【09】忍すら失格だ
本日二度目の更新です。9時の更新が既読でない方は、前話をお読み下さい。
時の流れは、私が留まりたくても立ち止まってくれない。翌日だって、その翌日だって足音を変えずに訪れる。
一度変わってしまったものを元に戻すことは不可能に近い。私は現在進行形で痛感している。
私が来ないでと言ったからだろう。バレンタインデー以降、山瀬が私の家に来ることはなくなった。
かといって、私の日常は、山瀬が家を訪れるようになる以前に戻るわけでもない。
あれ以降、私はオムライスを避けていた。毎週金曜日に目に、そして口にしていたから、どうしても山瀬を思い出してしまうから。
オムライスどころか、卵料理の頻度も食べる人数も減ったから、土曜日には珍しく冷蔵庫に卵が残っていた。
あくせくセールに足を運ぶ必要もなくなって、むなしさが募る。
沈んだら駄目だ。そもそも、山瀬が踏み込んでくるまで、私はずっとひとりだったじゃないか。
いつどうなるかなんて、一般人以上に先の見えない身だから、特定の誰かに依存したり、あるいはされたら駄目なんだ。
唐沢の家からずっとそう言われてきたし、忍として過ごしている以上、間違っているとは思えなくて。
ひとり耐え忍ぶからこその、忍。
婚姻の話を持ちかけられたからって、山瀬に恋しては駄目だ。彼に気持ちなんて届くわけがないのだから。契約、ビジネスの一環として割り切らなければいけなかった。
好きでないなら、まだ何とかなった。子孫の為にと山瀬と契っても、山瀬に別に好きな人がいたとしても、そういうものだと納得できた。
でも今は無理だ。自分を組み敷きながら、心が別のところにあると突きつけられる。そんな事実が悲しい。悲しい。
意中の人が他にいるのに、自分と契らなければならない山瀬を思っても、悲しさが倍増した。
本当は、そんな感情を抱いてしまっても、遂行すべきなのは分かっている。
でも、もう私には無理だ。忍失格でいい。今後、一族からどんな扱いを受けてもいい。
今、山瀬と離れられるなら、そして山瀬が幸せになれるなら、この先どうなっても後悔はしない。
とにかく、彼との関係は破棄する。唐沢の家に、長老様にそう伝えた。多分、唐沢の家から山瀬の耳にも入れられただろう。
余計な重石がなくなって、山瀬は文字通りの自由だ。やませの響き通り、好きなところに吹いていけばいい。
私は変わらず登校している。アイツもだ。出席の際には返事がある。各々の担当に顔と声を覚えられているから、代返なんて出来ない。
けれど、山瀬の存在感が希薄なんだ。そこにいないと言われたら、思わず頷いてしまう程に。
山瀬と距離を置きたい身としては、ほっとしている。でも、同時に寂しさや空しさもおぼえている。
身勝手この上ない願いだけど、せめて、今学期が終わるまでの間だけでも、もう少しだけ話してみたかった。
その一言だけでも伝えたいのに、肝心の山瀬がとらえられない。
ある筈の山瀬の机も、私の視界から忽然と消えてしまって、手紙すら残せない。携帯も繋がらない。
山瀬から拒絶されると、まさに八方塞がり。
渋々ながら婚約を受けていたのに、どれだけアイツから歩み寄ってくれていたのか、嫌でも痛感する。
「唐沢さん、何か顔色悪くないかな? 大丈夫?」
「そんなことありません。いつも通りです」
「そうか。それならいいけど」
通りすがりの生徒会長に、声をかけられた。彼から見て、そんなに私はおかしく見えているのだろうか?
でも、会長は機微に聡いから、ほんの僅かな変化程度かもしれない。……きっとそうだ。
学校ではいつもと変わらない。いつ訪れるか分からない、外からの闖入者に備える。現われたらそれを撃つ。
過去に二度あったからこそ、ゼロではないからこそ、気を抜けない。
二度とも、お嬢様を狙うべく、外部で雇われたものだった。お嬢さまを狙ったこと以外一切吐かない彼らは、私のいない所で内々に処理されてしまったそうだ。
彼らの行方について、知ろうと思うことはこの先もないだろう。
そういえば……実らない想いを抱いている会長は、相手を目前にしながら、どうして平然と振舞えるのだろう。
どれだけ強靭な心を持っているのだろう。
……私は、今でさえこんなに心が砕けて挫けているのに。
ふと彼に問いたくなったけれど、ひゅっと鳴った自分の喉に、我に返る。
「唐沢さん。僕の顔に何かついているのかな?」
「いいえ、ちょっと呆けてしまっていました。失礼しました」
「そう? 何かあったら、報告をよろしく」
言外に、任務以外のこともいいと匂わせてくる会長。
彼の目つきが鋭くて、他者いわく、冷たい印象を受けらしい。けれど、何だかんだであたたかい人なんだ。
他のちょっとしたことなら、彼に相談を持ちかけてもいいかな。でも、こればかりはね……。
軽く頭を下げて、私は会長の下を辞した。
他でもない、唐沢の忍が、他人に弱みを見せては駄目だ。私の正体を知る会長相手なら、尚更だ。
山瀬への気持ちの行方は、自分で模索して、心に折り合いをつけないと……。
……とは思うものの、やはり一朝一夕程度では、切り替えはうまくいってくれない。
お嬢さまが帰宅の途についたからと、弓道場に来たけれど、落ち着かない。
つい最近までは、ここにも山瀬が来ていたから。彼の姿が頭を過ぎって、心をチリチリと焼く。
ここ何ヶ月かで、山瀬との接点が増えすぎている。弓道場どころか、校内の至るところで、彼の影がちらつく。
いつもなら、すんなりと構えに入れるのに、今日は胴張り(上半身の土台作り)の時点で何となくしっくりこなかった。
頭が重たい。……ひょっとして、会長が指摘した通り、私、体調が悪いのかな?
余計な雑念が入ったせいか、私が射た弓は、的から大きく外れた。
いつもなら、少なくとも屋内の道場では、円から外すなんてことはなかった。
思わぬ結果に、一瞬呆然としてしまう。
刹那、視界が歪んで、世界が回った。肩が何かにぶつかって、天井が見えたところで、倒れたんだとようやく気付いた。
気が参っているから、ついに体に出てしまったんだ……。
あーあ……忍すら失格だ、私。
目が覚めると非常に見慣れた天井。いつの間にか自宅に帰っていたらしい。
否、私は自ら帰った記憶はない。意識の最後は、どう遡っても弓道場だった。
しかも、いつの間にか部屋着を身につけている。いつもは外す下着は、身に付けたまま。私が着たんじゃない。恐らく誰かが着せたんだ。
左右バランスのとれた足音。よく耳にしていたものだ。多分、山瀬……?
山瀬の気配が恋しくなって、ついに幻聴まで聞こえるようになったのかな?
夢の中でもいいや。一目だけでもいい。早く会いたい。気配のする部屋のドアの先を、ぼんやりと眺めていた。
暫く経って、ドアが開く。入ってきた人物の顔に、違和感を覚えた。そうだ、何だか口元に違和感が。背中にも黒いものが見える。……ひょっとして、鴉天狗?
天狗の本性を顕している山瀬の姿を見たくて、私はベッドから乗り出そうとした。
「や、ま……せっ」
自分の声を聞いて驚いた。のどが痛いとは思っていたけれど、ひどい嗄れ声。
「五年近くか。一日も休まず、いつ来るか、来るかどうかも定かでない外部の襲来者に対して、ずっと神経をすり減らしてたんだ。疲れもするさ」
「あっ、……お嬢様っ!!」
大丈夫。今日はもう帰ってる。だから弓道場にいたんじゃない。そんな事すら咄嗟に思い出せないほど、私は調子が悪いみたい。
「今日は金曜だ。明日明後日休めば少しはましになるだろう。月曜日まで回復しないなら、一日くらいなら俺が見てやる」
幸い、月曜日には体育が入っていない。男女別れる体育さえなければ、クラスメイトの山瀬ならお嬢様の警護は難しくない。
「ありがとう」
「とにかく今は、つべこべ言わずに、寝ろ」
「だ……」
だけど、といいたかった私だけど、それ以上言葉を続けることができなかった。山瀬が何かを私に翳して動かしたところで、意識がぷっつりと途切れてしまったから。
もう少し、お話がしたかったんだよ、山瀬……。
読んでくださりありがとうございます。
次回の更新は、28日21時を予定しています。