其の三 赤猫のヒナ
その娘、地獄の炎を自在に繰り出す、火車という化け猫である。
現世にて悪行三昧を尽くして死んだ悪人の死体を、火葬場で盗み取ってそのまま地獄へ送り届ける[もののけ]が火車であると、一般的に知られている。
ぴょこりと動く猫耳に、小さな鈴が付いた首輪。
茶色い斑の入った黒髪は短めに切り揃えられ、切れ長の紅い目に強かな光を宿し、派手な牡丹の刺繍が施された赤い着物の胸元は、若干はだけ気味で谷間が覗いている。着物の裾は太モモを露にする短さで、すらりとしなやかに伸びた脚は、細くも太くも無い。
そんな格好でも臆すること無く縦横無尽に駆け回り、炎を混ぜた強烈な拳打で悪を砕く。
北国の村々を実質的に支配する代官の屋敷ともなれば、だいたいは立派なものだが、色々と良からぬ噂が渦巻いている通り、その規模も不相応の大きさであった。まるで、国主のような構えである。
そんな、月明かりによって青白く染め上がった中庭に、鮮やかな赤い着物が降り立った。
――リン。と、玲瓏な鈴の音が鳴る。
彼女の足元、やや厚底の雪駄から時折、赤い光がちらついては湯気が立ち昇る。積もった雪が溶けているのだ。
服装からも分かるように、この娘に忍ぶ気配がまったく無い。堂々と、まるでこの屋敷の主かのように、歩みを進める。
そして、当然のように屋敷を巡回する家来に、見咎められるのであった――。
* * *
陰湿な含み笑いが充満する一室。
二人の男が、向かい合わせに座っていた。
「むほほほほ、お主もワルよのぅ、黒雪屋」
黄土色の狩衣【貴族の普段着】を身にまとい、頬骨の目立つ痩せぎすの白い男が言った。化粧をして貴族らしさを強調しているが、どことなく品の無さを感じさせる顔だ。
「いえいえ、お代官様にはとてもとても……」
もう一人も、若干痩せた小男であった。その服装から分かるように商人である。ただ、ぎらついた目つきは、何とも不快にさせる。
「ささっ、今宵もお土産を持参しました。どうぞ、お収め下さいまし」
そう言いながら、緑の風呂敷を解いた黒雪屋は、木箱の蓋を開ける。
「むほほほほ、山吹色の最中【黄金の小判】でおじゃるな。麻呂の大好物をよぅ知っておるのぅ」
箱の中身を見て、会心の笑みをこぼす代官。
「魚心あれば水心と申しますれば、まさにお代官さまあっての、この黒雪屋でございます。お代官様が山賊をしていらした時よりの……」
「分かっておる、分かっておる。これからも頼りにしているぞ……、でおじゃる、こほん」
「では、今後ともよしなに、お願い致しまする」
黒雪屋が徳利を、代官が杯を手にした、その時であった――。
「おのれっ、曲者ぉーっ、ぐほああああああっ!」
* * *
ただならぬ敵襲、山賊時代に培った勘がそう告げている。
代官は素早く太刀を手に取り、声のした中庭へ急いだ、が――。
そこで見た光景は、戦慄すべきモノであった。
人が燃えている――。
どれもこれも見知った顔が十一人。古くからの手下もおり、貴族の一員に迎えられた時からの家来もいた。されど、あの短い時間でこれだけの人数を屠った者がまた、派手で阿呆な格好をした小娘とは、中々に信じ難い。
――が、これは現実なのだろう。少なくとも相手は、人間では――無い。
「ひにゃー、あんたが一番のお偉いさんかにゃあ?」
その声も口調も馬鹿っぽいが、敵を油断させる戦法であろう。
「むほほほほ、その通りでおじゃる。麻呂は、凍越 岳彌。いざ、名乗られよっ!」
幾人もの女を切ってきた曰く付きの業物である女切りの太刀を、鞘から解放する。眼前の敵も女だから、丁度良さそうだ。
あとは、こちらが仕掛けた罠に掛かるのを待つばかり。
「あたしは、赤猫のヒ…………、にゃーっっっ」
――馬鹿め、掛かった。
小娘が呑気に名乗りを上げたのが運の尽き、中段に構えた太刀を素早く前に持って行く。いわゆる突きである。
「ひっ、卑怯にゃあっ、名乗ってる途中でしょうがっ!」
だが――、
敵に名乗らせるよう言葉で誘導し、名乗ってる最中に不意を衝く。我が必殺の名乗り突きが、あっさりと避けられてしまった。いよいよ、これは強敵である。全力をもって叩き潰さねば危うい。
「チョイエーっ」
気合の雄叫びと共に、大上段から全力で振り下ろす大木割り。山賊時代に鍛えた一撃必殺の技。本来は大きく武骨な野太刀を使ってこそ威力を発揮するが、問題は無かろう。
「ひゃあーっ」
――大げさな動作で避けられてしまった。ならば、これならどうだ。
「チョ、チョ、チョイーっ、チョイーっ、チョイーっ、イエーィっ」
胸を狙って隙の少ない二連突きの牽制に、本命の袈裟斬り【相手の左肩から右胴へかけての斬撃】を放ち、右切上【相手の右下から左肩への斬撃】への連撃と思わせて、下段に移動した太刀を水平に払い、敵の脚力を奪おうとするが――、
「アブにゃいにゃーっ」
普通より厚い底で作られた雪駄の裏で、渾身の足払いが防がれてしまった。
「にゃーん…………っ、この雪駄、高かったのにぃ」
それにしても、先程からヤケに大きい挙動で避けているが、すべて計算づくの戦い方なのだろうか。その激しい動きに着物が付いて行けず、胸のふくらみだけでなく股間までが丸見えの時がある。もちろん、何も穿いていない。
――いや、ただ変態なだけのバカ猫なのだろう。
それに、我が剣術に色仕掛けは通用せん。
何故ならば――。
剣の道に、女は不要。
そう、女子を好くから太刀筋が鈍る。ならば、男にしか興味を持てない身体にしてしまえばいいのだ。故に、山賊に交じって力を付けた。だからこそ、今まで負けた事は無いのだ。そして、これからも無敗。こんな小娘などに、断じて負けはせんのだ。
「チョイィィィ、ウェエエーっ」
「もう、怒ったにゃっ!」
気合いの声と共に、すべての力を込めた大上段の構えからの大木割りが、小娘の頭に決まったと思いきや、景色が真っ赤に染まる。
目くらましの炎か。
「あたしの色っぽいカッコを見ても全然、隙見せないし」
腹部に衝撃が走った。
これは、小娘が放った掌底か。だが、体重が乗り切っていない上に軽い。懐には潜り込まれたが、まだまだ反撃の手はある。
「お前なんか、燃えちゃえ…………、にゃっ」
その声が聞こえた直後、爆炎と共に全身が弾け飛んだ感覚に襲われ――。
* * *
赤猫のヒナ。
放火魔の隠語でもある二つ名を冠した彼女が放った火は、主を失った屋敷さえも、天罰とばかりに燃やし尽くそうとしている。
紅蓮の炎が巻き上がる向こうから、今夜もまた――、
リン。
――と、玲瓏な鈴の音が鳴る。