【08】確信と終わり
本日二話更新します。二話目は21時を予定しています。
玄関の呼び鈴が鳴る。少しの間の後、金属音が立ち扉が開く。
確認するまでもない。最近、毎日来訪している合鍵を渡している一名。家で作業をしていて手が離せないこともあって、呼び鈴を鳴らした後は入っていいと伝えているから。
だって、今はちょっと手が離せない。洗い物って結構咄嗟に動けないんだよ。
しかも割烹着も着たまま。この格好で、玄関先であまり応対したくない。でもエプロンより服が汚れないからつい頼ってしまう。
「……甘い匂いがするな」
いつものと変わらず、崩した制服姿の山瀬が、ぽつりと呟いた。
「明日はバレンタインデーだからね。友達にチョコでも贈ろうと準備してるんだ」
クラスで仲の良い女子たちの何人かと、お菓子を交換し合う約束をした。所謂友チョコ。
二月の寒い時期だけど、暖房施設完備の我が高校では、うっかりするとチョコレートを融かしてしまう。
だから、生チョコなどではなく、無難にチョコチップとココア入りの二種類のクッキーを焼いている。カカオやバターの焼いたときの特有の、口の中に甘さが広がりそうな匂いで、部屋が満たされている。
計量が面倒だから、普段はあまりお菓子を作らない。けれど、たまに作ってみると結構楽しいのよね。
「そういや、そんな時期だったか」
「山瀬は誰かからチョコレート貰うでしょ? そういえば去年もプレゼント持った後輩が来ていたよね」
「いや」
山瀬の人となり、というか本性を知らない人が、時折山瀬に一目惚れしてチョコレートを押し付けに来る。クラスに押しかけてくる後輩達の多いこと。私が直接その現場を見たのは、一度や二度じゃない。
「え、またまた冗談を」
「自分が好いた者以外から貰っても、嬉しくないからな」
山瀬が、修学旅行のとき以来の、あの苦しそうな顔を見せる。
人目を憚らずそんな表情を浮かべるなんて、山瀬は一体どれほどその子の事が好きなんだろう。
「ああ、そういうことか。こっそりお断りしているんだね」
「特に手作りの菓子はな。何だか口付けされているみたいで駄目だ」
「口付け?」
そういえば、天狗の口付けは、特殊な意味合いがあるって聞いたことがある。人間とは違って、身体を重ねること以上に神聖視していて、身も心も相手に捧げる契約の証、だったかな。
心がなくても性交渉は出来るけれど、キスは駄目なのだとか。難しい生き物だね。
文字通り、天狗との身体だけの関係は、口付けも発生しないという。
思い出した。だからこそ、修学旅行のときの、旅館でのサイテーな振る舞いに繋がった、というわけか。
まあ、あの手のオンナノコから、身体だけでもと言ってしつこく縋られたら、断るのも面倒そうだからね。
人を落とすことに対して、妙に自信を持っている。ギラギラとした目を持っていたから。
「そうだ。まったく、変なイベントに夢中で、ヒトは本当に面倒だ」
山瀬がうんざりといった風にぼやいた。
とにかく……勉強を教えてもらったお礼にと思って、山瀬も友チョコの頭数に入れていたけれど、やめておこう。
よくよく考えたら、お礼なら、手作りのお菓子である必要がないよね。
市販の綺麗なものを、自分へのご褒美に買って、おすそ分けする感じにしようかな。
深い意味がなければ、意外と甘いもの好きな山瀬のことだ。食べるかもしれない。
そうと決まると、鼻歌が出る。胡乱な目で見られている気がするけれど、気にする千鶴さんではないのだよ。
デパ地下のにしようか、それとも商店街の老舗洋菓子店のものにしようか。何種類もは買えないし、時間もないから、慎重かつ大胆に選択しなければ。
結局、私の気分と時間の都合により、家とは逆方向にある商店街の、老舗洋菓子店の菓子を買うことにした。
滅多に手にすることのない、シンプルだけど可愛らしさのある箱を手に、私はどこか浮かれていた。
家近くの公園が、僅かに視界に入る。そこには二つの人影。一つは色素の薄い髪と、特徴的な男子制服。
後姿だったけれども、どう見ても山瀬だった。お堅い進学校だからか、髪を染めている人は殆どいない。だから、色素が薄いとものすごく目立つんだ。
もう一つの影は、山瀬より頭二つ分ほど小さい女の子のものだった。私と比べても十五センチ近く小さい。
山瀬の顔が動いた。横顔が見える。柔らかい、彼らしからぬ表情で、山瀬が笑いかけている。相手は、波打つ黒髪が綺麗な、遠目からでも目をみはるような美少女。見る限り、私たちより年下だ。
口の中が干上がって、うまく呼吸が出来ない。ぱくぱく口を開閉したくなるけれど、少しでも変な挙動をしたら、山瀬は私のことに気付きかねない。たとえ気付かれたとしても、今の状態は知られたくない。何か嫌だ。
息を少し深く吸う。意識しないと呼吸が浅くなってしまうから。
いつも通り。それを密かな合言葉に、息や歩みを乱さず、私は現場から離れた。多分成功した。
ひどく胸が痛む。あの時以来だ。山瀬の好きな人の話を聞いたとき。山瀬の、切ない表情を見たとき。
しんば君の私に対する評価を聞いたときよりも、ずっと深く胸を抉ってきた。
山瀬と少女の、美男美女のツーショットに受けた衝撃。どうしてお礼という名目で、彼にお菓子を食べてもらおうと思ったのか。
パズルのピースがパチリとはまった。
……私、山瀬のことを好きになっていたんだ……。
尊大な物言いや態度が和らいだわけでもない。見合い相手として、親睦を深めるという名目で、山瀬が接点を増やしてきただけだ。
それでも、彼の一面を知るたびに、彼に抱いていた嫌悪感が霧散していったのは、自覚していた。だけど……。
山瀬への気持ちを確信すると同時に、終わりに気付く。
涙は出なかった。心以上に身体が乾いていたのかもしれない。
さっき笑いかけていたのが、件の彼女じゃないかもしれない。でも、山瀬にはあんな美少女が言い寄るのだから、自分が振り向いてもらえるとは思えない。
そもそも、人と天狗では色々違う。山瀬だって、人と天狗を明確に区別しようとしている節がある。
このまま婚約者として傍にいるのは、惨めだ。
互いに全く気持ちがなければ、子どもを作るための契約だと割り切れた。けれども、よりにもよって私の方からの一方通行。
無理だ。こうなってしまったら、山瀬だけは無理だ。彼以外の天狗と契れと言われたほうが何倍もましだ。たとえ私を虫けらのように扱うような存在だとしても。感情がなければ、任務の一環としてまだ割り切れる。
どうやったのか一応家には帰れたから、玄関にチェーンロックをかけて立て篭もっていた。洋菓子店の箱は、手から消えていた。どこかで落としたのかな。何かもうどうでもいいや。
呼び鈴が鳴る。山瀬か、オートロックを偶に突破してくるセールスくらいしかない。合鍵を渡したとはいえ、律儀に呼び鈴を鳴らして彼は入る。けれども、チェーンロックのかかった今日は強引に入ってくることもなかった。
少し間を置いてアプリで一言飛ばしてきたため、もう来ないでと返信する。ここで無視していたら、かえって心配をかけることになりかねない。急病人と思われて、チェーンロックを突破されたらたまったものではない。
これでいい。これでいいんだ。呪文の様に唱えて、自らに言い聞かせる。
その晩、唐沢の本家に初めて電話を入れた。自分の立場を考慮することなく、婚約破棄の申し入れを伝えるために。
「そうかい。とりあえずは保留で、詳しいことは、千鶴の春の休暇にでも聞くかな。それでいいかい?」
電話越しの長老様の柔和な声。心を落ち着かせてくれるものの、正座をする膝を打つ雫の滝は、止まらない。
「はい。……ごめんなさい」
「こればっかりはね、相手があるからの」
長老様の返答はあっさりしていた。でも助かった。春までに説得できる材料を積み重ねたらいい。
今、根掘り葉掘り尋ねられなくて、本当に良かった。
挨拶を述べて、静かに受話器を置いた。
終わった。何もかも。……いや、まだだ。山瀬に自ら申し入れなければ、終われない。
心に澱を沈めたままでは、いられない。
読んでくださりありがとうございます。
次回の更新は、本日21時を予定しています。