その言葉に、複雑な思いが込み上げた。拓也は本当に変わりつつあるのか。それとも、単に私という「例外的な女性」に対してだけ態度を変えているのか。
疑問を確かめるために、あるテストを思いついた。
「鈴木さん、今度の週末、友人と会うのに付き合ってもらえませんか?」
友人とは、かつて拓也が「弱い女性」と軽視していた佐々木麻衣のことだ。彼女は子宮内膜症を患っていた。拓也が彼女に対してどう接するか見てみたかった。
週末、カフェで麻衣と待ち合わせた。拓也も一緒だ。
「千尋、久しぶり!」麻衣が笑顔で近づいてきた。「あ、こちらが…」
「鈴木拓也です、よろしくお願いします」
会話が始まり、麻衣は自分の病気について少し話した。
「最近は薬が効いてるけど、たまに痛みで動けなくなるときがあって…」
拓也の反応に注目していた。かつての彼なら、内心「女の甘え」と思っていたかもしれない。しかし今の拓也は違った。
「大変ですね。周囲の理解も少ないでしょうね」
拓也は真摯に麻衣の話を聞き、共感的な反応を示した。これは演技ではなく、本物の変化に見えた。
カフェを後にした後、拓也と二人きりになると、彼は言った。
「佐々木さん、強い人ですね。あんな痛みと闘いながら、前向きに生きている」
その言葉に、希望が膨らんだ。拓也は本当に変わりつつある。彼は女性の経験や苦しみを理解し始めている。かつての自分自身を救えるかもしれないという希望。
その夜、拓也は私のマンションまで送ってくれた。玄関先で、彼は少し緊張した様子で言った。
「水野さん、僕の気持ちについて、考えてもらえましたか?」
複雑な思いで彼を見つめた。拓也は変わりつつある。しかし、まだ完全ではない。そして、私自身も彼との関係について迷いがあった。
「もう少し時間が欲しいです」
拓也は少し残念そうだったが、理解を示した。「急がせるつもりはありません。ただ…あなたと一緒にいると、より良い自分になれる気がするんです」
その言葉が胸に響いた。もしかしたら、これが私がこの時代に、この身体で存在している理由なのかもしれない。拓也を変え、過去の自分自身を救うために。
しかし、その夜、不思議な夢を見た。2023年の自分のアパート。睡眠薬を飲み、「女になりたい」と願う拓也の姿。そして、空白の闇。その後、目の前に立つのは、千尋ではない見知らぬ女性の姿。彼女は微笑みながら言った。
「あなたの旅はもうすぐ終わります」
目覚めると、冷や汗をかいていた。この夢は何を意味するのか。私はいつか元の世界に戻るのか。それとも、この千尋としての人生を生き続けるのか。
---
部長就任から一ヶ月後、河野の裁判で有罪判決が下った。長期の実刑判決だ。これで千尋の心の傷が少しでも癒されることを願った。
会社では、私の提案した働き方改革が少しずつ進み始めていた。拓也の会社でも、彼が中心となって同様の取り組みが始まったと聞いた。彼は確実に変わりつつある。
ある日、拓也から突然の電話があった。
「緊急の相談があります。今日、会えませんか?」
仕事帰りに待ち合わせた公園で、拓也は興奮した様子で話し始めた。
「社内で問題が起きたんです。女性社員がセクハラ被害を訴えたのですが、上層部が揉み消そうとしている」
拓也は正義感に燃えていた。かつての彼なら「大げさな」と思っていたかもしれない問題に、今は真剣に取り組もうとしている。
「僕は彼女を支援したいんです。でも、会社の方針に反することになる…」
「どうしたいの?」
「正しいことをしたいんです」拓也の目には決意が宿っていた。「でも、アドバイスが欲しくて…」
私は彼の話を聞き、いくつかの提案をした。証拠の集め方、外部機関への相談方法など、被害者を守りながら問題解決に向かう道筋を示した。
「ありがとうございます」拓也は深く頷いた。「あなたのおかげで、勇気が出ました」
その言葉に、誇らしさを感じた。拓也は本当に変わっている。かつての自分自身が、このように成長することを見届けられるなんて、何という奇跡だろう。
話が一段落ついたところで、拓也が静かに言った。
「水野さん…千尋さん、僕はあなたを愛しています」
その言葉に、息をのんだ。
「最初は単なる尊敬や感謝だったかもしれません。でも今は違う。あなたの強さ、優しさ、知性…すべてに惹かれています」
拓也の告白は真摯なものだった。しかし、この状況の複雑さを彼は知らない。私は実は彼自身であり、この身体は本来、別の女性のものなのだ。
「時間をください」
それが精一杯の返事だった。
その夜、私は深く考え込んだ。拓也を愛せるだろうか。それは自己愛なのか、それとも別の感情なのか。そして何より、千尋の人生を借りている身として、このような重大な決断をしていいのだろうか。
窓の外を見ていると、突然、強い頭痛に襲われた。視界がちらつき、部屋が回り始めた。そして、大量の映像が脳裏を駆け巡った。
_千尋の人生。幼少期の記憶。学生時代。初めての恋。就職。そして、あの恐ろしい暴行事件。_
千尋の記憶が一気に流れ込んできた。なぜ今なのか。何が起きているのか。
意識が遠のく中、あの夢で見た女性の顔が浮かんだ。
「あなたの旅はもうすぐ終わります」
そして、暗闇。