# 第4章:「鏡の向こう側」
# 第4章:「鏡の向こう側」
ストーカー事件から一ヶ月が経過していた。私は徐々に水野千尋としての生活に慣れ始めていた。メイクの仕方、女性らしい振る舞い、ビジネスの場での立ち居振る舞い—これらのスキルは拓也だった頃には想像もしなかったものだが、今や日常の一部となっていた。
会社での評価も上がり始めていた。私の持つシステム開発の知識と、未来から持ち込んだIT業界の動向予測が、クライアントとの商談で功を奏したのだ。
「水野さん、次の商談もお願いしたいんですが」
佐々木マネージャーは、私を信頼するようになっていた。本来なら記憶喪失という状態で積極的に仕事を任せるのは躊躇われるところだが、私が示す専門知識と的確な判断力が評価されているようだった。
「はい、ありがとうございます」
自然と女性らしい柔らかい口調で返事をする自分に、もはや違和感はなかった。
その日の午後、大きなプレゼンテーションがあった。クライアントは大手IT企業で、新システムの導入を検討しているという。会社としても大きな案件だ。
会議室に入ると、クライアント側の担当者たちが既に席についていた。その中に、見覚えのある顔があった。鈴木拓也—かつての自分だ。
心臓が早鐘を打つ。前に一度、通りで見かけたことはあったが、こんな近い距離で、しかも仕事の場で顔を合わせるとは。
「では、フューチャーテックさんからのプレゼンテーションをお願いします」
クライアント側の責任者が言った。私は深呼吸し、スライドを表示させた。
プレゼンテーションが始まると、私は次第に落ち着きを取り戻した。これは拓也だった頃から得意としていた分野だ。技術的な説明も、将来の展望も、自信を持って語れる。唯一の違いは、聴衆が私を「女性エンジニア」として見ているということだ。
説明が一段落ついたところで質問を受け付けた。すると、拓也が手を挙げた。
「システムの移行期間中のリスク対策について、もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」
冷静で分析的な質問だ。彼の表情は真剣で、私の説明に疑問を持っているようだった。
「はい、移行期間中は並行運用を基本とし、段階的に切り替えていくことを想定しています」
私は拓也の質問に対して、できるだけ詳細に答えた。しかし、彼の表情は次第に不満そうに変わっていった。
「それでは不十分だと思います。実際の現場では...」
彼は私の説明を途中で遮り、自分の意見を述べ始めた。拓也である私は、彼がこの分野で正確な知識を持っていないことを知っている。彼の主張は一部誤りを含んでいた。
「鈴木君、水野さんの説明を最後まで聞こう」
クライアント側の責任者が穏やかに拓也を制した。拓也は明らかに不満そうな表情をしたが、黙った。
プレゼンテーションが終わり、私たちのチームは一旦別室に移動した。佐々木マネージャーが私の肩をポンと叩いた。
「素晴らしかったよ、水野さん。特にあの鈴木という男への対応が上手かった」
「あの方は…?」
「ああ、先方のシステムエンジニアだ。技術は悪くないんだが、女性への態度があまり良くないと聞いている。君が女性だからって、知識を疑っているフシがあるな」
その言葉に、私は複雑な気持ちになった。拓也—かつての自分は、女性のエンジニアを見下していたのか?確かに、拓也だった頃の自分には、無意識の女性蔑視があったかもしれない。でも、こんなにあからさまだったとは。
休憩時間中、廊下でコーヒーを取りに行こうとしたとき、拓也とすれ違った。彼は私をちらりと見ると、小さくため息をついた。
「すみません、何か問題でも?」
思わず声をかけていた。拓也は少し驚いた様子で振り向いた。
「いや…あなたのプレゼン、基本的な部分が抜けていると思っただけです」
「どの部分でしょうか?」
「女性にはシステムの根幹部分は難しいと思うんですよ。表面的な説明だけで、実際の運用面でのリスクが見えていない」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。こんな露骨な偏見を、以前の自分が持っていたとは。
「それは偏見ではないでしょうか?性別と技術力は関係ありません」
冷静に返したつもりだったが、拓也は鼻で笑った。
「偏見じゃない。現実だよ。女性エンジニアの多くは見た目や雰囲気で評価されて、甘やかされているだけだ。本当の実力勝負の現場では…」
「鈴木さん、そろそろ会議再開ですよ」
拓也の上司が声をかけてきた。彼は私に軽く会釈すると、何かを言いかけたが止め、会議室に戻っていった。
私は動揺を隠せなかった。拓也は今の自分が思っていた以上に、女性に対して偏見を持っていたのだ。「女性は楽だ」という思い込みの裏には、「女性は能力が低い」という根深い偏見があったのかもしれない。
会議に戻ると、拓也は再び質問を投げかけてきた。その態度は明らかに挑戦的だった。しかし今度は、私も冷静に対応した。拓也が誤解している技術的な部分を、簡潔に、しかし正確に説明し、彼の主張の矛盾点を指摘した。
会議室の空気が変わるのを感じた。クライアント側の責任者が感心したように頷き、拓也は次第に黙り込んでいった。彼の顔には明らかな敗北感が浮かんでいた。
会議が終わり、私たちは会社に戻った。美里が興奮した様子で私に駆け寄ってきた。
「千尋、すごかったって聞いたわ!あの鈴木という男を言い負かしたんでしょ?」
「そんなつもりじゃなかったけど…あの人、女性に対する偏見が強いみたい」
「ああ、有名よ。女性エンジニアを見下すことで知られてるわ。でも千尋が彼をやり込めたなんて、痛快だわ!」
複雑な気持ちで帰途についた私は、駅のホームでふと見知らぬ男性と目が合った。見覚えのある顔だった気がするが、すぐに人混みに紛れてしまった。何か嫌な予感がしたが、気のせいだろうと思い直した。
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その夜、私は夢を見た。断片的な映像。暗い部屋。知らない男の顔。抵抗できない自分。そして激しい恐怖と屈辱。
汗びっしょりで目を覚ますと、全身が震えていた。これは単なる悪夢ではなく、千尋の記憶だと直感した。彼女が経験した何か恐ろしいこと。
時計は深夜3時を指していた。再び眠りにつくことはできないと悟り、キッチンでお茶を淹れた。窓の外は静まり返った夜の街。どこか遠くで犬が吠える声が聞こえる。
千尋の記憶が断片的に戻ってくるようになって以来、私はずっと不安だった。彼女がストーキング被害に遭っていたことは分かっていたが、その背後にさらに深い闇があるのではないかという予感がしていた。
翌朝、出勤準備をしていると、スマホが鳴った。美里からだった。
「千尋、昨日のクライアント、公式に契約決定したって!あなたのプレゼンが決め手だったみたい!」
嬉しい知らせだったが、同時に拓也のことも思い出させた。あの会社で働き続けると、彼と顔を合わせる機会も増えるだろう。
出勤すると、会社全体が明るい雰囲気に包まれていた。大型案件の獲得に成功したのだ。佐々木マネージャーが朝礼で私を称え、同僚たちから祝福の言葉が次々と届いた。
昼食時、美里と二人でカフェに行った。
「ねえ、千尋。あの鈴木って人、私が聞いた話以上に酷かった?」
「うん…女性エンジニアは表面的な知識しかないって思い込んでるみたい」
「最低ね。でも、千尋がそんな男をやり込めたんだから、痛快だわ」
美里はコーヒーをすすりながら言った。「でも気をつけてね。あの手の男は意地悪するかもしれないから」
その言葉に、なぜか強い不安を感じた。
「美里…私、変な夢を見たの」
「夢?」
「うん…何か怖いことが起きた記憶のような…誰かに襲われるような…」
美里の表情が一変した。彼女はコーヒーカップを置き、真剣な顔で私を見つめた。
「千尋、その記憶が戻りかけてるの?」
「どういうこと?」
美里は周囲を見回し、声を低くした。
「あなた、3年前に…性的暴行を受けたのよ」
その言葉に、私は凍りついた。
「何…?」
「会社の飲み会の帰り…酔っ払った男に襲われたの。あなた、警察にも届け出たけど、証拠不十分で起訴されなかった…」
断片的な記憶が次々と浮かんできた。暗い路地。酒の匂い。抵抗する力が抜けていく感覚。そして激しい恐怖と屈辱。
「そのことが原因で、あなたは一時期うつ状態になって…。それを乗り越えて強くなったの。だから、今回のストーカー事件でも、あんなに冷静に対処できたんだと思う」
私は言葉を失った。水野千尋は、そんな恐ろしい経験をしていたのか。そして、それを乗り越えてきたのか。
「美里、その…加害者は誰?」
「分からないわ。あなた、顔を見ていないって言ってた。暗くて…それに、飲み物に何か入れられていた可能性もあるって」
その晩、私は再び悪夢にうなされた。しかし今度は、より鮮明だった。暗い路地。後ろから忍び寄る足音。振り向くと男の姿。顔は見えない。そして無力感と恐怖。
目を覚ますと、枕が涙で濡れていた。私は千尋ではないのに、なぜこんなに痛みを感じるのだろう。彼女の記憶が、まるで自分自身の経験のように感じられる。
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数日後、クライアント企業との打ち合わせが設定された。新システム導入の詳細を詰めるためだ。私は再び拓也と顔を合わせることになる。
前回のプレゼン後、拓也の態度がどう変わるか気になっていた。自分の予想技術力を覆された男性は、素直に認めるタイプだろうか、それとも更に敵対心を強めるタイプだろうか。
クライアント企業のオフィスに到着すると、会議室に案内された。既に何人かのメンバーが席についていたが、拓也の姿はなかった。
「鈴木さんは?」と佐々木マネージャーが先方の責任者に尋ねた。
「ああ、彼は別のプロジェクトに異動になりました。今回は別のエンジニアが担当します」
意外な展開だった。拓也は前回の会議の後、異動になったのか。それとも自ら希望したのか。
会議は順調に進み、細かい仕様の詳細まで決まっていった。私はシステム設計の専門知識を発揮し、クライアント側からも高評価を得た。
打ち合わせが終わり、オフィスを出ようとしたとき、エレベーターホールで拓也とばったり出くわした。彼は私を見ると、一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに無表情に戻った。
「お疲れ様です」
私が挨拶すると、拓也は小さく頷いただけだった。エレベーターが来るまでの間、気まずい沈黙が続いた。
「前回は失礼しました」
突然、拓也が口を開いた。予想外の言葉だった。
「いえ…」
「僕の質問に的確に答えてくれましたね。見直しました」
その言葉には、まだどこか上から目線のニュアンスがあったが、素直に認める姿勢は意外だった。
「ありがとうございます」
エレベーターが到着し、二人で乗り込んだ。狭い空間で二人きり。かつての自分と今の自分。奇妙な状況だった。
「実は、僕はあなたのような女性エンジニアを見たことがなくて」
拓也が再び口を開いた。「普段接する女性エンジニアは、どうしても…」
「表面的な知識しかないと?」
思わず厳しい口調になった。拓也は少し困ったように笑った。
「そう思い込んでいたんです。でも、あなたは違った」
彼の言葉には、まだ「あなたは例外」というニュアンスがあった。全ての女性エンジニアへの偏見を改めたわけではない。
「鈴木さん、性別で人の能力を判断するのは、自分自身の可能性も狭めていると思いませんか?」
拓也は私をじっと見た。何か言いたそうだったが、エレベーターが1階に到着し、ドアが開いた。
「考えてみます」
そう言って、彼は先に歩き出した。後ろ姿を見送りながら、私は考えた。拓也—かつての自分は変われるのだろうか。
オフィスを出て駅に向かう途中、再び見知らぬ男性と目が合った。駅のホームで見かけた同じ男だ。偶然か?それとも…
不安になり、歩くペースを速めた。すると背後から足音が聞こえた。振り返ると、その男性が私を追いかけてきていた。
「水野さん!」
男性が声をかけてきた。どこかで聞いたことのある声だった。
「私を知ってるんですか?」
「覚えてないのか?」
男性は一歩近づいた。「3年前…あの夜のことを」
その瞬間、激しい恐怖が私を襲った。千尋の記憶が一気に押し寄せる。この男が…彼女を襲った男なのか?
「帰らせてもらいます」
私は震える声で言い、足早に立ち去ろうとした。しかし男性は私の腕をつかんだ。
「逃げるなよ。お前のせいで俺は会社をクビになったんだぞ」
恐怖で声が出ない。周囲を見回すが、人通りは少なかった。
「離してください…」
「お前が俺を誘ったんだろう?あの夜、飲み会で」
彼の言葉に、千尋の記憶が鮮明によみがえった。彼女は誘っていない。彼女は被害者だ。
突然、誰かが男性の肩を叩いた。振り向くと、そこには拓也が立っていた。
「彼女が嫌がってるだろう。手を離せ」
男性は拓也を見て、一瞬ひるんだ。
「お前は関係ない。二人の問題だ」
「警察を呼ぶぞ」
拓也の声は冷静だが、威圧感があった。男性は不満そうに唇を噛んだが、ようやく私の腕を離した。
「覚えておけよ」
そう言い残して、男性は去っていった。私は震える足でその場に立ち尽くしていた。
「大丈夫ですか?」
拓也が心配そうに尋ねた。
「は、はい…ありがとうございます」
「知り合いですか?あの人」
「いいえ…でも…」
言葉に詰まった。拓也に千尋の過去を話すべきか悩んだが、やめておいた。
「すみません、私、もう大丈夫です。ありがとうございました」
拓也は不思議そうな顔をしたが、深く追求はしなかった。
「駅まで送りましょうか?」
「いえ、大丈夫です…本当に」
拓也はなおも心配そうだったが、頷いて立ち去った。私は彼の背中を見送りながら、複雑な思いに襲われた。かつての自分が、今の自分を守ってくれた。なんという皮肉だろう。
その夜、私は警察に連絡した。3年前の事件の加害者と思われる男性に遭遇したことを報告した。警察は「パトロールを強化します」と言ったが、それだけだった。証拠が不十分なのだ。
眠れぬ夜を過ごした私は、翌朝、会社を休むことにした。美里に状況を説明すると、彼女はすぐに私のマンションに駆けつけてくれた。
「あの男、絶対に捕まえてやるわ」
美里は怒りに震えていた。「前回は証拠不足で逃げたけど、今度は違うわ」
その日、私たちは警察に行き、改めて詳細な報告をした。3年前の事件のファイルが再び開かれた。しかし、依然として決定的な証拠はなかった。
数日後、木村から連絡があった。
「監視カメラを確認したところ、あの男性があなたのマンション周辺を徘徊していた映像が見つかりました。ストーキング行為として立件できる可能性があります」
一筋の光が見えた気がした。
その週末、私はまた男性を見かけた。今度はスーパーの前だった。彼は明らかに私を待ち伏せしていた。恐怖で足がすくんだが、すぐに木村に連絡した。
「今すぐそこを離れて。近くのカフェに入って。僕たちはすでに彼を監視しています」
私はカフェに逃げ込んだ。15分後、警察と木村が到着した。男性は警察に連行された。
後日、男性は3年前の事件とは直接結びつけられなかったものの、ストーキング行為で逮捕された。彼の自宅からは私の写真や個人情報が見つかり、明らかな証拠となった。
事件が一段落ついた夜、美里と木村が私のマンションを訪れた。三人でワインを飲みながら、ようやく安堵のため息をついた。
「これで二人とも捕まったわね。吉田も、この男も」
美里は微笑んだ。
「千尋は強いね」木村が言った。「こんな経験を二度もして、それでも前を向いている」
私は複雑な思いで二人を見た。千尋は確かに強かった。恐ろしい経験を乗り越えてきたのだ。しかし、私はその記憶の断片しか持っていない。彼女が感じた本当の痛みや恐怖を、完全に理解することはできない。
「私…記憶が戻りつつあるの」
少し嘘をついた。彼らに本当のことは言えない。
「千尋が襲われた夜のこと…少しずつ思い出してる」
美里が私の手を握った。「無理に思い出そうとしなくていいのよ」
「でも、思い出したい。私自身のために」
窓の外の夜景を見つめながら、私は考えた。この体験は、拓也だった自分にとって大きな学びだった。女性が日常的に感じる恐怖、社会的な不平等、そして性暴力の現実。以前の自分は、これらをどこか他人事として捉えていたのではないか。
そして、今日の拓也—過去の自分との出会い。彼は変われるのだろうか。女性に対する偏見を捨て、真の理解を持つことができるのだろうか。
「あ、そういえば」木村が話題を変えた。「今日、あなたを助けてくれた男性がいたって?」
「ええ…クライアント企業のエンジニアの方です」
「へえ、珍しいわね」美里が言った。「男性が他の男性に注意するなんて」
「うん…意外だった」
拓也の姿が脳裏に浮かんだ。彼は変わりつつあるのかもしれない。それとも、単に「女性を守る男性」というステレオタイプな役割を演じただけなのか。
いずれにせよ、私は彼と再び関わることになるだろう。そして、その時々に彼の変化—あるいは変化のなさを見ることになる。それは、かつての自分自身との対話でもあるのだ。
窓の外では雨が降り始めていた。雨音を聞きながら、私は少し微笑んだ。恐怖の中にあっても、希望は存在する。千尋が乗り越えてきたように、私も乗り越えていく。そして、できることなら、拓也をも変えていきたい。過去の自分自身を救うために。
拓也との対峙から数日後、大手広告代理店との重要な商談があった。この案件は会社にとって大きな転機となる可能性を秘めていた。
「水野さん、この案件はあなたが中心になって進めてほしい」
佐々木マネージャーが言った。「あなたのプレゼン能力は会社随一だからね」
褒め言葉のはずなのに、なぜか胸に重石を感じた。会社の期待を一身に背負う責任感だ。拓也だった頃も同様のプレッシャーはあったが、なぜか今は違う。
当日、会議室に入ると、広告代理店の役員たち—全員男性—が並んでいた。彼らの視線を受け、私は自然と頬に笑みを浮かべていた。
「本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます」
かつての自分なら淡々と始めたプレゼンテーションだが、今の私は声のトーンを少し高めに、表情も柔らかく、時折微笑みを交えながら話していた。これは意識してやっているわけではなく、女性としての身体に宿った時から自然と身についた「感情労働」だった。
プレゼンの最中、一人の役員が突然質問を投げかけてきた。
「そのアプローチは現実的ではないと思うが?」
やや攻撃的なトーンだった。拓也だった頃なら、同じくらい強い口調で反論していただろう。しかし今の私は微笑みを絶やさず、柔らかい声で答えた。
「ご懸念はもっともです。ただ、こちらのデータをご覧いただくと…」
表情は優しく、声のトーンは穏やかなまま、論理的に反証していく。この「柔らかさ」を保ちながら議論するという二重作業が、想像以上に精神的なエネルギーを消費することに気づいた。
プレゼンが終わり、役員たちは満足そうに頷いていた。「とても分かりやすい説明でした」と言われ、その言葉の裏に「女性なのに」という無言の前置きを感じた。
会社に戻ると、疲労感で頭が重かった。
「千尋、すごかったわ!あなたのプレゼン、完璧だったよ」と美里が声をかけてきた。
「ありがとう…でも、なんだか疲れたわ」
「そりゃそうよ。あの笑顔を90分も維持してたんだもの」
美里の言葉に、はっとした。確かに私は終始笑顔を絶やさず、柔らかい物腰を保ち続けていた。拓也だった頃には、こんな「感情のコントロール」を意識したことはなかった。男性は真剣な表情のまま議論しても問題ないが、女性がそうすると「怖い」「冷たい」というレッテルを貼られるのだ。
その日の夕方、佐々木マネージャーが私のデスクに近づいてきた。
「水野さん、素晴らしい仕事だった。この調子で次の案件も…」
彼は次々と新しい仕事の話を始めた。拓也だった頃なら、このような期待は嬉しかっただろう。しかし今は違った。なぜなら、その背後に「私の意見を取り入れる気はない」という態度を感じ取ったからだ。
「佐々木さん、その案件は日程的に厳しいと思います」
私が懸念を伝えると、彼は「大丈夫、水野さんならできるよ」と軽く流した。
「でも、品質を維持するためには時間が必要です。もう少しスケジュールに余裕を…」
「水野さんの笑顔があれば、クライアントも納得してくれるさ」
その言葉に、胸の奥で何かが折れる音がした。彼は私の技術や知識ではなく、「笑顔」という表層的な部分に価値を見出していたのだ。拓也だった頃には決して経験しなかった種類の軽視だった。
帰り道、美里と歩きながら、このモヤモヤした気持ちを打ち明けた。
「分かるわ、すごく」美里は頷いた。「私たちは常に『怒らない』『不平を言わない』『笑顔でいる』ことを期待されてる。それをしないと『扱いにくい女』というレッテルを貼られるのよ」
「でも、それじゃ本当の意見が通らないじゃない」
「そうよ。だから私たちは、『笑顔で』『柔らかく』『遠回しに』言わなきゃいけない。二倍、三倍の労力を使ってね」
美里の言葉に深く頷いた。感情労働。拓也だった頃には気づかなかった、女性の日常的な負担だった。
商談から一週間後、朝起きると激しい腹痛に襲われた。鈍い痛みが下腹部から背中にかけて広がり、吐き気も感じた。
「これは…」
女性の記憶に頼ると、これが生理痛だと分かった。拓也だった頃には、女性の生理痛の話を聞いても、「少し腹痛がする程度だろう」と軽く考えていた。しかし実際に経験すると、想像をはるかに超える痛みだった。
鎮痛剤を飲んでも、痛みは完全には引かなかった。それでも会社を休むわけにはいかない。重要な打ち合わせが入っていたからだ。
苦痛に耐えながらオフィスに到着すると、顔色の悪さを同僚の女性たちにすぐに気づかれた。
「千尋、大丈夫?」と美里が心配そうに尋ねた。
「生理痛がひどくて…」
その言葉に、女性たちは理解を示したが、近くにいた男性社員は少し顔をしかめた。
打ち合わせの時間になり、私は痛みをこらえながら会議室に向かった。そこで佐々木マネージャーが私の顔色の悪さに気づいた。
「水野さん、体調が悪いなら今日は帰ったら?」
「大丈夫です。このプロジェクトは私が…」
「いや、無理はしないで。女性は体調管理も仕事のうちだからね」
その言葉に違和感を覚えた。「女性は」という前置きが、まるで生理痛は「女性特有の弱さ」であるかのようだった。
会議が始まると、別の男性社員が資料を説明し始めた。本来私が担当するはずだった部分だ。私が体調不良だからと、勝手に代わられていた。
「すみません、その部分は私が担当します」
私が声を上げると、佐々木マネージャーが「無理しなくていいよ」と言った。
「いいえ、大丈夫です」
痛みをこらえながら説明を始めたが、集中力が途切れがちになる。すると、同じ男性社員が「僕が代わりましょうか?」と割り込んできた。彼の親切心は理解できるが、その裏に「女性の体調不良など簡単に代替可能」という認識を感じた。
打ち合わせ後、休憩室でお茶を入れていると、近くの男性社員たちの会話が耳に入った。
「女性って、毎月あれで大変だよな」
「でも、それを理由に仕事が滞るのはね…」
「まあ、だから責任あるポジションは…」
その言葉を聞いて、私は凍りついた。拓也だった頃、自分も似たような会話に加わっていたのではないかと思うと、恥ずかしさと後悔が込み上げてきた。
その日の夕方、痛みに耐えられなくなった私は早退することにした。佐々木マネージャーに伝えると、彼は「仕方ないね」と言いつつも、少し残念そうな表情を見せた。
「明日のクライアントとの電話会議は?」
「対応します。資料も今晩中に仕上げます」
家に帰っても痛みは続いた。横になりながら、ラップトップで資料を仕上げる。拓也だった頃なら、体調不良で仕事の質が下がることは許されないと思っただろう。しかし女性の場合、生理痛があっても仕事の質を落とさないことが「当然」と期待されているのだ。
ふと思った。拓也だった頃、佐々木麻衣が体調不良で早退すると「また言い訳か」と内心思っていた。もしかしたら彼女も同じような痛みに耐えていたのかもしれない。その考えに、深い後悔を覚えた。
数週間後、会社の創立記念パーティーが開かれた。社員だけでなく、取引先の関係者も多数出席する大きな催しだ。
私はシンプルながらもエレガントなワンピースを選び、控えめなメイクで参加した。会場に入ると、同僚たちが話の輪を作っている。近づくと、話題は結婚についてだった。
「佐藤さんが今度結婚するんだって」
「へえ、いいなあ」
「そういえば千尋は?お相手はいるの?」
突然振られた質問に、私は一瞬戸惑った。
「いえ、今はまだ…」
「そろそろ考えた方がいいわよ」年配の女性社員が言った。「30歳過ぎると、どんどん選択肢が減るわ」
その言葉に、なぜか息苦しさを感じた。拓也だった頃、30代前半の独身男性として「結婚はまだ先でも構わない」と思っていた。しかし女性の場合、同じ年齢でも「もう婚期を逃しかけている」という扱いなのだ。
「千尋さんくらいの美人なら、すぐに良い人見つかるよ」
別の同僚が言った。この言葉にも違和感があった。まるで女性の価値が「美しさ」と「結婚」によってのみ決まるかのようだった。
パーティーの最中、取引先の中年男性が近づいてきた。
「水野さん、素晴らしい仕事をされていますね」
「ありがとうございます」
「ところで、お子さんは?」
唐突な質問に戸惑った。「いいえ、まだ…」
「そうですか。でも、キャリアも大事ですが、女性の幸せは家庭にありますよ。私の妻も最初はキャリアにこだわっていましたが、今は二人の子供を育てて、本当の幸せを知ったと言っています」
その発言に返す言葉が見つからなかった。拓也だった頃には、男性に「本当の幸せは家庭にある」などと言われることはなかった。キャリアを追求することに疑問を投げかけられることもなかった。
その後も「子供は早いうちに産んだ方がいい」「美人なのに独身でいるのはもったいない」「仕事だけじゃ寂しくない?」という言葉を何度も浴びせられた。どれも善意から出た言葉のはずなのに、その一つ一つが「女性の価値」を狭い枠に押し込めようとしているように感じられた。
帰り道、美里と二人で歩きながら、そのモヤモヤした気持ちを打ち明けた。
「あるあるよね」美里はため息をついた。「男性は『仕事ができる』だけで評価されるけど、私たちは『仕事ができて、美しくて、家庭的で、子供も産む』という、不可能な組み合わせを求められるの」
「男性だった頃は、そんな圧力を感じたことなかった」
思わず本音が漏れたが、美里は「記憶がないからね」と理解してくれた。
「ガラスの天井って言葉、知ってる?」美里が尋ねた。「女性がどれだけ頑張っても、見えない障壁にぶつかるってこと。特に結婚や出産の時期になると、会社の評価が変わるのよ」
「でも、それはおかしいわ」
「そう、おかしいの。でも、それが現実」
美里の言葉に深く頷いた。女性のキャリアを阻む見えない壁。拓也だった頃には気づかなかった社会の不条理だった。
生理痛とパーティーでの出来事から数日後、私は再び千尋の断片的な記憶にうなされた。今回は家族に関する記憶だった。
_「千尋、あなたはいつも反抗的ね」_
_厳格そうな母親の声。10代の千尋が反論する場面。_
_「私だってやりたいことがあるの!」_
_「女の子がそんなに出しゃばっても…」_
目を覚ますと、胸が締め付けられるような感覚があった。これは千尋の記憶なのか。彼女はどんな家庭環境で育ったのだろう。
朝食を取りながら、スマホの写真フォルダを見直してみた。そこには千尋と思われる女性と、年配の男女の写真があった。おそらく彼女の両親だろう。笑顔で写っているが、どこか緊張感のある家族写真だった。
その日の夕方、スマホが鳴った。画面を見ると「母」と表示されている。緊張しながら電話に出た。
「もしもし、千尋?」
「あ、はい…お母さん」
声を合わせるのに神経を使う。
「最近、連絡がないから心配していたのよ」
「ごめんなさい…ちょっと忙しくて」
「そう…」一瞬の沈黙。「あなた、まだあんな仕事を続けているの?」
その言葉に違和感を覚えた。「あんな仕事」とは?
「IT関係でしょう?女の子があんな難しい仕事をして、大丈夫なの?」
ああ、そういうことか。千尋の母親は、娘のキャリア選択に否定的なのだ。
「大丈夫よ、母さん。私はこの仕事が好きだから」
「でも、そろそろ結婚のことも考えないと…」
ここでも結婚の話だ。胸が締め付けられる思いがした。
「知り合いの息子さんで、とても素敵な人がいるのだけど、紹介してもいい?」
「いえ、今はまだ…」
「千尋、もうすぐ30よ。いつまでも好き勝手やっていられないわ」
その厳しい言葉に、私は言葉を失った。「好き勝手」とは、自分の意志でキャリアを追求することなのか。
電話を切った後、複雑な気持ちになった。拓也だった頃の両親は、息子のキャリア選択に干渉することはなかった。「早く結婚しなさい」というプレッシャーもなかった。それは「男だから」という理由だったのだろうか。
その夜、私は千尋のパソコンを起動し、パスワードを試行錯誤した。ようやくログインに成功すると、彼女の個人フォルダを探索した。そこには日記のようなテキストファイルがあった。
_「今日もまた母からの電話。いつもの結婚の話。私がITの仕事を選んだことを、まだ認めてくれない。『女の子らしい仕事を選べばよかったのに』と。でも、これが私の進みたい道なのに…」_
更に読み進めると、千尋の家族関係が見えてきた。保守的な両親、特に母親は「女性の幸せは結婚と家庭にある」という強い信念を持っていた。千尋はそれに反発しながら、自分の道を切り開いてきたのだ。
そして、衝撃的な記述を見つけた。
_「母は私が襲われたことを知らない。知ったら『あなたにも落ち度があったのでは』と言うだろう。だから黙っている。この痛みを一人で抱えるしかない」_
その言葉に、胸が痛んだ。千尋は性暴力の被害を両親にさえ打ち明けられなかったのだ。なんという孤独。
パソコンを閉じ、窓の外の夜景を眺めながら、私は考えた。千尋は多くの困難と闘ってきた。家族の無理解、社会の偏見、性暴力の恐怖。それでも彼女は強く生きてきた。
翌日、私は勇気を出して千尋の実家に電話をかけた。父親が出た。
「もしもし、千尋か?珍しいな」
「お父さん…私、実は最近記憶があいまいになって…」
記憶喪失の話をすると、父親は驚いたが、意外にも理解を示してくれた。
「無理はするなよ。お前はいつも頑張りすぎる」
その言葉に、少し安心感を覚えた。父親は続けた。
「お母さんとはまた言い合いになったのか?」
「いえ…でも、やっぱり結婚のことで…」
「ああ、心配しているんだよ。お前のことを」父親はため息をついた。「古い考えで悪いが、女の子が一人で生きていくのは大変だからな。ただ、そう思ってるだけなんだ」
その言葉に、複雑な思いがした。心配は理解できる。しかし、その「心配」自体が「女性は守られるべき弱い存在」という前提に基づいているのだ。
「お父さん、私は大丈夫。自分の道は自分で選びたい」
「分かった。お母さんにもそう伝えておく」
電話を切った後、少し心が軽くなった気がした。千尋の家族との関係は複雑だが、全くの断絶ではないらしい。父親には、限られた理解ではあるが、娘の意志を尊重する気持ちがあるようだった。
私は改めて考えた。千尋は多くの「見えない檻」と闘ってきた。家族の期待、社会の偏見、性差別、性暴力。それらを乗り越えて、彼女は自分の道を切り開いてきたのだ。
そして今、私がその道を引き継いでいる。拓也だった頃には気づかなかった女性の苦労と強さを、身をもって体験している。この経験は、かつての自分自身を見つめ直す機会でもあった。
窓の外では、雨が降り始めていた。雨音を聞きながら、私は決意を新たにした。千尋が築いてきた道を守り、さらに前へ進むことで、過去の自分自身—拓也も変えていきたい。女性への理解を持たない男性が、どれだけ多くの人を傷つけているか。それを知ってもらうために。