【05】口車に乗せられて
週末。夕方にヤツのリクエストに応えねばと買い物をして帰ったら、玄関に影が伸びている。
まて。まだ昼前だ。それどころか、土曜日のセール狙いで朝一でスーパーに行って直帰したからまだ十時にすらなってないのに。
影の主は、予想を裏切らない。……山瀬。
「どこに行っていたのか?」
「買物。今日はオムライスを作るつもりだったから、セールの卵を狙っていたのよ」
「先日ので足りないなら、まだ出せるが」
待って。これ以上増やされたら、諭吉さんの顔でゲシュタルト崩壊を起こしそうよ。
ただでさえ怖くて、あれ以来あの封筒に手すらつけていないのに。
「一体、何か月分のつもりよ! 諭吉さんが六人もいたら、下手したら夕食代だけで半年は持つわよ」
「そんな金額でおさまるものなのか。……じゃあ、足りているならどうしてセールに行くんだ?」
「学校が休みの土曜の朝だし、散策がてらいくのに、丁度いいスーパーだからよ。そんなところで調度セールをするなら、狙うでしょう? セールで普段よく使うものを調達できたら、他のなかなか安くならない食材にお金を回せるじゃない。プチ贅沢するためよ!」
何かがかみ合っていない。そんな会話をするのは妙に疲弊する。山瀬が天狗だからそうなのか、山瀬のような感覚の人間が他にも大勢いるのか、私には分からない。
せめて、まだ彼の感覚が私と近ければ……。思わず天を仰ぐ。
「そもそも、こんな時間に山瀬がいること自体、私は想定していなかったわ!」
「確かに、時間の約束はしていなかったけどな。唐沢千鶴は、俺がいつもの下校時間頃に来ると踏んでいたという解釈でいいのか?」
私は大きく頷いた。
「そもそも、互いに休日の予定とかあるでしょう。まあ、私の場合は、必死に勉強しないと厳しいから、部屋の片付けや予習復習に追われることが殆どだけどね」
悲しいけれど、私の現実だ。先日の唐突な帰省がイレギュラーで、勉強と家事に費やされるのが、私の週末における現実。
「馳走になる礼だ。勉強の手伝いをする分には吝かではない」
ニヤリと笑う山瀬の申し出に、私は驚いた。
確かにヤツは、私よりはずっと成績がいい。大抵、クラスで五番以内に入っている。そんな人から教えてもらえるなら心強い、と思いかけて、私ははたと気付いた。
山瀬は人外だ。人と頭の構造がいろんな意味で異なる。そんな彼に教えてもらって上手くいくのだろうか?
「唐沢千鶴。何を心配しているかは定かではないが、試してみない事には分かるまい。それとも、お前は俺の手ほどきについて行けないほどの軟弱者なのか?」
山瀬は、人の心に火をつける達人だろうか。私の中で憤怒が渦巻き、激しく燃え上がった。
「見てなさい。きちんと勉強をこなして、成績だって上げてみせるんだから」
「それでこそ、唐沢千鶴だな」
びしっと指を突きつけて宣言したところで、我に返る。ヤツの口車に上手く乗せられてしまった。けれども、まあいい。
何とか利用して、成績上昇の切欠にしてやるんだから。
「で、唐沢千鶴の苦手科目は……明らかに一教科、沈みがちのものがあるな」
山瀬に指摘されるまでもない。自分の弱点なんて自分自身が一番良く知っている。
私の大の苦手教科。英語。漢字とかなに溢れた生活を送るのが常だから、後回しにしがちで、ますます分からない。
まずは単語が覚えられない。文法もさっぱり。テストは教科書の一定の範囲だけ出るから、そこを短期的に暗記するのが常だ。
「問おう。英語は捨てているのか? それとも勉強に時間を費やしてこうなのか?」
「……後者よ」
赤点を取ろうものなら、追試や補習が待ち構えている。そちらに時間をとられると、お嬢様の護衛に影響を出しかねない。
だからこそ、これまで時間を一番費やして、ぎりぎり赤点だけは免れてきた。
でも、段々難しくなってきて、これまでの私の勉強方がどこまで通用するのか不安になってきている。
「国語は得意そうなのにな」
「そりゃ、馴染み深いからでしょう。家の古文書とか読まされたから、古文もできるほうだと思うわ」
「英語だって、結局のところは言葉だろう。他者に何かを伝えるための手段」
山瀬は、教科書の長文を、やけに大きな文字で、人間では絶対に不可能な速度で書き出していた。
そして色とりどりのペンや付箋紙を、私のペンケースから引っ張りだしていた。
「今後、一人で同じ事をするときは文明の利器、拡大コピーを頼るんだな。勉強にかける手間は最低限、効果は最大限に」
尊大な物言いは相変わらずだけど、言っていることは真っ当で参考になりそう。私は耳を傾ける。
「文章を読んですぐに分かる単語は赤で印をつけろ。前後の文を読み直して、こんな意味かと何となくでも分かったものは、付箋紙に意味を書き出して貼り付けてみろ」
指示されたとおりに、黙々と進める。普段は諦めて放り出していたけれど、前後から意味を推測できる単語が、思った以上に多い。
「出来たか。それなら、全く分からなかった単語だけ書き出してみろ。そいつらを重点的に覚えたらいい」
「でも、文法とか熟語とか……」
「文法なんて、基本的に主語の直後に動詞が来て、その他つらつらと連ねているだけじゃないか。どれがその文章の動詞にあたるかを把握すれば、ある程度はできる。熟語だってそうだ。然程特殊な解釈をしているわけではないだろう。単語本来のニュアンスで大半は事足りる。バカ丁寧にあれこれ付随させようとするヒトの学習方針に問題があるんだよ」
とうとう、学校、ひいては人間社会の教育方針にまで言及する。でも、言われてみたら……何となくそんな気さえするから怖い。
「耳からインプットするのが一番いいけどな。好きな洋画やドラマのDVDを字幕で見るんだ。まずは字幕を見ずに、情景と音声だけで分かる範囲で把握する。それから字幕と照らし合わせる。何か好きな作品とかないのか?」
「あまり見た事がないのよ。そういう山瀬は、何か見るの?」
そもそも、オムライスを知らなかった山瀬の口から、DVDという単語が飛び出すなんて。
「人間を知るために、サブカルチャーは結構押さえているからな。俺の好みで資料を選んでもいいが、唐沢千鶴の好みかは分からん」
「へえ、そういう映像って、ある意味山瀬の教材なんだね。何か意外な感じがしたよ」
本当に意外だ。こうして研究しているなら、どうしてオムライスが山瀬の知識になかったのか。
山瀬の偏りの原因も気にならなくはないけれど、結局は自分の勉強が最優先になってしまう。
あまりにも頻繁に、山瀬からオムライスの催促があるものだから、海軍の金曜日にカレーよろしく、金曜日のオムライスが定着した。他の食事のリクエストを受けようとしたけれど、特に無いと言われる始末。
休日に山瀬から手ほどきを受けた結果、英語にかける勉強時間を短かくしたにも関わらず、成績がぐんと伸びた。七十点台なんていつ以来かな?
その分、他の科目に時間をかけることができたから、前回よりクラス順位でさえ十番ほど上がっていた。学年だと五十番近く。中々出来ない経験だ。
「ありがとう。山瀬のお陰で、これからはお嬢様の護衛に注力できそうだよ」
「そうか」
結果が嬉しくて、山瀬に一番に報告したけれど、彼の返答は随分とそっけないものだった。
もっとこう、ねぎらうとか、一緒に喜んでくれてもいいじゃないか。
テストの後には、冬期休暇の到来。里に帰って、束の間の平和を楽しんだ。
婚約者という名目で山瀬が来ることも覚悟していたけれど、私の知る範囲で、彼の訪問はなかった。
休暇中も、英語を中心に、山瀬に教えてもらった方法で勉強し続けた。私にはこの勉強方が合っていたみたい。課題に適用しても捗るし、頭にすんなり入ってきたのが何よりも大きい。
里にいる間は、旅館の賄いを食べている。二週間弱の滞在の間に、何かもやっとしていた。
そうだ。自分で作らないし、山瀬のリクエストも入らないから、オムライスを一度も食べていないんだ。
読んでくださりありがとうございます。
次回の更新は、26日9時を予定しています。




