# 第3章:「見えない恐怖」
# 第3章:「見えない恐怖」
朝の光が窓から差し込み、私は目を覚ました。隣のソファでは美里がまだ寝息を立てている。一晩中付き添ってくれた彼女に感謝しながら、私は静かにベッドから抜け出した。
前日のストーカー被害から一夜明けたが、恐怖は消えていない。どこかで誰かに見られているような感覚が、常に背筋を冷やす。拓也だった頃には決して味わったことのない恐怖だ。
キッチンでコーヒーを入れていると、スマホの通知音が鳴った。恐る恐る画面を見ると、警察からの連絡だった。
「吉田容疑者は一時拘留されましたが、証拠不十分で48時間以内に釈放される可能性があります。引き続き警戒してください」
コーヒーカップを握る手に力が入る。たった48時間。その後、彼はまた自由になり、私を追いかけてくる。
美里が目を覚まし、状況を説明すると、彼女は眉をひそめた。
「千尋、警察の保護だけじゃ不安だわ。私の知り合いに相談してみない?」
「知り合い?」
「ええ、大学の同級生で今はセキュリティ会社に勤めてる木村っていう人。ストーカー対策に詳しいの」
その日の午後、美里の紹介で木村哲也が私のマンションを訪れた。180センチを超える長身に鍛えられた体つき。拓也だった頃なら、同じ男性として「恵まれた体格だな」と思う程度だったが、今の私にはその存在感が圧倒的に感じられる。
「水野さん、状況は美里から聞きました。僕にできることがあれば何でも言ってください」
木村は穏やかな口調で話し、部屋のセキュリティをチェックし始めた。窓の鍵、ドアのデッドボルト、ベランダの侵入経路など、専門的な視点で弱点を指摘してくれる。
「あと、これを持っておいてください」
彼は小さな装置を二つ取り出した。一つは防犯ブザー、もう一つはGPS付きの小型通信機だ。
「何かあったらすぐに押してください。僕のスマホに通知が行きます。24時間対応します」
木村の真剣な眼差しに、少し安心感が生まれた。拓也だった頃には、誰かに守ってもらうという経験はなかった。
夕方、木村は帰り際に言った。「明日から数日間、このマンションの近くで張り込みます。吉田が釈放されたら、動きを監視します」
美里と木村が帰った後、私は一人きりになった。警察は定期的にパトロールすると言っていたが、それでも不安は消えない。シャワーを浴びる時でさえ、カーテンの向こうに誰かがいるような錯覚に襲われる。
夜、ベッドに横になりながら、千尋のスマホを再度確認した。明日からの出勤について考える必要がある。休みを取り続けるわけにもいかないだろう。仕事に行けば、他の人たちと一緒にいられるという安心感もある。
しかし、出勤するということは、一人で通勤しなければならないということでもある。吉田は私の行動パターンを知っているはずだ。
不安な思いで眠りについた私は、断片的な夢を見た。千尋の記憶だろうか。暗い駐車場で一人歩く場面。背後から忍び寄る足音。振り返ると、吉田の姿。逃げようとするが足が動かない…。
汗だくで目を覚ますと、時計は午前3時を指していた。二度と眠れなくなった私は、朝を待ちながら窓の外を見つめ続けた。
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朝の通勤ラッシュ。私は緊張しながら駅に向かっていた。木村から借りた防犯ブザーをバッグの一番取り出しやすい場所に入れ、常に周囲を警戒する。
マンションを出てから駅までの道のり、いつもなら10分ほどの距離が、今日は永遠に感じられる。背後からの足音に何度もビクリと振り返る。女性であることの不安を、身をもって体験していた。
駅のホームは人で溢れていた。通勤客の波に飲み込まれながら、私は電車を待った。ふと、誰かの視線を感じて振り向くと、向かいのホームに立つ男性と目が合った。一瞬、吉田のようにも見えたが、すぐに人混みに紛れてしまう。気のせいだったのだろうか。
電車が到着し、私は人の流れに押され、車内へと入っていった。朝のラッシュ時、車内は身動きが取れないほど混雑している。体が小さくなった今の私は、周囲の人々に押しつぶされそうになる。
突然、背中に何かが当たった感覚があった。最初は単なる混雑による接触だと思ったが、それが徐々に意図的な動きに変わっていくのを感じた。男性の手が、私の腰から徐々に下へと移動していく。
凍りついた。拓也だった頃、満員電車で痴漢被害に遭う女性の話は聞いていた。だが、自分自身がその立場になるとは思ってもみなかった。
「や、やめて…」
かすかな声が喉から漏れた。しかし、周囲の人々は誰も気づかない。皆、スマホを見るか、虚空を見つめるか。誰も助けてくれない。
次の駅で何人かが降り、少しだけ隙間ができた瞬間、私は必死で位置を変えようとした。しかし、男の手は私の動きを追ってくる。
恐怖と怒りが入り混じる。拓也だった頃なら、こんな状況で黙っていなかっただろう。しかし今の私には、相手を押しのけるだけの力もない。
次の駅で思い切って電車を降り、別の車両に乗り換えることにした。ホームに出た瞬間、振り返って犯人の顔を見ようとしたが、混雑の中でそれは不可能だった。
震える足でオフィスに向かう途中、私は木村にメッセージを送った。
「電車で痴漢被害に遭いました。大丈夫ですが、気をつけます」
すぐに返信が来た。「すぐに会社に向かいます。一人にならないでください」
会社に着くと、同僚たちが心配そうに迎えてくれた。状況を説明すると、女性社員たちは怒りと同情の入り混じった表情を見せた。
「ひどいわ!警察に通報した?」
「どんな人か覚えてる?」
しかし、私は犯人の顔も、特徴も何も覚えていなかった。警察に通報したところで、証拠がない。
「痴漢被害って、訴えるのが難しいのよね」と美里がため息をついた。「証拠がないと、逆に『冤罪だ』って言われることもあるし…」
拓也だった頃には気づかなかった現実。女性が日常的に直面する不正義と恐怖。
午後、木村が会社を訪れた。彼は私と美里を会議室に招き、状況を詳しく聞いた。
「吉田は今日の夕方に釈放される予定です。僕は既に準備を整えています。水野さん、今日の帰りは私が送ります」
木村の存在は心強かったが、それでも不安は消えない。毎日、彼に送ってもらうわけにもいかないだろう。
仕事を終え、木村の車で帰宅する途中、彼は真剣な表情で言った。
「水野さん、正直に言います。吉田のようなストーカーは、簡単には諦めません。彼にとって、あなたは『獲物』なんです。接近禁止命令があっても、それを破る覚悟で行動する可能性が高い」
その言葉に、背筋が凍る思いがした。
「どうすれば…」
「一つの方法は、彼が確実に逮捕されるような状況を作ることです。決定的な証拠を押さえる」
「どういうこと?」
「吉田を追い詰めて、犯行に及ぼうとするところを押さえる。罠を仕掛けるんです」
木村の提案は危険だったが、このまま恐怖の中で生き続けることもできない。私は考え込んだ。
マンションに戻ると、木村は部屋の中まで確認してから帰っていった。彼が去った後、私は窓から外を見下ろした。通りには人影が少なくなり始めていた。どこかに吉田が潜んでいるのだろうか。
その夜、不安な気持ちで眠りについた私のスマホが突然鳴った。画面には「非通知」の表示。恐る恐る出ると、沈黙の後、低い声が聞こえた。
「記憶は戻った?千尋」
吉田だ。釈放されたばかりで、もう連絡してきた。
「何…何が欲しいの?」声が震える。
「お前だよ。お前は俺のものだ。どこに逃げても、誰に助けを求めても、最後は俺のところに戻ってくる」
恐怖で電話を切り、すぐに木村に連絡した。彼は10分後には私のマンションに駆けつけてくれた。
「電話の内容を録音しましたか?」
「いえ…パニックになって…」
「大丈夫です。次からは録音アプリを起動しておきましょう。それと、新しい対策を考えました」
木村は小型のカメラ数台と、GPSトラッカーを取り出した。
「あなたの部屋の外と、通勤経路の数カ所にカメラを設置します。彼が接近してきたら証拠になります」
その夜、木村は私の部屋に泊まることになった。もちろん、彼はリビングのソファで眠り、私は寝室で休んだ。男性と同じ空間で眠ることにも不安はあったが、それ以上に吉田への恐怖が勝っていた。
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翌朝、木村は先に出て、マンションの周囲を確認した後、私を会社まで送ってくれた。不安は残るものの、彼の存在に心強さを感じていた。
午前中の会議を終え、休憩室でコーヒーを飲んでいると、受付から内線が入った。
「水野さん、お客様がいらしています」
誰だろう?と思いながら受付に向かうと、そこには髪を短く切り、スーツ姿の吉田が立っていた。
血の気が引いた。どうして会社に?警備員は止めなかったのか?
「久しぶり、千尋」穏やかな表情で、しかし目は冷たいまま吉田は言った。「大事な話があるんだ」
動けなくなった私を見て、受付の女性が「知り合いの方ですか?」と尋ねてきた。
「い、いえ…」
その瞬間、吉田の表情が変わった。「何言ってるんだ?俺たち、付き合ってたじゃないか」
私は反射的に首を振った。「違います。あなたとは何の関係もありません」
受付の女性が警備員を呼ぼうとするのを見て、吉田はすぐに態度を変えた。
「分かった、今日は帰る。でも、必ずまた会いに来るよ」
そう言って彼は立ち去った。全身が震える私を、美里と同僚たちが会議室に連れて行き、落ち着かせてくれた。
「信じられない!よくもこんなところまで来たわね!」美里は怒りに震えていた。
すぐに木村に連絡し、状況を説明した。彼は「監視カメラの映像を確認します。警察にも通報してください」と言った。
その日の午後、警察が会社に来て事情聴取を行った。しかし、吉田が会社を訪れただけでは、接近禁止命令違反にはならないという。彼は建物の共用部分にいただけで、私に直接接触していないからだ。
「でも、彼が電話してきたことは?」と尋ねると、警察官は「通話記録と録音がないと立証が難しい」と答えた。
絶望感が襲ってきた。法的な保護にも限界がある。結局、女性は自分自身で身を守るしかないのか。
木村が会社に来て、今後の対策を話し合った。彼は真剣な表情で言った。
「もう一歩踏み込んだ作戦が必要です。吉田を追い詰めて、確実な証拠を掴む」
「どうするの?」
「あなたを囮にして、吉田が犯行に及ぼうとするところを押さえます」
その言葉に、美里が即座に反対した。「危険すぎるわ!千尋を危険にさらすなんて!」
しかし、私は静かに言った。「やりましょう。このまま恐怖の中で生きていくわけにはいかない」
木村の計画は次のようなものだった。週末、私があえて一人で外出する姿を見せる。吉田が必ず追ってくるはずだ。その様子を木村のチームが監視し、彼が接触してきた瞬間、証拠を押さえて警察に通報する。
「周囲には僕のチームが5人配置します。あなたは絶対に一人にはしません」
危険な賭けだが、これ以上の選択肢はなかった。
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週末の午後、計画は実行に移された。私は一人、買い物に出かけるふりをした。木村のチームはそれぞれ変装し、私の周囲で監視を続けている。耳にはイヤホン型の通信機、バッグにはGPSと小型カメラが仕込まれていた。
「吉田の姿を確認。ターゲットから50メートル後方を追尾中」木村の声がイヤホンから聞こえてきた。
背筋が凍る思いだったが、足を止めるわけにはいかない。計画通り、カフェに入り、窓際の席に座る。そこからは通りが見渡せる。
10分後、吉田がカフェに入ってきた。彼は私から少し離れた席に座り、コーヒーを注文した。視線を感じて見ると、彼はじっと私を見つめていた。
「記憶は戻った?千尋」
突然話しかけられて、私は身震いした。
「あなたとは何の関係もありません。近づかないでください」
「嘘をつくな」吉田の声が低く変わった。「俺たちは特別な関係だった。お前が全部台無しにしたんだ」
「何の関係もありません」強く言いながらも、恐怖で手が震える。
彼は席を立ち、私のテーブルに近づいてきた。「一緒に来てくれれば、穏便に済ませる。俺のアパートで話そう」
その瞬間、頭に血が上った記憶の断片が蘇る。
_暗い部屋。吉田の荒い息遣い。「俺だけを見ろ」と言いながら腕を掴む男。必死で振りほどく自分。_
「絶対に行きません」震える声で言った。
彼の表情が一変した。「また拒絶するのか?」手が私の腕に伸びる。
その瞬間、木村が現れた。「そこまでだ」
吉田が振り向くと、そこには木村と彼のチームメンバーが立っていた。一人はカメラを構えている。
「何だお前らは!」吉田が怒鳴った。
「警察だ」木村は嘘をついた。「吉田健一、あなたを接近禁止命令違反と暴行未遂で逮捕する」
慌てた吉田は逃げようとしたが、出口には既に木村のチームメンバーが立っていた。そして数分後、本物の警察が到着した。
吉田は警察に連行された。彼が私の腕を掴んだ瞬間の映像と、脅迫的な言葉の録音が決定的な証拠となった。今度は簡単には釈放されないだろう。
カフェを出て、木村の車の中で緊張が解けた私は、突然涙があふれ出るのを止められなかった。恐怖、安堵、そして何より「女性として生きることの恐ろしさ」を実感していた。
「大丈夫ですか?」木村が心配そうに尋ねた。
「ありがとう…本当に」震える声で答えた。
その後、警察署で詳細な証言を残し、吉田は今度こそ本格的に起訴されることになった。彼の部屋からは私の写真や個人情報が大量に見つかり、ストーキング行為の証拠は明らかだった。
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一週間後、少しずつ日常が戻り始めていた。会社での仕事も軌道に乗り、女性としての生活にも徐々に慣れてきた。木村とは友人として連絡を取り合うようになり、時々食事に行くこともあった。
しかし、電車での通勤は依然として緊張の連続だった。あの痴漢被害以来、私は常に警戒するようになっていた。混雑した車内では背中を壁に向け、人の多い場所では常に周囲に気を配る。女性として生きるということは、こうした無意識の防衛本能を身につけることでもあった。
ある午後、会社からの帰り道、私はふと足を止めた。向かいのビルから出てくる男性の姿が目に入ったからだ。
鈴木拓也。かつての自分。
彼は疲れた様子で、書類の入ったカバンを抱えている。2018年のこの時期、拓也はシステムエンジニアとして忙しい日々を送っていた。そして、まだ小林奈々との関係に悩んでいた頃だ。
彼が通りを横切り、私の方向に歩いてくる。心臓が早鐘を打つ。もし彼と目が合ったら、私はどうすればいいのだろう?
そんな心配は無用だった。拓也は私の前を通り過ぎていった。彼の目に映る私は、単なる通りすがりの女性に過ぎない。
しかし、その瞬間、私は気づいた。もう私は、かつての「鈴木拓也」ではない。女性として、水野千尋として、新しい人生を歩み始めているのだ。そして、女性が日常的に感じる恐怖や不安も、身をもって体験している。
「女性は楽だ」と思っていた自分がいかに浅はかだったか。表面的な「特権」の裏には、こんな恐怖や制約が隠れていたのだ。
その夜、美里が私のマンションを訪れた。警察から連絡があり、吉田は確実に罪に問われることになったという。
「ひと段落ついたわね」美里はホッとした表情で言った。
「ありがとう、みんなのおかげよ」
ワインを飲みながら、美里が尋ねた。「千尋、記憶は少しずつ戻ってる?」
「ええ、少しずつ…」と答えながら、私は考えた。千尋の記憶は断片的にしか戻らないだろう。しかし、それは問題ではない。私はもう、新しい自分として生きている。
窓の外の夜景を眺めながら、女性として生きるということの意味を、私はようやく理解し始めていた。それは特権ではなく、また単なる制約でもない。それは別の形の人生なのだ。
そして、この世界のどこかには、まだ知らない「鈴木拓也」がいる。彼もいつか、女性の視点を理解できる日が来るのだろうか。




