【11】相手……間違えてる
まばたきするくらいの短い時間で、私たちは明らかに別の場所に移動していた。
屋内。けれども、学校でも私の家でもない、見慣れない場所。山瀬が、私を抱きかかえたまま我が物顔で歩いている時点で、彼の住まいなのだと気付く。
山瀬が私の家を訪れても、逆は今までなかった。
シンプルな調度の置かれた和室。敷かれている畳が真新しく、藺草の匂いが強く香る。クラスメイトから見た山瀬のイメージにはそぐわないと思うけれど、今の私から見たら、とても山瀬らしいと思える室内だ。
山瀬が手ずからお茶を淹れてくれた。香ばしくて、どこか落ち着く風味のほうじ茶。釉薬が塗られただけと思われる、シンプルな湯飲みで供された。
オムライス以外は、案外和食系が好きな山瀬。飲物もそっち系だったんだ。
いつも勝手にコーヒーを淹れていたから、ちょっと申し訳ない。
でも、今更知っても悲しいかな、山瀬に振る舞う機会は、もはやない。
山瀬が出してきた素朴な木製の器には、少し不恰好なクッキーが盛りつけられている。
「何故、破棄しようとしているのか、俺には聞く権利くらいあるだろう」
「そうね」
理由を聞く気なんだ。山瀬は、彼自身に致命的な欠点があると、解釈したのかもしれない。
違うんだ。山瀬が悪いのではなくて、私の気持ちの問題だから。そこはきちんと伝えなければ。
私は勧められた座布団の上で、佇まいを直した。軽く咳払い。
「山瀬、好きな子がいるのよね?」
「ああ。だが、それにどんな因果関係が?」
「山瀬に似合わない、切なそうな顔をさせるくらい、その娘が好きなんでしょう? 一緒になれるようにがんばってほしいなって。そしたら名ばかりの婚約者なんて邪魔だよねって」
言ってほうじ茶に口をつける。猫舌な私でも飲みやすいくらいの温度だった。
「以前も言ったが、望みがない」
「もう、歯切れ悪いわね。じゃあ、新しい恋でも探す? 私の知人でよければ紹介するよ」
次の瞬間、背中に衝撃を受けた。視界に飛び込んだ山瀬と天井。私の目前に一瞬で移動した山瀬が、私を床に押し倒したのだと気付いた。
山瀬の顔が近付いたと思ったら、唇に硬くて、あたたかいものが触れた。……山瀬の嘴だ。
「相手……間違えてる」
山瀬の気が触れたのかな? キスは大切なものだと言っていたから、ちゃんと大切な人に捧げなきゃ駄目なのに。
「幻視をかけられたとしても間違える気はしない、唐沢千鶴」
「じゃあ、なに? 嫌がらせ?」
とある天狗が口付けをした相手には、別の天狗は契らないと聞く。それが事実なら、私を天狗との婚姻の駒に使えないように、嫌がらせをするには最適の手段かもしれない。
それに天狗自らの一生を費やすのは、非常に愚かしいと思うけれども。
「嫌がらせで自らの口吸いを捧げるつもりはない。口吸いは、我が身と人生を相手に捧ぐという意思表示に他ならない……まあ、俺の全ては、とうに唐沢千鶴に捧げているけどな」
先ほどの異質な気配のおじさんの言葉を思い出した。天狗の契り。あれはやはり山瀬のしわざ?
「何でまた私に……そもそも、山瀬の想い人に……」
私はトーンダウンしてしまった。
だって、山瀬が私を見る目が妙に熱っぽい。彼の想い人の事を話すとき、そっぽを向いた視線のように。
「他ならぬ唐沢千鶴が望むなら、婚約は破棄してやる。前にお前がいったように、恋愛をして、幸せを掴み取れ。唐沢千鶴」
「や……ませ?」
こんな顔の山瀬、知らない。
何かを堪えるような、それでいて慈愛に満ちた表情で、今にも泣き出しそうな山瀬。
「唐沢千鶴が相手だったから、進んで婚約を受けたんだ。けれどまあ、天狗の契りは俺が強引に結んだから、今更他の天狗は寄り付かないだろう。だから、唐沢千鶴の相手は、このままだと人間に限られる」
そして山瀬は、私の耳元である単語を囁いた。音だけでは言語も分からず、咄嗟に変換も出来ない、そんな音。
「生殺与奪を委ねよう。空のいちばん高いところって意味の……俺の真名だ。別の天狗と契るなら、真名を使って俺を殺すのも一興だろう。人と契り、天狗の助けが必要になれば、俺を呼んでも構わん。どこからでもひとっ飛びで来てやる」
私の血がサーっと引き、胆が冷えた。
天狗をはじめとする妖の類は、通り名とは別に真名を持ち、他者に隠している。力のある者に真名を知られたら、死にすら直結しかねない。そんな重要なもの。
私が山瀬隼人と呼んでいた天狗が、真名を私に差し出した。それがどういう意味をもつのか。
「婚約破棄が正式に決まれば、俺は目前から去ろう。休み明けには転校もしてやる」
山瀬は、心の内を明かしてくれた。今度は私の番。ぐっと握りこんだこぶしに、更に力が入る。
――キュウショウ!
強く念じたのは、教えてもらった彼の真名。山瀬隼人と呼んでいた天狗が、恍惚の色を滲ませて、目を細めた。
天狗の契りを交わした者が、天狗の真名を念じれば、契った天狗に届くという。
声に出さずとも彼に届いたのだとすると、やはり本当に契ってしまったのだ。
「春、里に行ったら近隣の散策に付き合ってもらうわ」
「……は?」
普段は嫌なくらいに自信たっぷりの山瀬が、虚をつかれている。
彼がポカンと目と口を開き、閉じられないさまは、ちょっと愉快だった。
「旅館からちょっと離れたところにある食事どころの、天ぷらそばがオススメなの。桜はまだ咲いていないけど、カタクリの群生地があって綺麗だから、案内するわ」
「何の話だ?」
「婚約破棄はやめる。だから、婚約者とデートしてみたくて誘っているの。ダメ?」
そう。私が婚約をやめたかった理由の一つ。人並みに恋して、その人とゆっくりと関係を育んでみたかった。
唐沢の本家に、山瀬との婚姻を受けいれると報告したら、あっという間に纏められてしまう。
それまでの期間がほとんどないとしても、デートの一つや二つ、してみたい。
「破棄を……やめる?」
「誰かを思っている山瀬を縛りたくなかったから、私は婚約を破棄しようとしてた。山瀬が私のことを好きで、自ら縛られるなら、破棄する理由はなくなったわ」
真名を他に奪われないように、私はキュウショウの事を、従来どおり山瀬と呼ぶ。
「私だって、好きな人の幸せを願ってたよ、山瀬」
「……唐沢千鶴は、肝心なところで鈍かったのだな。どうして俺が毎日、お前が作った料理を求めたのか、まさか気付いてなかったとは」
気付いたからこその拒絶だと思っていた。続けてぽつりと零した彼の言葉は、らしくなく弱弱しかった。
そこで私の目に留まったのは、少しいびつで焼き色が強めのクッキー。既製品とは思えない。恐らく、お手製のもの。
「お前が甘いものが好きだと聞いたから、いつか食べてもらえたらって思って、練習してた」
私の意図に気付いた山瀬が、そう呟いた。
「ねえ、これ、今、食べてもいい?」
「もちろんだ」
手製の菓子を食べたくないと言った山瀬。そんな彼が私のために、クッキーを作ってくれた。
私の胸に、じんわりと染みる。
シンプルながらも、ほろほろ口の中でとろけるクッキーに、ほうじ茶はよく合う。
「そういえば山瀬、女らしい人がタイプって言ってたよね?」
私は山瀬の腕の中で、疑問を口にしていた。
「唐沢千鶴は女らしい。細やかで、家庭科の時なんか、料理もソツなくこなしていただろう」
「でも、料理とかできる人はもっとするよ」
「皿洗いのこだわりも含めてだ。家事の一切をきちんとこなしている。そうでなければ、家があんなに過ごしやすくはならない」
山瀬の言う女らしさって、家庭的という意味合いだったのかな。
「でもさ、山瀬とよく一緒にいた人って、華やかな人が多かったから、てっきりそういう意味なのかと思ってた」
自他共に認める私の華のなさ故に、つい、山瀬の隣にいた人たちと比べてしまう。
「そんなもの、これからだろう。……まあ、今更別の輩がお前の魅力に気付くのも癪だから、俺としてはこのままの方がいいけどな」
「変なの。万が一、万が一の話よ。私がちやほやされるようになったら、焦ったりするの?」
「当たり前だろう! お前のことは俺が知ってたらいい!!」
私は笑い声を決壊させた。至極真面目な顔をして語る山瀬が、おかしくて仕方がなかったから。
またこんな風に同じものを食べて、一緒にお茶できて良かった。
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