# 第2章:「知らない特権」
# 第2章:「知らない特権」
病室の白い天井を見つめたまま、私は自分の声の変化に困惑していた。寝ている間に何かが変わってしまった——そんな違和感が全身を支配している。
「あの、気がついたんですか?」
看護師らしき女性が部屋に入ってきた。私は本能的に起き上がろうとしたが、体が思うように動かない。いや、動くのだが、どこか重心が違う。視界の端に、いつもは見えないはずの黒髪が揺れるのが見えた。
「あなた、昨日アパートの廊下で倒れていたそうです。幸い、隣の部屋の方が見つけてくれて…」
看護師の言葉が耳に入らない。私は自分の手を見た。細くて白い。爪は綺麗に整えられている。女性の手だ。恐る恐る、胸に手を当てる。そこには、かつての私にはなかった柔らかな膨らみがあった。
「水野さん?大丈夫ですか?」
水野?私の名前は鈴木拓也のはずだ。だが、この体は明らかに女性のものだ。
「わ、私…ここは?私は誰…?」
混乱した様子で看護師に尋ねると、彼女は心配そうな表情になった。
「あら、記憶がないの?あなたは水野千尋さん。26歳です。ここは聖マリア病院」
看護師はナースコールを押した。「先生を呼びますね」
私は壁に掛けられたカレンダーに目をやった。そこに記された年月日に息を呑んだ。
2018年5月15日。
私が睡眠薬を飲んだ夜は2023年。5年前だ。どういうことだ?私は女性の体になっただけでなく、過去にもタイムスリップしてしまったのか。
医師が来て簡単な検査を行った後、「一時的な記憶喪失の可能性がある」という診断が下された。頭部CTには異常がないという。
「記憶は徐々に戻ってくるかもしれません。無理をせず、日常生活を送ってみてください」と医師は言った。
看護師が私のベッドサイドに置かれたハンドバッグを指さした。
「お荷物はそちらに。お財布も中に入っています。退院手続きは済ませてありますので、いつでもお帰りいただけます」
彼女が部屋を出ていくと、私はすぐにバッグに手を伸ばした。中には財布、スマートフォン、化粧ポーチなど、明らかに女性のものが入っている。財布から身分証明書を取り出すと、そこには「水野千尋」の名前と、私の知らない女性の顔写真が映っていた。
鏡を探して洗面所に向かう。そこに映ったのは、身分証と同じ女性の顔だった。
「これが…私?」
大きな瞳、整った顔立ち、なだらかな肩のラインに流れる黒髪。かつての鈴木拓也の面影は全くない。完全に別人だ。
病室に戻り、スマートフォンを手に取ると、顔認証が解除された。画面には未読メッセージの通知がいくつか表示されている。「今日はゆっくり休んでね」「無理しないで」といった心配のメッセージ。送信者の名前は全く見覚えがない。
私は深呼吸した。どうやら、自分は本当に女性になって、しかも5年前にタイムスリップしてしまったらしい。記憶の片隅に、睡眠薬を飲みながら「女になりたい」と願った最後の夜の断片がよみがえる。2018年といえば、拓也の世界では自分がシステムエンジニアとして7年目、プロジェクトリーダーになる前の時期だ。
水野千尋という人物については、何も思い出せない。彼女の記憶、人間関係、趣味、性格。すべてが空白だ。私が持っているのは、鈴木拓也としての記憶と経験だけ。それを頼りに、この状況を乗り切らなければならない。
さらに思い巡らせる。もし私が過去の世界に来ているなら、この2018年には「鈴木拓也」も存在しているはずだ。あの頃の自分は、今どこで何をしているのだろう。
---
病院を出た私は、財布に入っていた住所を頼りに「自分の」マンションへと向かった。2018年の街並みを歩きながら、5年前の記憶と照らし合わせる。まだ建設中だった高層ビル、今はもうないチェーン店、懐かしい広告看板。当時話題になっていた映画のポスターが、今は色あせて貼られている。
道を歩きながら、これまでとは違う感覚に戸惑いを覚える。靴のヒールの感触。歩くたびに揺れる髪の毛。そして何より、周囲の視線。
男性たちが私を見る。その視線には明らかな関心がこもっている。拓也だった頃は、こんな風に見られることはなかった。不思議と、嫌な気分ではない。だが、ぎこちなく歩く自分が意識されて恥ずかしくもある。
駅で階段を上る際、小さなスーツケースを持っていた老人がよろめいているのを見かけた。以前なら何の苦労もなく持ち上げられただろうが、今の体では躊躇してしまう。
「お手伝いしましょうか」と声をかけると、別の男性が駆け寄ってきた。
「僕が持ちます」
男性が老人のスーツケースを持ち上げていく様子を見て、力の差を実感した。腕の筋力が明らかに減っている。体格も小さく、重いものを持つのが一苦労だと分かる。
マンションに到着すると、オートロックのドアの前で立ち止まった。財布から取り出したカードキーを使い、ロビーに入る。管理人らしき男性が笑顔で声をかけてきた。
「水野さん、退院おめでとうございます。大丈夫でしたか?」
「あ、はい…ありがとうございます」
私は無理に笑顔を作った。どうやら周囲の人たちは千尋のことをよく知っているようだ。
「実は、少し記憶があいまいで…」と正直に告げると、管理人は驚いた様子で「お部屋は1203号室ですよ」と教えてくれた。
「あの、これまで何か変わったことはありませんでしたか?不審な人とか…」
なぜそんな質問をしたのか自分でも分からなかったが、管理人は少し表情を曇らせた。
「特には…でも安心してください。セキュリティはしっかりしてますから」
エレベーターで12階に上がり、203号室を探す。緊張しながらカードキーをドアにかざすと、電子音と共にロックが解除された。
部屋の中は、拓也のワンルームとは比較にならないほど広く、整然としていた。モダンなインテリア、広いキッチン、そして窓からは街の景色が一望できる。壁には大学の卒業証書が飾られている。水野千尋。東京大学工学部卒業。
「俺より…いや、私の方が学歴がいいのか」
自分が「俺」と言いかけたことに気づき、苦笑する。この体、この生活に慣れるには時間がかかりそうだ。さらに興味深いのは、5年前の時点で千尋は既に高待遇の仕事と広いマンションを持っている。同じ年齢の拓也は、まだ狭いアパートで暮らし、リーダーになる前の苦労を重ねていた時期だ。
部屋を探索しながら、千尋についての手がかりを見つけようとする。リビングのテーブルには手帳があり、そこには明日からの予定が書かれていた。どうやら「フューチャーテック」という会社に勤めているらしい。
冷蔵庫にはワインと野菜が入っており、健康に気を遣う人物であることが窺える。寝室のクローゼットを開くと、ビジネススーツから普段着まで、センスの良い服が整然と並んでいた。
「これ、どうやって着ればいいんだ…」
女性の下着を前に、私は途方に暮れた。拓也としての経験では、女性の下着を外す方法は知っていても、付ける方法は知らない。
バスルームの棚には化粧品が並び、シャンプーやボディソープも明らかに高級品だ。鏡に映る自分の顔を見つめながら、この女性の人生に突然入り込んでしまった現実と向き合う。
書斎には、立派なデスクとパソコンがあった。パスワードが分からないため起動できなかったが、その横に置かれた写真立てに目が留まる。千尋と思われる女性と、同年代の女性たちが写っている。皆笑顔だ。
疲れを感じた私はシャワーを浴びることにした。服を脱ごうとして、ブラのホックに手こずる。何度か試して、ようやく外せた。
裸になり、自分の新しい体を初めてじっくりと観察する。滑らかな肌、整った曲線。かつて男として、この視点から女性の体を見ることを想像していたが、それが自分自身の体であるという現実に、複雑な思いが交錯する。
シャワーを浴びながら、石鹸で体を洗う動作も違和感がある。髪も長く、シャンプーの使用量も多くなる。すべてが新鮮で戸惑うことばかりだ。
シャワーを終え、バスタオルに包まっていると、突然の閃光が頭をよぎった。
_「千尋、その服似合わないわよ。もっと自分に自信を持って」_
母親らしき女性の声。そして若い千尋が鏡の前で不安そうに立っている姿。一瞬の記憶の断片だった。
「これは…千尋の記憶?」
驚きながらも、その記憶は霧のように消えていった。どうやら千尋の記憶が完全に消えたわけではなく、断片的に残っているらしい。
バスタオルを巻いたまま、クローゼットに戻る。女性の服を選ぶ経験がなく、何を着たらいいのか分からない。結局、一番シンプルに見えるTシャツとジーンズを選んだ。下着をつけるのに苦労したが、なんとか身支度を整えた。
スマホを手に取り、改めて中身を確認する。連絡先、メール、写真、すべてが知らない人たちとのやり取りだ。写真には笑顔の千尋と友人らしき女性たちが映っている。SNSのアカウントも見つけた。フォロワーは数千人。投稿された写真には多くの「いいね」がついている。
「こんなに人気があるのか…」
拓也だった頃のSNSでは、フォロワーは数十人程度だった。
好奇心から、自分自身の名前「鈴木拓也」を検索してみる。すると、アカウントが見つかった。プロフィール写真には、疲れた表情のスーツ姿の男性が映っている。自分だ。
「本当に過去に来てるんだ…」
拓也のアカウントをクリックすると、その投稿が表示された。仕事の愚痴や、飲み会の写真など、どれも当時の自分らしい内容だ。最新の投稿は昨日のもので、「また徹夜になりそう。締め切りに間に合うのか…」と書かれていた。
この世界には、もう一人の「自分」がいる。女性になる前の拓也が、今この瞬間も生きている。不思議な感覚だった。
フォロワーリストを見ると、「小林奈々」の名前もあった。元恋人だ。この時期、彼女とはまだ付き合っているはずだ。
夕食時になり、冷蔵庫の中を見てみるが、調理の仕方が分からない。結局、冷凍食品を電子レンジで温めることにした。女性の体は男性よりも食欲が少ないのか、すぐに満腹感を覚えた。
その夜、私はベッドに横たわりながら、明日からの生活について考えていた。過去の世界で、女性として生きていくための戦略を練らなければならない。記憶喪失という設定は、しばらくは言い訳として使えるだろう。
「拓也として生きてきた経験で、女性の特権を味わうことができるのか…」
そう呟きながら、私は眠りについた。
---
翌朝、目覚ましの音で目を覚ました私は、昨日の出来事が夢ではなかったことを再確認する。鏡に映る女性の顔。水野千尋の顔。2018年の朝。
出勤の準備をしようとしたが、すべてに時間がかかる。髪を乾かす、メイクをする、服を選ぶ。これらは拓也だった頃には考えもしなかった作業だ。
ブラウスを着ようとしたが、ボタンをとめる向きが逆で戸惑う。スカートの着方も分からず、何度も失敗した。髪を整えるのも難しい。最終的には、単純なポニーテールにまとめるだけで精一杯だった。
メイクは更に困難だった。化粧台には様々な道具が並んでいるが、何をどう使うか分からない。試しにファンデーションを塗ってみたが、ムラができてしまう。アイシャドウやマスカラは怖くて手をつけられなかった。リップだけ塗って、それでメイクを終えることにした。
「これで大丈夫なのか…」
鏡に映る自分は、明らかに普段の千尋とは違って見える。だが、今はそれしかできない。
さらに困ったのが靴選び。クローゼットにはヒールの高い靴が多い。一番低いヒールのパンプスを選んだが、それでも歩きにくさを感じた。
記憶喪失を言い訳にするしかないと思いながら、家を出る。エレベーターに乗り込むと、同じ階の男性住人と鉢合わせた。
「おはようございます、水野さん」
男性は笑顔で挨拶したが、私の外見に少し驚いた様子も見せた。
「今日は少し雰囲気が違いますね」
「あ、はい…実は昨日から記憶があまり…」
「ええっ、大丈夫ですか?」男性は心配そうに近づいてきた。「何かお手伝いすることはありますか?」
「いえ、大丈夫です、ありがとう」
拓也だった頃には経験したことのない親切さだ。少し気恥ずかしくもある。
マンションを出ると、手帳に書かれた会社の住所を頼りに電車に乗った。通勤ラッシュの中、私は人混みをかき分けて歩く。ヒールのある靴に慣れておらず、何度かよろめきそうになる。
満員電車の中、男性たちの視線を感じた。中には明らかに胸元を見ている人もいる。拓也だった頃には経験したことのない不快感だ。体が小さくなったので、周囲の人の圧迫感も強く感じる。
会社に到着すると、受付で社員証を見せた。すると、警備員が笑顔で挨拶した。
「おはようございます、水野さん。お体の具合はいかがですか?」
「ありがとうございます、まだ少し…」
「無理なさらないでくださいね」
また一つ、女性であることの違いを実感する。拓也だった頃、警備員との会話はほとんどなかった。
オフィスフロアに上がると、同僚たちが次々と声をかけてきた。
「千尋さん、昨日大丈夫だった?」
「あれ、メイク薄いね」
「髪型変えた?」
心配と同時に、いつもと違う外見に気づかれている。私は勇気を出して打ち明けることにした。
「実は…記憶喪失になってしまって。みなさんのこと、あまり覚えていないんです」
周囲からは驚きの声が上がった。すぐに心配の輪ができ、「大丈夫?」「何か必要なことある?」と女性たちが寄ってきた。男性社員も同様に心配してくれる。
「今日は無理しないで」「何かあったら言ってね」という言葉をかけられる。拓也だった頃には考えられない光景だ。男性は体調不良でも、あまり周囲から気遣われることはなかった。
この「記憶喪失」という設定のおかげで、女性としての生活習慣がわからないことを隠せると安堵した。
プロジェクトマネージャーの佐々木さんが近づいてきて、今週の予定を説明してくれた。どうやら千尋はシステムコンサルタントとして、クライアントの要望を聞き取り、最適なシステム設計を提案する役割を担っているようだ。拓也のシステム開発の知識が役立つ場面もあり、基本的な業務説明を受けても理解できることに安心した。
「最初は無理せず、書類の確認だけからでもいいですよ」と佐々木さんは優しく言った。
コーヒーを入れに休憩室に行くと、大きなコーヒーポットが置いてあった。いつもなら軽々と持ち上げていたものだが、今の体では重く感じる。両手を使ってようやく持ち上げることができた。
「お手伝いしましょうか?」
背後から男性社員の声がした。拓也だった頃には、こんな風に手伝いを申し出てくれる人はいなかった。
「ありがとうございます」
彼がコーヒーポットを持ってくれたおかげで、私はカップだけを持って席に戻ることができた。体力の差を実感する瞬間だった。
昼食の時間になると、女性社員のグループが私を囲んだ。
「千尋、一緒にランチ行こう」
自然な誘い。拓也だった頃には珍しかった光景だ。男性同士のランチは、話題が仕事や野球などに限られがちで、あまり深い会話にはならなかった。
レストランでは、女性たちの会話が弾む。記憶がないという私を気遣い、会社のことや千尋自身のことを教えてくれる。
「千尋って、入社3年目だけど、もう主任になってるのよ」
「システム設計が得意で、クライアントからの評判も良くて」
「それに、高橋部長がずっとアプローチしてきてるんだよね」
同僚の一人、菊池美里が小声で最後の情報を教えてくれた。
「え、そうなの?」と驚くと、美里は更に小声で続けた。
「ええ、でも千尋はいつも上手く断ってるわ。でも相手は諦めないから、気をつけてね」
会話を通じて、千尋という人物像が少しずつ見えてくる。優秀で、仕事ができ、外見も良い。そのため男性からのアプローチも多いが、恋愛には慎重な様子だ。
食事中、突然また記憶の断片が脳裏をよぎった。
_「お前みたいな女、二度と現れるなよ」_
_暗い部屋。酒の匂い。恐怖と怒りの感情。_
その直後、別の断片が浮かんだ。
_封筒に入った写真。自分のアパートの前で撮られた千尋の姿。「俺を無視するな」と書かれたメモ。_
一瞬の閃光のような記憶に、私は動揺した。千尋はストーキングされていたのか?
「千尋、大丈夫?顔色悪いよ」
美里の声で我に返る。「ちょっと頭が痛くて…」と誤魔化した。
「そういえば、あの人からまた連絡はない?」美里が心配そうに尋ねる。
「あの人?」
「ほら、前にストーカー規制法で訴えた人…」
その言葉に、先ほどの記憶の断片が確かなものだと確信した。千尋はストーキング被害に遭っていたのだ。
「あ、いえ…覚えてないんです」
「そっか、記憶喪失だもんね。でも、もし何かあったらすぐに言ってね。私たちがついてるから」
美里の言葉に安心しつつも、新たな不安が芽生えた。過去のトラブルが再燃する可能性はないのか。
午後の仕事に戻ると、クライアントとの電話会議があった。記憶がないことを佐々木さんが事前に説明してくれたため、私は主に聞き役に徹することができた。それでも、システム開発の知識を持つ拓也としての経験が活き、いくつかの質問には答えることができた。
「さすが水野さん、記憶がなくても専門知識は残っているんですね」とクライアントに言われ、内心ほっとした。
会議が終わった後、同僚の男性社員、山田が話しかけてきた。
「水野さん、このファイル、倉庫から持ってきてほしいんですが…」
少し重そうなファイルボックスを指して言う彼に、私が手を伸ばした瞬間、
「いや、重いから僕が行きます。場所だけ教えてください」
男性だった頃には、誰も代わりに持ってくれるとは言わなかった。力仕事は自然と男性の役目とされていたのだ。しかし今は違う。私が持とうとしたファイルは、拓也なら軽々と持ち上げられたはずのものだが、千尋の体では重く感じられた。
帰り際、オフィスを出ようとすると、早くも日が暮れていることに気が付いた。5月の夕暮れは思ったより早い。
「千尋、一人で帰るの?」
美里が心配そうに声をかけてくる。
「ええ、大丈夫よ」
「気をつけてね。この間、このあたりで痴漢があったらしいから」
その言葉に、はっとする。女性ならではの心配事だ。拓也だった頃には考えもしなかった危険。しかし、それ以上に印象的だったのは、女性同士の気遣いの自然さだった。
駅に向かう途中、雨が降り始めた。傘を持っていなかった私は、コンビニに駆け込もうとした。すると、背後から声がかかる。
「よかったら、一緒にどうですか?」
振り返ると、見知らぬスーツ姿の男性が傘を差し出していた。
「あ、ありがとうございます」
一瞬の警戒心と、親切への感謝が入り混じる。男性は紳士的に傘を私の方に傾け、駅まで一緒に歩いてくれた。駅に着くと、名刺を差し出してきた。
「もしよければ、今度お茶でも」
拓也だった頃には決してなかった展開。自分から話しかけなくても、相手から興味を持ってくれる。女性であることの「特権」の一つだろうか。
「すみません、今は…」
なんとか柔らかく断る言葉を見つけた。
電車に乗り込み、座席に腰掛けると、スマホを取り出す。SNSをチェックすると、千尋のアカウントには拓也の何倍もフォロワーがいた。投稿した写真には数百の「いいね」がつき、見知らぬ男性からのメッセージもいくつか届いている。
「これも女性の特権か…」
再び拓也のアカウントをチェックしてみる。今日も「納期に追われる日々」という投稿をしていた。この世界の拓也は、今この瞬間も苦労している。そして、そのすぐ近くに、女性になった「別の拓也」である私がいる。不思議な感覚だった。
家に帰り着くと、私は疲れた体をソファに預けた。今日一日で、拓也だった頃に抱いていた「女性は楽だ」という思いが、ある意味で確認された気がした。
声をかけてもらいやすい。
親切にされる機会が多い。
助けてもらえる。
感情を共有し合える仲間がいる。
外見で好印象を与えやすい。
どれも、男性の拓也が羨んでいた「特権」だ。会社での対応は、拓也だった頃とは明らかに違った。みんなが気にかけてくれる。荷物を持ってくれる。質問に丁寧に答えてくれる。
しかし同時に、新たな困難も見えてきた。
女性としての身だしなみの大変さ。
思うように力が入らない体の弱さ。
常に見られる対象であることの緊張感。
夜道の不安。
そして、閃光のように現れた千尋のトラウマめいた記憶——ストーキングの恐怖。
スマホをチェックすると、未読メッセージが増えていた。同僚たちからの心配メッセージだ。拓也だった頃には、仕事を休んでも連絡してくる人はほとんどいなかった。
キッチンで夕食の準備をしながら、また断片的な記憶がよみがえった。
_玄関のドアの下に差し込まれた封筒。中には自分の写真。背後から撮られたもの。「振り向けよ」と書かれたメモ。_
震える手で冷蔵庫を開けながら、もし本当にストーキングされていたとすれば、その人物はまだどこかにいるのだろうかと考えた。美里の言葉から、法的措置を取ったようだが、それで完全に解決したのだろうか。
リビングに戻り、部屋を見回す。いかにも女性らしい洗練された空間だが、窓のカーテンは分厚く、玄関ドアには複数の鍵が付いている。内側からも確認できるドアスコープもある。セキュリティを強化した形跡が見受けられる。
食事を終え、洗い物をしていると、ポストに何か入る音がした。時刻は夜9時過ぎ。こんな時間に郵便が届くことはないはずだ。
緊張しながら玄関に向かう。ドアスコープから外を覗くと、廊下には誰もいない。ドアを慎重に開け、ポストを確認すると、白い封筒が一通入っていた。
封筒には名前も住所も書かれていない。恐る恐る開けると、中には一枚の写真。それは今日、会社を出る私の姿を撮ったものだった。写真の裏には手書きで「記憶が戻った?」と書かれている。
血の気が引いた。誰だ?誰が私を監視している?
玄関ドアを閉め、全ての鍵をかけ直す。カーテンも閉め切り、部屋の明かりをすべて点けた。恐怖で体が震える。拓也だった頃には感じたことのない恐怖だ。
警察に連絡すべきか考えたが、記憶喪失のために状況を説明できない。誰に助けを求めればいいのか分からず、結局、美里に電話することにした。
「もしもし、千尋?どうしたの、こんな時間に」
「あの…ごめんなさい。でも…写真が届いたの」
「写真?まさか、あの人から?」
「多分…今日の私の写真で、『記憶が戻った?』って書いてあって…」
美里の声色が変わった。「すぐに行くから。ドアは絶対に開けないで。警察にも連絡しておくわ」
30分後、美里と警察官が到着した。警察官は写真を証拠品として回収し、状況を詳しく聞いた。美里が補足説明をしてくれた。
「彼女は一昨日、記憶喪失になったんです。以前のストーキング事件のことも覚えていないんです」
警察官は理解を示し、「接近禁止命令が出ているので、これは明らかな違反です。パトロールを強化します」と言ってくれた。
警察官が帰った後、美里は私の部屋に泊まることを提案してくれた。「一人はやめなさい。今夜は私がいるから」
ベッドを美里に譲り、私はリビングのソファで横になった。眠れないまま、天井を見つめる。女性として生きるということは、こんな恐怖とも隣り合わせなのか。拓也だった頃には、夜道を一人で歩くことに恐怖はなかった。家に帰れば安全だった。しかし今は違う。家の中にさえ、恐怖が侵入してくる。
そして、もう一つの疑問が浮かんだ。なぜ犯人は「記憶が戻った?」と書いたのか。まるで私の記憶喪失を知っているかのような問いかけだ。一体誰が?
翌朝、美里が出勤前に声をかけてきた。
「千尋、今日は休みなさい。私から会社に連絡しておくから」
「ありがとう、でも大丈夫。一人でいるより、会社の方が安心だわ」
自分でも驚くほど自然な返答が出てきた。徐々に女性としての話し方にも慣れてきているようだ。
会社に着くと、昨日よりも一層の心配と気遣いを受けた。ストーキングの件は美里から他の同僚にも伝わったようで、みんなが私を守るように行動してくれる。
「帰りは送るよ」「休み時間も一緒にいるから」
拓也だった頃には想像もできなかった配慮だ。男性社員の山田さんも「僕も手伝えることがあれば」と言ってくれた。
ランチタイムに美里が私を連れ出した。
「実は、あのストーカーのことをもう少し説明するわ」
カフェの隅の席に座り、美里は話し始めた。
「あの人の名前は吉田健一。千尋が入社一年目の時に担当したクライアント企業の社員よ。プロジェクト終了後も千尋に執着して、連絡を取ろうとしたの。最初は断っても聞かなくて、それからエスカレートして写真を送ってきたり、家までつけてきたりするようになった」
私は黙って聞いていた。吉田健一。その名前に見覚えはない。
「昨年、正式に警察に被害届を出して、接近禁止命令が出たの。それから半年以上、何もなかったから安心してたのに…」
「なぜ私に執着したのか、分かる?」
美里は少し考えて答えた。「彼は『俺を拒絶したのはお前だけだ』と言ってたらしいわ。自意識過剰なナルシストなのよ。千尋のような美人に振られたプライドが許せなかったんじゃないかしら」
美里の言葉に、拓也だった頃の記憶が重なった。自分を振った奈々への思い。女性への羨望と妬み。もし自分が行き過ぎていたら…と考えると、ぞっとした。
午後の仕事中、突然、社内の電話が鳴った。受話器を取ると、男性の声が聞こえた。
「記憶は戻った?水野さん」
血の気が引いた。どうして社内の電話番号を?
「誰…ですか?」
「忘れたフリをしても無駄だよ。俺のことを、覚えていないわけがない」
恐怖で受話器を落としそうになる。周囲の同僚が私の異変に気づき、すぐに佐々木さんが駆けつけてきた。
「どうしました?」
電話を佐々木さんに渡すと、相手はすでに切れていた。状況を説明すると、すぐに警備室に連絡が入れられ、来訪者のチェックが厳しくなった。
その日の帰り道、会社の男性社員数人が私を家まで送ってくれた。拓也だった頃には想像もできなかった厚遇だ。しかし、それは「守られなければならない弱者」としての扱いでもある。女性の「特権」の裏側に潜む現実。
部屋に入ると、留守電が点滅していた。恐る恐る再生すると、同じ男の声。
「いつまで逃げるつもり?俺たちの関係を忘れたフリしても無駄だよ。お前は俺のものだ」
全身が震えた。「関係」?そんなものはないはずだ。千尋の記憶があれば何か分かるのだろうか。
その夜、恐怖で眠れないまま、私はPCを起動しようとした。しかし、パスワードが分からない。スマホのメモを確認すると、「誕生日+お気に入りの映画」というヒントを見つけた。身分証から誕生日を確認し、部屋を探索すると、DVDラックに一本だけ特別に飾られた映画を発見。それを手掛かりにいくつか試し、ようやくログインに成功した。
メールを遡ると、吉田健一からの過去のメッセージが見つかった。最初は仕事の相談から始まり、徐々に個人的な内容になっていく。最終的には一方的な愛の告白と、拒否されたことへの怒りに満ちたメッセージ。証拠として保存されていたようだ。
さらに検索すると、警察とのやり取りや、法的措置に関する書類も出てきた。確かに接近禁止命令は出ているらしい。
疲れと恐怖で目を閉じると、またしても記憶の断片が浮かんだ。
_オフィスの会議室。プロジェクト終了の打ち上げ。吉田と名乗る男性が近づいてくる。「水野さん、個人的にもお付き合いしませんか?」と誘われる場面。丁寧に断る自分。「理由は?」と食い下がる男性。「すみません、興味がありません」と答える自分。次第に険しくなる男性の表情。_
目を開け、深呼吸する。千尋の記憶が、断片的ながら戻ってきている。この男性は、単純な拒絶を受け入れられないタイプのようだ。
その夜、友人の美里が交代で泊まりに来てくれ、翌日も警戒は続いた。警察も定期的にパトロールしてくれる。
三日目の朝、玄関のドア前に、小さな箱が置かれていた。警察に連絡し、不審物として調べてもらうと、中には一輪の花と、手書きのメモが入っていた。
「記憶がなくても、俺たちの絆は消えない」
吉田健一は警察に連行され、接近禁止命令違反で拘留された。しかし、釈放される可能性もあるという。
その週末、美里が私の部屋で一緒に過ごしてくれることになった。
「ねえ、千尋。記憶がまだ戻らないなら、しばらく実家に帰った方がいいんじゃない?ご両親も心配してるって」
「実家?」
「ええ、千葉の。お父さんとお母さん、すごく心配してたわ」
千尋の家族のことは全く情報がなかった。「そうね、考えてみる」と答えた。
テレビを見ながら寛いでいると、美里がふと言った。
「最近、鈴木くんから連絡ない?」
「鈴木…くん?」思わず声が上ずる。
「ほら、千尋が密かに気になってるって言ってた人。同じビルの別の会社のSE」
鈴木?もしかして…拓也のこと?
「あ、ごめん。記憶ないんだったね」美里は笑った。「千尋ったら、いつも『あの人は忙しそう』って言いながら、エレベーターホールでばったり会うのを楽しみにしてたのよ」
私の心臓が早鐘を打った。この世界の千尋は、拓也に好意を持っていたのか?そして、それは私自身なのだ。
女になって見る「拓也」は、どんな存在なのだろう。そして、この恐怖と不安の中で、女性として生きるということはどういうことなのか。「特権」と思っていたものの真実に、少しずつ気づき始めていた。
窓の外に広がる2018年の夜景を見つめながら、私は考えた。「女性は楽だ」という拓也の思い込みは、表面的なものに過ぎなかったのかもしれない。女性としての「特権」の裏には、こんな恐怖や制約が隠れていたのだ。
そして、この世界のどこかで、まだ知らない「本当の拓也」が生きている。彼と出会ったとき、私は何を感じるのだろうか。
新しい疑問を抱きながら、私は眠りについた。