其の一 噛み付きのカエデ
その娘――、大百足という[もののけ]である。
大抵、漆のように黒い髪を無造作に束ねた、ガサツで気の強そうな少女に化けている。背後から音もなく忍び寄り、真っ赤な唇から時折覗かせる八重歯で、相手の首筋にかぶりつく戦法を得意とする。
鏡台の前に座る一人の少女が、障子から漏れた月明りを浴びる。
地獄への送り賃である金貨を一枚、引き出しの中へ入れ、代わりに白い貝殻を出す。
その二枚合わせの貝殻を紐解き、右の人差し指で紅をさす。
唇が紅くなった自らを確かめ、黒い襟巻で顔半分を覆う。
すっくと立ち上がった瞬間、明かりが途切れて真っ暗に――。
再び月が出た時、黒い少女の姿はどこにも無かった。
雲一つ無い月夜の下で、相変わらず白く染まった北国の冬景色。
滑るように走っていた一陣の風が、ふと止まる。
垣根の影から現れた、黒装束の少女。袖は無く、裾も短いので、白い手足が一段と映える。
視線の先にあるのは、今宵の標的が居るであろう屋敷。
意を決した少女の姿が垣根に溶け込み、百足の影が飛び出す。
途端、雪煙が巻き上がり、風となって行ってしまった。
* * *
奉公に来て、何年が経ったろう。
我が主人は相変わらず、悪事に精を出しているようだ。
今夜もまた、どこかで攫ってきたのであろう村娘が、屋敷に入っていくのを見た。
何とかしてやりたい気持ちはあるが、あいにく俺は雇われの身。それに、保衛門という立派な名前まで下された恩義ある主人に、逆らえる訳がない。これも運命だと思って、諦めてもらう他あるまい。
もうじき正月が来る――、田舎のおっ母ぁは元気だろうか。
しばしの休暇を戴けるよう申し出たら、快く承諾された。ああ見えて、なかなか家来思いの主人だったりするのだ。
さて、門を衛って保つという、俺の名前の元になった仕事を全うするとしよう。まぁ、何事も起こらないと思うけどな。
* * *
富を蓄えている人間の屋敷は、見栄えも偉そうで立派だ。
最も背の高い松の木に登った黒い少女は、庭から屋敷の様子を伺う。
そうして、見張りと思しき下男が、気怠そうに歩いているのを視認した。
それなりに良い装束。おそらく、この屋敷の奉公人であろうか。
しかし、悪に与している以上、生きる道は無し。
松から屋根へ飛び降り、身体を低くして這うように近づいてゆき――、男を射程に捉えた少女は、襟巻に手を掛ける。漆黒に濡れる布は下ろされ、赤い唇が露わになった。
一度、噛み付けば、必殺の毒によって地獄行き。人呼んで――、噛み付きのカエデ。
此度も、音もなく躍り出て、悪人を送り出す。
* * *
ことり――。
上の方から、何か物音がした。
反応して見上げた保衛門、しかし――衝撃は、後ろから。
背中を蹴られて前のめりに倒れてしまった保衛門が、敵襲であると認識し始めた、その時である。
がぶりと――、首筋を噛まれた。
何か巨大な物が背後から圧し掛かっているようで、とても自力では起き上がれそうにない。
「ひっっっ」
月明りに照らされ、影を垣間見た保衛門の口から恐怖の声が漏れる。
それもそのはず、己に覆い被さっている物が、大きな百足の形をしていたからだ。
ワサワサと多数の足がうごめく、土壁に映った不気味な影。
全身から力が抜けてゆくのは、恐怖によるものか。
否――。
首筋から今も流し込まれている毒のせいだろう。
いやだ、死にたくない。
何とかしなければ――、
今一度、持てる力を振りしぼって――、
だめだ――、
もう、だめなのか――、
身体が――、動かない。
おっ母ぁ――、もうすぐ会いにいけると、思ったのに――、
ちくしょう――、こんな所で俺は――、
俺は――。
* * *
冷たくなった骸から、牙を抜く。
すっくと立ち上がったのは、黒い少女。
返り血を拭い、再び襟巻を上げて唇を隠す。
今夜もまた、一人の悪を地獄へ送り出したカエデ。
されど――、か弱き者のすすり泣く声が聞こえる限り、彼女の仕事は尽きない。