ファンタジー
少年は、わずかにまだ動く指先をたどたどしく使って、1つずつ文字を打ち込んでいた。
早すぎる13年という年で、人生の晩年を迎えようとしている。
書いているのはファンタジー。
そう。
少年にとってはファンタジー。
サッカー選手を夢見てグラウンドを駆け回る。
eスポーツ大会を目指してゲームに熱中する。
仲間とバンドを組んで、いつかメジャーデビューを目指す。
同世代の少年少女を登場人物にした架空のお話。
もちろん、魔法やドラゴンの出てくる本物のファンタジーもある。
短いお話ではあるけれど、1文字1文字、大切に打ち込んでいった。
少年は、歩むことのできなかった「人生」の別の可能性を、文字の中に、想像の中に生きようとしたのかもしれない。
8歳で発症した難病に命を削られ続ける少年にとって、こうしたあらゆるお話は決して現実になることのないファンタジーだ。
「どうして僕はこんな病気なの? どうして治せる薬がないの?」
15歳まで生きられないだろう——と宣告されたとき、少年は泣きながら両親に訴えたものだった。
数の極端に少ない難病の治療薬を開発しようとする製薬メーカーは少ない。開発に成功したとしても利益が出ないことが分かりきっているから、投資がされないのだ。
そんな大人の事情も、少年は11歳で知ってしまった。
その頃からだった。
少年がお話を書き始めたのは——。
母親と相談して、少年はそれを『小説家になろう』という大それた名前のサイトに投稿することにした。
もちろん「小説家」になんてなれるはずもない。
そんな将来があるはずもないことはわかっている。
少年よりもずっと上手な人が、いっぱいいる。
何万という投稿の中に、短く拙い少年の物語は埋もれていくだけだ。
それでも、物語を書くことは楽しかった。
生きている、という実感があった。
母親は毎日、パソコンの画面でその日の訪問者数や「いいね」ボタンの数を見せてくれた。
時々、感想がもらえるのも嬉しかった。
物語を書いている間だけ、少年は自由だった。
想像の翼を広げ、行ったことのない国に行き、見たことのない風景を見る。
会ったことのない友達とふざけ合い、空を飛んで冒険する。
大丈夫。
僕は今、ちゃんと生きている。
病気のことは隠して、何人かの「仲間」もできた。
返信や会話は、打ち込むのが遅いから短くて時間もかかる。
お付き合いできる仲間は自然、数が限られていた。
それでも、少年に笑顔が増えたことが、両親には嬉しかった。
「ぼく・・・本当のお話を書こうと思う・・・。」
ある日、まだわずかに出る声をふりしぼるようにして、少年は母親に言った。
「空想じゃなくて・・・ぼくの、本当のことを・・・。」
13年という短い人生の中の本当の気持ちを、自分が確かに生きた証を、文字に残しておきたいのだと言う。
わずか13の少年が考えることだろうか?
両親は少年の書いた全ての物語と共に、それを本にすることを決心した。
デジタルデータでは、いつか消えてしまうかもしれない。
紙の本なら、紙が残り続ける限り残る。
この子が、確かに生きたという証が・・・。
それはいつか、誰かの心に灯をともすかもしれない。
もちろん、出版社などが相手にしてくれるはずはないから自費出版である。
治療費がかかるので予算は出せないから、最も安くできる形の本にした。
ハードカバーもない、B6サイズの本だ。
カラーも使わない。だから、表紙も白い。
イラストは自費出版の会社が勧めてくれたイラストレーターを使わず、少年がまだ手を動かせたころに描いた線画を使うことにした。
タイトルは、シンプルに『ファンタジー』。
その本が出来てきた頃、少年が動かせるのはもう目だけになっていた。
視線で反応するキーボードを使って、それでも少年は新しい物語を書き始めていた。
両親が出来上がったその白い本を見せると、少年は目だけで嬉しそうに笑った。
手を動かせない少年の代わりに、母親はそれをそっと少年の胸の上に置いた。
人工呼吸器に動かされた少年の胸の上で、その小さな白い本は静かに上下した。
* * * *
支持率は逆転していた。
この国に、史上初の女性大統領が誕生するのは確実だろう。
投票日前の最後の演説会場に現れた彼女は、集まった聴衆を前に、いつもとは少し違う出だしで演説を始めた。
「明日は投票日です! 今日は、私がなぜ政治家を志したのか、その原点からお話しましょう!」
そう言って彼女は1冊の本を高々と掲げて見せた。
飾り気のない白い小さなその本の表紙には、子どもが描いたようなイラストとシンプルなタイトルだけが印刷されていた。
『ファンタジー』
了
朝早くに目覚めてしまったら、夜明け前の薄明の中でいきなり降ってきたお話です。
2時間で一気に書き上げました。