# 第1章:「願いの前夜 女になりたい」
# 第1章:「願いの前夜 女になりたい」
モニターの青白い光が瞳に突き刺さる。鈴木拓也は眼鏡を外し、疲れた目をこすった。オフィスフロアに残っているのは彼だけだ。今、時計は午前二時半を指している。三時間ほど前に、今年の新入りである女性社員が終電があるので先に帰るという一言が彼が最後に聞いた言葉である。
「あと少しで終わる…」
そう呟いてから何度目だろう。徹夜作業が続く日々に、鈴木拓也の体は悲鳴を上げていた。システムエンジニアとして十年、ようやくプロジェクトリーダーを任されたのに、自分の評価を上げるはずのこのチャンスが、今や彼の健康と精神を蝕んでいた。
「佐々木さん、またここ間違えているよ....」
誰かのミスを自分が修正する。ストレスでキーボードを打つ指が震える。締め切りまであと二日。クライアントの追加要望に対応するため、毎晩のように深夜残業が続いていた。拓也はデスクの引き出しから小さな栄養剤を取り出した。乱れた食生活で不足する栄養素を手早く摂取するために。本来は一日四錠だが、何の医学的根拠もなく、一日六錠摂取していた。
「また増やすか…」
罪悪感を覚えながらも、拓也は更に二錠を手のひらに転がした。あとは乗り切るだけだと自分に言い聞かせ、一時間ほど仕事を続け、本日のゴールまで仕事をやり遂げる。疲れのせいだろうか、最近は人に対してイライラする。早く布団に入りたい。
拓也は鞄に荷物を詰め込み、エレベーターへと早々に向かい、地下駐車場へ到着する。真夜中のオフィスビルは不気味なほど静かだった。自慢の愛車のエンジンをかけ、その静けさにエンジンの音が響き渡るが、他の音は何も聞こえず、私が世界で一人であるような孤独感に包まれる。
車を発進させようとしたとき、スマートフォンの通知音が鳴った。LINE通知。差出人は元恋人の小林奈々だった。
『深夜にごめんね。最近子供が生まれたばかりで日中も夜も忙しくて返信が遅くなっちゃった。元気?』
拓也はスマホを握りしめた。奈々とは三年前に別れているが、未だに彼女のことが忘れられないでいる。私は奈々との結婚も視野にいれ、精一杯収入を上げる努力をしてきたが、「もっと自分を大切にしてほしい」や「もっと自分の気持ちを表現して欲しい」と彼女に言われ、自分が抱える葛藤を彼女には理解してもらえずに破局してしまった。今や奈々は結婚し、子供もいる。
「あの時と同じで...元気なんてあるわけないだろ....こっちは昇進がかかってんだよ....」
返信をしようとして、拓也は指を止めた。深夜二時半に突然連絡してくる元恋人。おそらく子育てで忙しいのだろうが、暇になった自分の都合のいいタイミングで返信しているだろう。現に返信に3日以上かかっている....自分の存在など都合のいい、暇になったら返信を返そうという相手でしかない。そう解釈してしまうと返信をする気がなくなった。
「女はいいよな。都合のいいときだけ男を使える」
スマホをポケットに滑り込ませ、返事をせず、車を走らせ、自宅へ帰宅した。拓也は自宅に帰ると、シャワー、歯磨きを最短で済ませ、布団に入る前に睡眠薬を摂取する。1年ほど前から不眠症を患っており、最近は指定量では危機が悪く、睡眠薬の摂取量が増えている。
「今日も多めに飲むか....」
そういうと、彼はいつもより多く睡眠薬を摂取し、布団に入った。
翌日 ---
「鈴木さん、顔色悪いですよ」
昼休み、休憩室でコーヒーを入れていると、総務部の鈴木早織が心配そうに声をかけてきた。鈴木さんは三十五歳で幸せそうな家庭を築き、彼女は拓也の中で「楽をしている女性」の象徴だった。旦那は個人事業主で飲食店を経営しており、事業は好調。お金も時間も持て余しているのだろうと心底思う。今日は子供のお迎えがあるからと、鈴木さんは毎日定時で帰る。残された仕事は男性社員が引き継ぐことになる。
「大丈夫です。少し寝不足なだけで」
「無理しないでくださいね。私はこれから子供が迎えがあるので、今日も失礼します」
彼女は申し訳なさそうに微笑んで去っていった。鈴木さんには選択肢がある。「母親だから」という理由で、定時前に帰れる自由がある。一方で拓也のような男性社員には、そんな選択肢はない。「男だから」という言葉で、どれだけの残業も当然とされる。
コーヒーを手に会議室に向かう途中、廊下でプロジェクトメンバーの”佐々木麻衣”とすれ違った。佐々木さんは、仕事はそこそこできるが、体が弱く、頻繁に体調不良を訴えて早退する。彼女を、拓也は内心「弱い女性」として軽視していた。
「佐々木さん、今日の進捗報告、終わりました?」
「すみません…昨日から体調が優れなくて…」
佐々木さんは苦しそうに腹に手を当てる。また同じ言い訳か。拓也は冷ややかに彼女を見た。
「締め切りは変わりませんから。他のメンバーにも迷惑がかかります」
佐々木さんの目に涙が浮かんだ。すると周囲にいた社員たちの視線が一斉に拓也に向けられた。まるで彼が悪者であるかのように。女性が涙を見せれば、それだけで周囲の空気が一変する。男にはない特権だ。
「わかりました…頑張ります」
佐々木は小さく頷いて、女性トイレへと向かった。彼女の後ろ姿を見送りながら、拓也は苦い思いを噛みしめた。
「女はいいよな...」
午後の会議室。クライアントへのプレゼンテーション準備のための最終チェックが行われていた。
「このスライド、誰が担当する?」山本部長が尋ねる。
「鈴木さんではどうですか?一番内容を把握していますし」プロジェクトメンバーの田村健太が提案した。
拓也は頷いた。このプレゼンのために徹夜して資料を作り込んだのだ。当然、説明役も務めるべきだろう。
「いや、佐藤さんにお願いしようか」
山本部長の言葉に、拓也は目を見開いた。佐藤美咲は入社二年目。技術的な理解はまだ浅い。なぜ彼女なのか。
「佐藤さんは印象がいいし、クライアントに好評だよ」部長は笑みを浮かべて言った。「見た目も大事なんだ」
会議室に微妙な空気が流れた。田村が拓也に同情のまなざしを向ける。佐藤は少し困ったように微笑んだが、断る様子はない。
「彼女は容姿で評価されていて、俺は徹夜作業しても結果がなければ評価されない」
拓也の内心の呟きが、彼の顔に表れていたのだろう。山本部長は眉をひそめた。
「鈴木君、なにか問題でも?」
「いいえ、佐藤さんが適任だと思います」
自分の本音を飲み込み、拓也は無表情を装った。
夕方、拓也はオフィスの窓から外を見ていた。雨が降り始めている。その姿は彼の心情と同じく陰鬱だった。
「鈴木さん、大丈夫?」
声をかけてきたのは同期の田村健太だった。数少ない理解者である彼に、拓也は小さく頷いた。
「ああ、大丈夫」
「あの件、納得いかないよな。佐藤さんは悪くないけど、君の功績なのに」
「慣れてるよ」拓也は苦笑した。「男はそういう扱いさ」
田村はコーヒーを差し出した。「昨日の合コン、来なかったな。女の子何人かいたのに」
「悪い。仕事が…」
「そうか」田村は少し残念そうだった。「そろそろ彼女作らないとな。もう三十二だぞ」
その言葉が胸に刺さる。拓也の交際経験は少なく、奈々との別れ以降、誰とも付き合っていなかった。
「女性と親密になるのって、難しいよな」拓也はぽつりと言った。
「それは男だからだよ」田村が笑う。「僕ら男は、仕事と同じで、常に先手を打たなきゃいけないんだから」
そうだ、と拓也は思った。男は常に「攻める側」でなければならない。女性のように受け身で居ることが許されない。そして、その役割を果たせない男は、「男として失格」のレッテルを貼られる。
田村が去った後、拓也はスマホを取り出し、SNSをチェックした。同期の男性はみな似たような投稿をしている。仕事の成果や趣味の話題。一方、女性社員たちの投稿はカラフルで、「いいね」の数も桁違いだ。特に、中村由美の投稿が目に留まった。
『最高のディナー✨主人に感謝❤』
おしゃれなレストランで微笑む由美と、その隣に座る夫・康平。拓也の目には、この夫婦は完璧に幸せに見えた。男は外で働き、女性は彼の功績を享受する。男たちが築いた世界の恩恵を受けながら、なお「女性は不平等だ」と主張する女性たちへの憤りが、拓也の胸に膨れ上がった。
深夜のオフィス。またしても拓也一人が残っていた。
「佐藤さん、明日のプレゼン、問題ないですか?」
帰り際に彼女に確認すると、佐藤は申し訳なさそうに微笑んだ。
「実は、少し自信がなくて…資料の内容が専門的すぎて」
「説明しますから、メモしてください」
時間かけて、拓也は佐藤にプレゼンの要点を解説した。本来なら彼自身がするはずだったプレゼンの準備を、容姿で選ばれた女性のために行っている皮肉な状況に、拓也は内心で嘲笑した。
佐藤が帰った後、拓也はデスクに頭を預けた。疲労と不眠に耐えられなくなっていた。ふと、向かいのデスクを見ると、そこにはプロジェクトメンバーでもある佐々木麻衣の私物が置かれていた。
佐々木のデスクには、薬の袋が見える。好奇心に駆られ、拓也は近づいた。「子宮内膜症治療薬」というラベルが貼られている。拓也は一瞬ためらい、袋の中を覗き込んだ。医師の診断書も同封されていた。
「本物の病気…だったのか」
罪悪感が胸をよぎる。彼女の体調不良を「女の甘え」だと思い込んでいた自分を恥じた。しかし、すぐにその感情は別の思いに覆われた。
「でも、女だからこそ同情されて、休みも取れる」
拓也なら、同じ程度の痛みがあっても「男なのだから」と耐えるよう期待されるだろう。それが男の宿命なのだ。
翌日のプレゼンは成功した。佐藤のプレゼンテーションスキルと、彼女の外見による好印象がクライアントの心を掴んだ。
「素晴らしい提案ですね。採用させていただきます」
クライアントの代表が笑顔で言った。会議室に拍手が湧き、佐藤は照れくさそうに頭を下げた。
「佐藤さん、さすがだね」山本部長が彼女の肩を叩き、手を置く。「これで一気に評価が上がるよ」
拓也はその光景を冷ややかに見つめていた。徹夜で作った資料、佐藤にした懇切丁寧な説明。その全ての功績が彼女のものになる。そして、彼女は何の罪悪感もなくそれを受け入れる。
「打ち上げやろう!」
山本部長の声に、チームメンバーたちが歓声を上げた。拓也も断る理由はなかった。心の中では祝杯を上げる気分ではなかったが、これがビジネスの世界の掟だ。表向きはチームの成功を素直に喜ぶべきなのだろう。
「いろり」という居酒屋の個室。メンバーたちのグラスがビールで満たされていく。
「今回は佐藤さんのおかげだね」田村が言った。
「いえ、皆さんの支えがあったからです」佐藤は丁寧に答えた。「特に鈴木さんには、資料作成から説明まで、本当にお世話になりました」
その言葉に、拓也は複雑な思いを抱いた。彼女に悪意はない。システムとしての不公平に、彼女自身も気づいていないのだ。
「鈴木君、あまり飲まないのか?」山本部長が尋ねた。
「いえ…」拓也はグラスを傾け、一気に飲み干した。
酒が進むにつれ、拓也の心の堰が少しずつ崩れていった。
疲労と酒、もしかしたら普段から飲んでいる睡眠薬の影響で、思考が鈍っていく気がする。
お酒には強い自信があった拓也は、別の要因を探す。
「鈴木さん、もう十分飲んだんじゃない?」佐藤が心配そうに言った。
「大丈夫だよ」拓也は五杯目の焼酎を手に取った。「男なんだから」
「それって、どういう意味ですか?」佐藤が困惑した表情で問いかけた。
酔いが回った頭で、拓也は言葉を選ばず口にした。
「女性は楽でいいよね。ミスしても『まだ若いから』って許されて。体調が悪いと言えば誰も責めないし、見た目がよければ評価されて…」
周囲の空気が一変した。佐藤が目を見開き、山本部長が眉をひそめる。
「鈴木君、君は何を言っているんだ」部長の声には怒りが含まれていた。
「本当のことを言ってるだけです」拓也の声が大きくなる。「男は責任だけ押し付けられて、成果は女に持っていかれる。『家族を養え』『強くあれ』って言われ続けて…なのに『男は特権階級』だなんて…笑わせる」
沈黙が下りた。佐藤が席を立ち、トイレに向かった。他の女性社員たちも一人、また一人と離れていく。
「鈴木、明日、私の部屋に来なさい」山本部長が低い声で言った。「君の態度は問題だ」
拓也は黙って頷いた。周囲の視線が冷たい。最後に残ったのは田村だけだった。
「お前、大丈夫か?」田村が心配そうに尋ねた。「疲れてるんじゃないのか?」
「別に…」
「帰るぞ、俺が送る」
田村に促され、拓也は席を立った。頭がぐらぐらと揺れる。もう何も考えたくなかった。
田村の車で自宅マンションまで送ってもらい、拓也は玄関先で深く頭を下げた。
「悪い、迷惑かけて」
「気にするな、きっとストレスも溜まってるんだろ...」田村は肩をポンと叩いた。「でも、明日は部長に謝っておけよ。女性蔑視だと思われたら、今時マズいからな」
「女性蔑視…?」拓也は苦笑した。「女性を妬んでるだけだよ。楽そうで、羨ましいんだ」
「バカ言うな」田村は真剣な表情になった。「女にだって大変なことはある。俺たちには見えてないだけだ」
「例えば?」
「俺の妹、電車で痴漢にあって、駅員に相談したら『証拠がない』って突き返されたらしい。女として生きるのも、案外大変なんだよ」
拓也は黙り込んだ。田村が去った後、部屋に入り、ベッドに倒れ込む。頭痛がひどい。手探りで睡眠薬を探した。あと何錠残っているのだろう。
スマートフォンの通知音が鳴った。画面を見ると、また奈々からのメッセージだった。
『ごめん、忙しかったよね。また落ち着いたらいつでも連絡してね?』
拓也は適当に返信した。『俺は普通。忙しいならそっちこそ大丈夫。幸せにな』
すぐに返事が来た。『大丈夫って?幸せって難しいね。夫は全然家事しないし、私の話も聞いてくれないよ(笑)』
拓也は画面を凝視した。女の幸せが難しい?男にとっての幸せはもっと遠い。彼女は選択肢があったのに、自分は…。
水を飲まずに睡眠薬を三錠飲み込んだ。部屋の天井がぐるぐると回る。もう何も考えたくない。
スマホでSNSを開くと、中村由美の投稿に新しいコメントがあった。彼女の姉からの返信だ。
『大丈夫?昨日の傷、まだ痛む?いつでも実家に帰っておいで』
傷?拓也は疑問に思った。完璧な結婚生活を送っていると思っていた由美に、いったい何があったのか。
画面が徐々にぼやけていく。睡眠薬が効き始めた。拓也はスマホに映る女性インフルエンサーの笑顔を見つめた。
「女になれたら…どんなに楽だろう…」
瞼が重くなる。意識が遠のいていく。
「女に…なりたい…」
まるで、神様に祈るようにつぶやき。
私は頭を打つようにして倒れてしまった。
ふと、目が覚めると私は病院のベットで寝ていた。
窓が開いており、そよ風が入り込んできており、白いカーテンが揺らぐ。
「俺、倒れてしまったのか...誰かいないのか」と声にならない声を発する。
その時、自分の声が甲高いことに気が付く。
「え?」自分の知らない声質に驚き、ふと手先を見るとそこには、白く、細く、キレな手があった。
--- 現代転生 序章 女になりたい END ---