筥迫──ハコセコ──
時系列は本編最終話の翌朝。自サイトの拍手に置いていたものを転載。
窓越しに、朝露に縁取られて輝く葉の一枚一枚をぼんやりと眺めている男が一人。
日本人らしからぬ赤い髪が、通り抜ける風に煽られて揺れている。
「ねえ、山瀬」
しっとりとした調子の声がかけられる。昨日婚礼の儀を執り行い、男と契った新妻、千鶴のものだ。
「今は二人きりだろう」
「あ、ごめんなさい。慣れなくて……は、隼人」
「どうした、千鶴」
男を名で呼び直した途端、男の返事の声色が甘くなる。響きがスイッチなのではと思ってしまう程に。
「質問なんだけど、あの着物の生地は、花嫁衣裳以外で使うことはないの?」
千鶴が示す生地に、隼人はすぐに思い至った。初夜でぐちゃぐちゃに乱した千鶴の花嫁衣裳。
彼女は当初、衣装を乱すことに躊躇していた。
最後には、天狗式の衣装だからと隼人に対して折れてくれたけれども。
「全くないわけではないが、滅多には使わないと聞く。で、どうしたんだ?」
「そっか。残っているなら少し欲しいなって思ったんだけど。でも、婚礼以外で使わないほうがいいよね」
花嫁を飾り立てる衣装の為だけに織られた布。そうだと分かっているから、千鶴は遠慮がちだ。
けれども、隼人としても、自らの心深くに触れたものを残しておきたい、その気持ちはよく理解できる。
千鶴にとってのあの生地がそうなのだろうとも。
「一メートル四方くらいなら、衣装に使わなかったものが残っているが、何に使うつもりなんだ?」
「高校を卒業したら、思うように会えない日が増えそうでしょう? だから、毎日身につけるようなものを作って持っていたいなって。や、隼人の羽根を使っているから、傍にいてもらえる気がして」
「なるほどな」
千鶴が隼人と契った時点で、彼女は唐沢の家で、次期後継者だと見なされた。
表向きは旅館の若女将として、旅館の運営から、忍への依頼の取次、斡旋、諸々の仕事を覚えるための修行を課せられる。そう、未来を決定付けられたのだ。
「そういう理由なら、後でやるから好きに使え。で、何を作るのか決めているのか?」
「女将修行で和装が増えるから、筥迫がいいかなって」
和装の折、懐に入れる紙入れ。近年は婚礼等の儀で装飾として用いることが殆どだが、普段使いにしている者も偶にいる。
平の従業員のような甚平でなく、きちんと和装することになるだろうから、普段使いに考えるアイテムとして重宝するだろう。
「悪くはないな、その考え」
「本当? ありがとう」
千鶴は、長い睫に縁取られた目を細めた。頬が紅潮し、彼女の心の躍りようも伝わってくる。
「そういう小物なら作ってくれる当てがあるけど、どうする? 千鶴が自分で探すか?」
不意に風が強く吹くと、下ろされた千鶴の長い髪が風に攫われる。
新妻の髪を乱す風にも妬いたのか、隼人がそよぐ黒髪に手櫛を通し、自らの方に引き寄せた。
「んっと、山瀬の当ては、天狗の存在を知っているのかな?」
心なしか上擦る千鶴の声。
「まあ、知ってるだろうな。短命種のコミュニティに当てがあるから」
悠久を生きる天狗の長命種は、一貫して同じことを生業にし辛い。飽きてしまい、生産性、緻密性が低下してしまうからだ。
故に、職人的な生業は、短命種のコミュニティに集中している。それ故に得られた伝手だった。
「じゃあ、そこで作りたい。布の由来を知っているなら、尚更大切に作ってもらえそうだから」
「わかった。それならこちらで手配しよう。千鶴に物を贈るのは、何度でも悪い気はしないな」
隼人から千鶴への贈物。隼人の気持ちも軽く弾む。しかも、千鶴が心から欲しいと願ったものだから尚更だ。
「何か、私ばかり色々と貰ってばかりね。申し訳ないな」
「そんなことはない。千鶴から『誓い』を貰ったからな」
「それ以上に、山瀬がたくさん『誓い』をくれるのに」
隼人が眉間に皺を寄せた。千鶴が呼び慣れないのは分かっている。けれども、山瀬と呼ばれると、通じ合えていない頃に立ち戻ってしまう気がして落ち着かない。
潤んだ瞳で隼人を見上げる千鶴が、現在の現実を隼人に教えてくれる。そうして漲る自信。
「千鶴が、俺を縁としてくれることが、何より嬉しいんだ。暫く寂しい思いをさせてしまうかもしれないからな。贈り物くらい、させてほしい」
「わかった。甘えるね」
零れんばかりの笑顔もまた、男を奮い立たせる。筥迫の一つや二つ、安いものだ、と。




