同類とカタクリの花とコーヒー(前)
本編11話と12話の間。二人の初デートの模様を前後編で。
草木に目覚めを促す一陣の風。強く、あたたかく街に吹きつける。
珍しく、雲ひとつない快晴を迎えたからか、人々の足取りも心なしか軽く見える。
街の駅の窓からは、小高い丘と、そこに建つ白い壁のような学校が見える。窓の反対側、駅構内には何を模したのか理解しづらいオブジェが鎮座している。地元に縁のある芸術家が作ったそれは、この駅での待ち合わせの定番の目印だ。
そこそこ往来のある中、銀色に鈍く輝くものに近寄る少女の姿があった。
「あれ? 山瀬はまだだったかな?」
小首を傾げている少女は、細身だ。黒髪をゆるやかに巻いておろしている。細やかなチェック模様のポンチョを羽織り、厚手のロングスカートを翻す。普段彼女がかけている眼鏡を、今は身につけていない。
「いる。待たせるなんて野暮なマネは、したくないからな」
後ろから響くバリトン。少女は修練を重ねているため、気配に敏感だ。誰かなんて問うようなことはしない。
勘付けない気配の持ち主は非常に限られているため、待ち合わせの相手だと確信を持って振り向いた。
対象を認めると、普段あまり変えない表情を、わずかにほころばせる。
「私が待たせちゃったかな?」
「いや」
涼しい顔をする男、山瀬隼人が、どれだけの間彼女の事を心配しながら待っていたかは、少女に知らせる必要のないこと。
色素の薄さを際立たせるような、全体的に黒っぽい服を着た男は、無言で少女の手首を掴んで引いた。
彼女の歩みにあわせた足運びに、少女は無言で付き従う。
男が少女を引き入れたのは、待ち合わせていた駅近くの路地裏。
人通りのないことを確かめて、そっと彼女の唇を奪う。
「や、やま、せっ……!」
茹でタコよりも綺麗に赤く染まった、少女の頬。男の口には、少女が塗っていたリップクリームの色が移っていた。
「ガマンできなかった。……その格好も、悪くはないな」
「そ……そう」
恥ずかしさで沸騰しかけた少女の勢いは、あっという間にそがれた。
普段隼人が見る千鶴の服装は、制服、料理するときの割烹着、買物に出歩くときのトレーニングウェアくらいのものだった。オシャレをしている姿を見るのは、実際初めてのことだった。
隼人の『悪くない』は、普通の人の言うところの『とてもいい』に当たる。
彼に幾度もそう評された少女は、気付いているのかいないのか、頬を染めたまま目を背けるだけ。
少女、もとい、唐沢千鶴は、隼人の婚約者だ。互いの気持ちが向き合っていることを確認して、最近ようやく甘い関係を築いた。
天狗の本性や能力の一端を晒しても、彼に対する姿勢を大きく変えることなく、好きだと言ってくれた千鶴にどれだけ救われたか。
些細な事で折れそうになる隼人だが、千鶴の前では虚勢を張っている。今後もその姿勢は変わらない。
千鶴の、恋人らしいデートがしたいとの言葉を汲んで、今日の初デートに至っている。
「今日は、山瀬がこの周辺を案内してくれるのでしょう? どこに行くの?」
「こんな時くらい、名前で呼んでくれてもいいのにな、千鶴」
「だ、だって……学校でも言ってしまいそうだから、山瀬のままがいい」
千鶴は、隼人との婚約を、クラスメイトに伝えることを拒んだ。クラスで変に気を使われるのも嫌だし、お嬢様の護衛に支障も出かねないと頑なに主張し、隼人が折れた。
ただ、隣のクラス所属の生徒会長にだけは、近々報告する予定にしている。護衛のことも、天狗のことも知る彼には、むしろ伝えたほうがいいということで、二人の意見は一致している。
「今はいい。けれど、式の後、二人きりのときくらいは呼んでくれ」
「わかった。そうする。……その、わがまま言ってごめんね」
「いや。俺だって。お前が隣にいてくれるだけで十分だった筈なのにな。欲深くなっている」
中等部の入試で、意思の強そうな瞳を目にして以来、隼人を虜にしてやまない千鶴。
一方、千鶴は、お嬢様の護衛という任務に必死で、隼人の事を目に留めてすらいなかった。
隼人は、あの手この手で千鶴の視界に入るべく画策し、失敗を重ねていた。その苛立ちも各方面に適当にぶつけていたけれど、今はすっかり凪いでいる。
その代わりといわんばかりに、千鶴に対する独占欲や執着心が首をもたげる。
「時間も時間だし、まずは食うか」
日が上りきり、落ち始めた頃合だ。千鶴が隼人に連れられたのは、意外にも駅近くの商店街。
少し独特の風合いの、黒猫の看板が目立つ店に案内される。
丁度、皆が食事をしたがる頃合なのだろう。店内は満席で、立って席が空くのを待つ人も少しいる。
「ここ?」
「オムライスが悪くなかった。喫茶店だが、オムライス以外の食事も評判がいい」
「そうなんだ」
世の流れが禁煙に向かっている。ここもそうなのか、料理やコーヒーの匂いばかりで、葉が燻される匂いは届かない。
商店街の中でも、それなりに年季のある店らしい。使い込まれているけれど、きちんと手入れの行き届いた調度や床。壁紙は偶に張替えているのだろうか、割と綺麗だった。
「いらっしゃいませ、お席に案内できるまで、これを御覧になってお待ち下さい」
「ありがとう……って、あなたは!?」
張り上げはしなかったけれど、千鶴の声には驚きが含まれていた。
二人にメニューを差し出したのは、よく知った顔だったから。生徒会長と同じクラスの、永遠の二番手と評判の男子学生。
「僕はここでバイトしてるんだ。大丈夫だよ、誰かに言うつもりはない。山瀬君がずっと唐沢さんのことが好きだって知っていたけど、噂になったことなんてないでしょう?」
悪戯っ子のように、千鶴に笑いかけてくる。彼も隼人くらいに顔が整っていて、隼人以上に優しそうな雰囲気を醸している。
「オマエな……」
「ああ、僕、山瀬君と『同類』だよ。まあ、『別もの』だけどね」
ごゆっくり、の一言を添えて、かっちりと制服を着こなしたウェイターが場を離れた。
千鶴は、彼の一言に、一瞬目を丸くした。彼の意図が十二分に通じたのだ。彼自身の秘密の一部を晒して、隼人や千鶴について知りうる秘密を守る気がある、という。
逆に、彼の一端も漏らさないようにという、圧力も含まれる。
席を案内しに来たのも彼だった。同時に注文をとられる。
彼がテーブルに置いたコップから、キンと澄んだ音が鳴る。
「この店のオススメを聞いてもいいのかな?」
「厨房担当の話によると、今日はビーフシチューが会心の出来だそうです」
「じゃあ、ビーフシチューのセットで」
ウェイターは、伝票にチェックを入れる様子もさまになっていた。
コップの水に口をつけると、ほのかに柑橘の香りがする。ただの水ではなく、レモンが入れられているものだった。
「お飲み物は」
「紅茶、ミルクティーをホットで」
家ではコーヒーを飲む千鶴だが、外では紅茶をよく口にする。紅茶の方が違和感に気付きやすいからと、忍の顔をして隼人に説明したのはつい先日のことだった。そんな彼女は今日もやはり、注文は紅茶だった。
「そちらのお客様は?」
「スパゲティーミートソース。あとサンドイッチも」
「かしこまりました」
コップの水が半分くらいになり、話が弾んできた頃合で、注文の品が供された。
もう少し喋りたかったのに。千鶴は、そう表情で語っている。普段の食事の時には、隼人が一言も話さず黙ってしまうからだ。
「何か、妬けるな」
千鶴は目を見開いた。スパゲティをフォークに絡めながら、隼人が千鶴に話しかけたから。
「山瀬、珍しいね。ご飯を食べるとき、いつも黙っているのに」
千鶴の持つスプーンの動きが止まる。口に持って行くのをやめたからだ。
「……何か喋ったほうがよかったのか?」
「唐沢の家の食事、人が一杯で賑やかだったからね。食事のときに会話があるほうがなれていたかな」
「そうか」
隼人は、背筋をぴんと伸ばして、指先まで美しい所作でサンドイッチを口に運ぶ。
千鶴も、元々そう姿勢は悪くなかった。けれども、隼人につられて、食事中には妙な緊張感が生じるようになった。
「どうして、食事のとき、黙ってたのかな? そういう作法なのかなって思っていたけど、違うみたいだし」
「それは……その」
「いいにくいことなの?」
千鶴はビーフシチューを頬ばった。野菜と肉のうまみが程よく溶け込んだブイヨンは、市販のスープの素とは思えないものだった。
店内にゆったりとしたピアノ曲が流れている。会話が止まったことで、ようやく甘美な調べが二人の耳に届けられた。
「千鶴の料理だから、噛み締めて食べていた。言葉なんて出せない」
隼人は、婚約当初、千鶴に良い印象を持たれていないことを自覚していた。
いずれ破綻する可能性が高いと踏んでいたため、尚更、千鶴の手料理を大切に食べていたのだという。
「そうだったの?」
千鶴の頬に朱が差した。深く考えることなく作っていた千鶴としては、隼人の思わぬ告白が面映い。
「あー、まあ、それなら無理に食事中に喋らなくていいよ。食後に感想でもくれたら嬉しいけど」
「悪くなかった、以外言いようがない」
実際、千鶴の味付けは隼人の好みに近い。あれこれ注文しなくても満足しているのだ。
「それでいいから。好みの味付けとか、むしろ遠慮なく注文して欲しいよ。そっちのほうが助かるんだけど」
隼人は返事に窮した。
一度だけ塩味が強すぎると感じたとき、千鶴は沈んでいた。自覚あった事に対して、わざわざ言いたくなかったのだが……。
「そのままで悪くないのだが……善処する」
隼人は、千鶴の涙とお願いに、滅法弱かった。




