プロローグ(2)
当然ではあるが叫ぶだけでは何も状況は変わらない。
鶴城の湊への叫びは喧騒の中に呑み込まれ、無情にも電車の扉が閉まって友人との別離を明確にする。
乗り遅れた人々が扉を叩く音も響いていたが、結果は変わらないだろう。
非常時においては多数を優先することが徹底されているし、その時点で電車の扉も素手では開けられないように設定が変更されているはずだ。
「ちくしょう」
何を思って湊がウィズになるために命を懸けたのか鶴城はわからない。わかるのは後数秒と経たないうちに自分を乗せた電車は友人を死地に置き去りにするだろうということだけだった。
「…………?」
だがしばらくして鶴城は電車内の喧騒が戸惑いと悲鳴に変わっていることに気づく。
そしてその理由にもすぐにわかった…………電車が動いていない。とっくに発射していいはずの電車は静かに止まったままだ。
しかも扉はロックされたままなのか、外から乗客が必死で扉を開けようとする音だけが相変わらず聞こえている。
「なんだよ、それ」
仮に湊を電車に乗せていたら二人まとめて確実な死が待っていた。それを湊が鶴城を助けようと彼だけを電車に乗せたせいで、皮肉にも鶴城にだけ確実な死が訪れる結果となった。
とはいえ別に湊を逆恨みするような感情が浮かんだわけはない…………ただ、もし湊が生き残ったとしても彼に重荷を背負わせることになったのを鶴城は悔やんだ。
「うっ」
そしてその後悔をしている時間もあまりなかった…………ぐらりと視界が揺れる。しかし揺れているのはそこに映る世界そのものだった。先ほどまではしっかりと鶴城の身体を受け止めていた電車の床も、今は濡れた粘土のようにぐにゃりと彼の靴を沈め始めていた。
現実濃度が低下するに従ってあらゆるものはその形を失い始める。床も壁も、電車全体もその中にいる乗客すらも…………それに気づいて悲鳴があがったのもほんの僅かな時間だった。悲鳴をあげる喉すらもすぐに溶けて電車内は静かになっていく。
「あ、あ、あ…………」
鶴城も声がうまく出せなかった。自分がどうなっているのかももうわからない。
ぎゅうぎゅう詰めだったはずの室内は彼が両手を広げられるくらいになってしまい、その両手はよくわからない粘液に塗れている…………それが乗客の誰かが溶けた物なのか、それとも自分の手が溶けているのか鶴城にはもうわからなかった。
「ううう、あああああ」
気が付けば電車は既に存在していなかった。どこまでが電車で、どこからが駅のホームだったのか見分けは付かない。そこにあった何もかもが溶けて混ざりあい、その場の全てを満たすように広がっている…………そのどこかに湊も混じり合っているのだろうか。
地獄があるならここのことだろうと鶴城は思う。もう自分の身体が残っているのか、それとも溶けてしまって意識だけがここにあるのかもわからなかった。
「い、嫌…………だ」
目の前の現実を否定する。こんな風に死ぬのは嫌だった。ほんの少し前までは自分は日常の中にいたはずだったのだ。
例えそれが楔による仮初の箱庭だったとしても鶴城にとっては確かに平穏な毎日だったのだ…………あの日常に戻りたいと心底願う。
「助、けて」
だけど鶴城には力がなく、できるのは祈ることだけだった。この世界に神なんていないと湊といつか話したことを思い出す。
その時は神様がいるなら世界はこんな風になってないとその存在を否定した…………けれど今は存在していてくれと切に願う。こんな状況に救いを与えられる存在なんて他に思い浮かばなかったから。
「はい、わかりました」
もちろん、そんな返事があるとは思っていなかった。
「え?」
鶴城はぽかんとその声の主に視線を向ける。いつの間にか彼の目の前には見知らぬ少女が立っていた。透き通った長い銀髪、琥珀のような瞳、真っ白な肌に怖いくらいに均整の取れた容姿。
およそこの世のものとは思えないような美少女がそこにいた…………裸体で。
「って、裸!?」
透き通るようなその肢体に思わず目を奪われそうになるが、最大限の自制を働かせて何とか視線を横に逸らす…………それでようやく気付いた。
床がある。それどころか周囲の光景は何ごともなかったように元通りになっていた。
一つだけ違う点挙げるなら、鶴城がいるのがいつの間にか電車の中ではなく駅のホームになっていることくらいだろうか。けれどあの何もかもが溶けて流動的になっていた状況なら流されていてもおかしくはない。
「あー、もう、なにがどうなってるんだ!?」
わからないことだらけだ。
「鶴城が助けを求めたので私が生まれて全部元通りにしました」
それに裸の少女がつらつらと答える。
「うん、それでもやっぱりわからない!」
なぜ鶴城が助けを求めて裸の少女が生まれるのか。
「というか君は何? なんで裸!」
「生まれたてだから、ですよ?」
「いやそれは赤ん坊の話だろ!?」
目の前の少女は明らかに赤ん坊ではない。
「赤ん坊が、いいの?」
「そういう話じゃない」
反射的に鶴城は否定する…………肯定してはいけない気がした。
「とにかく、あれだ、まずは何か着るものかせめて羽織る物を」
わからないことだらけなので鶴城はまず目先の問題から解決することにした。しかし周囲を見回してもそんなものが落ちているはずもない。
ところどころ電車へ逃げ遅れたらしき人が倒れているが、まさか意識がないからと身包み剥ぐわけにもいかない…………ほとんど隠せないだろうが自分の上着を貸すしかなさそうだ。
「服、ですね」
しかしそんな彼の試案をよそに少女は呟き、僅かに発光したかと思うとその姿が一変する。ほんの一瞬前まで裸でしかなかった少女が、今は鶴城と同じ制服を着ていた。
「え、あ…………でも何で男の制服?」
鶴城は混乱してそんなことを口走る。確かに少女は制服を着ていたがそれは鶴城と同じ男子用のブレザーとズボンの制服だ。女子のほうはズボンがスカートになっている。
「スカート、ですね」
そんな彼の思考を読んだように少女が呟き、再びの発光と共に今度はちゃんと女子用の制服姿となる。
「これで、よいですか?」
「よい…………です」
頷くしかなかった。
「次は、どうしますか?」
「次はって…………」
自分を見る少女の表情は無垢そのものだ。鶴城が次にどんな言葉を口にしようとそれを実現させるために無条件で行動する…………そんな気がした。
だが彼には少女がなぜそんな風に自分に尽くしてくれるのかその理由がさっぱりわからない。
「と、とりあえず…………」
「はい」
素直に言葉を待つ少女に鶴城は全力で思考を巡らせる。怒涛の状況に全く頭が付いていけていない…………故に目的を定めるべきだと鶴城は判断する。
わからないことはとりあえず置いておいて今すべきことを明確にするのだ。
「そうだ、まずは…………湊!」
鶴城の親友。楔を破壊するというテロに乗じてウィズになろうとして彼は残った。
その試みがどうなったかわからないが、失敗したとしても今は他の人々と同様に元通りになっているはずだ。
「湊もちゃんと元に戻したんだよな?」
「?」
けれどそれに少女は首を傾げる。
「私は、戻してないですよ?」
「えっ…………でもみんな全部」
元に戻っている。それなのに湊だけ除外したのだとしたら意味が分からない。
「私は何も、戻してないです…………力を貸しました」
「それってどういう…………」
「戻したのは鶴城、です」
「は?」
再び戸惑う。自分の知る限りそんな特別な力などあるはずがない…………だが、思い当たることがないわけでもない。
ウィズ。現実濃度の低下に適応し、世界を自分の願う通りに改変する力を持った人間。
もしもあの瞬間に鶴城がウィズとして目覚めていたのだとしたら、確かにそういう力を得ていてもおかしくはない。
「ああ、ええと…………それは置いておいてとにかく今は湊の安否を!」
思考がずれそうになったのを鶴城は修正する。わからないことは後回しにして今は優先すべきことを明確にすると決めたばかりだ。
「ありえないっ! ありなえないあああああああああああああああい!」
しかし改めてそのことを尋ねようとした鶴城を遮って絶叫が響き渡る。
「なんだ?」
鶴城は倒れている人が目でも覚ましたのかと声に視線を向けるが、そこにいたのは司祭でも着るようなローブを羽織った奇妙な男だった。
「我々が、ワタクシが確かにこの区画の楔は破壊したはず! それなのになぜこの場の者達は神の恩寵を授かっていないのですか!?」
叫ぶ男のその言葉に、鶴城の中の優先順位が入れ替わる。
「おい、お前今なんて言った?」
聞き逃せない言葉を、彼のその耳は確かに捉えていた。