夏
暖かくなってきて、風が夏の訪れを告げてくれる初夏のある日、結香は縁側で巻物を読んでいた。
今まで引きこもってきたぶん楽しもうと言うおもいがあり、結香はよく縁側に出るようになった。
代わり映えのしないように見える縁側からの木々も、よく見ていれば変わっていることがわかるのだ。
それに、縁側に出ていればそれに気がついた紫翠が駆け寄ってきてくれるのだ。
「おーい、結香ー」
噂をすればだなと結香は笑う。
「紫翠」
手を振れば、変に上機嫌な紫翠が走ってきてすとんと結香の隣に腰掛けた。
薬箱から良い匂いがすると結香は気がつく。
「薬箱から良い匂いがするぞ。なんだそれ」
「目敏いな結香。少し厨借りるな」
そう言って厨に消えていく背中を結香はふんふんと鼻をならして確認していた。
暫くし、紫翠はお盆の上に湯飲み二つを置いて戻ってきた。
期待に目を輝かせる結香のまえに、薄緑の色をした液体の入った湯飲みがおかれた。良い匂いはここからしているようだ。
疑問に思って紫翠を見ると、その液体を飲んでいる。
「……」
飲むものなのを理解し、結香もひと口こくんと飲み下す。
「……!」
ぱぁっと顔が輝いた結香を見て紫翠は嬉しそうに笑った。
こんなに美味しいものがあるものかと感動した結香は言葉が出ず、その感動をうまく伝えることができない。
そうして口をはくはくとさせている結香を紫翠は優しく見守っていた。
結香は初夏はお茶がとても美味しい時期だと、あとでこっそり眷族に教えてもらっていた。
雨の香がむせかえるほど満ちる梅雨は、雨が多いからか紫翠があまり屋敷に来れない。
日々の楽しみが紫翠と話すことである引きこもりの結香にとってそれは大きな痛手であり、今までなんとも思っていなかった梅雨を嫌いになる原因のひとつだった。
つまらないなぁとぼやきながら縁側の雨の当たらないところで外を眺める結香は忠犬のようにも見える。
「土砂降りだ」
雨と屋敷の縁側、青々しい葉桜の組み合わせは一般的には雅と言うのかもしれないが、逢瀬を邪魔する雨は結香にとって無粋でしかなかった。
ざぁざぁと鳴り止まない雨の音に耳を傾けていると、結香の耳が雨以外の音を拾った。
雨に織り込まれた雨ではないその音は……
「紫翠!」
「結香、こんなところで何してるんだ! 雨に当たりでもして体が冷えたらどうする!」
開口一番説教を食らった。情けない。
縮こまる結香にため息をつきながら紫翠は濡れた体をそのままに薬箱をまさぐりはじめる。
結香はこれ以上怒られないように縁側の中の方へずりずりと下がっていくがどうにも紫翠が心配である。
今も床を濡らさないよう、紫翠本人は雨に打たれながら箱をまさぐっているからだ。
体が冷えて病気になりそうなのは紫翠の方だよなと結香はむくれる。
梅雨は紫翠が体を省みなくなるから嫌いだ。
「よしあった。今度はこれを試してみような……
なんだその顔」
薬が苦いのは仕方がないことだからなと諭されるが、全然違う。
紫翠はいつもちょっとだけ的外れだ。
「紫翠が体拭くまで僕薬飲まないから」
いぶかしげな顔をする紫翠だが、むくれた結香の顔を見て疑問を口に出すのはやめる。
仕方なく結香がとってきた布を使って体を拭き、綺麗になったら縁側から結香のいる方に歩いてきた。
結香はそれを笑顔で認め、今度こそきちんと薬を飲んだ。
あとはただ、二人で雨を眺めるだけ。
桶をひっくり返したようなどしゃ降りの雨が、二人を世界から隠してくれているような気もして、結香はちょっとだけ梅雨が好きになった。