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「春野!」
野太い男の声が教室に響き渡る。その声に、春野と呼ばれた少女がはっと我に返った。少女が慌てて姿勢を正すと、男、教師は呆れたような目で春野を見ていた。
「ぼうっとしていたな? 成績がいいからって油断していると足下をすくわれるぞ」
「ごめんなさい」
素直に頭を下げておく。教師はため息をついたが、しかしそれ以上怒ることはなかった。クラスメイトたちも笑うことはなく、むしろ誰もが意外そうに目を丸くしていた。
「いつも真面目なお前が珍しいな。何か悩みとかあれば聞くから、職員室にいつでも来なさい」
「あはは。私に悩みなんてあるわけないじゃないですか。私の頭は年中お花畑ですよ」
「それを自分で言うな。まったく……」
教師は苦笑しながら、授業を再開した。
教師が黒板に向かって数式の説明をしていく。少女はそれを聞きながら、また物思いに耽っていた。
春野響子。この春からこの高校に通う高校生だ。双子の妹もクラスは違うが同じ学校に通っている。最近は一週間ほど前に始めたVRMMO『ワンダーランド』のことばかり考えている。というより、そこで友人になった子のことをよく考えていた。
響子のゲームでの名前はセフィだ。友人はアリス。ゲーム内でおそらく唯一フィールドに出歩くNPC。最近はゲームの掲示板でもアリスの名前は有名になりつつある。その本人はそんなことなど知らずに今もどこかのフィールドを歩いていることだろう。
今は手紙のやり取りだけだが、前回の手紙にもうすぐ始まりの街に戻ることが書かれていた。もしかすると会えるかもしれない、と期待している。何の話をしようか、とばかり考えている。そのせいで授業に身が入らないというのも困ったものだが。
「響子。授業終わったわよ」
声をかけられて、響子はまたはっと我に返った。周囲を見回せば、昼休憩のためにお弁当を広げ始めている。いつの間に授業が終わったのか。気づかなかった。
「なんか今日は心ここにあらずね。どうしたのよ」
「んー……。早く帰ってゲームがしたい」
「…………。響子の口からそんな言葉が出るとは思わなかったわ」
目の前の相手、友人の長谷川天使を見る。髪型をショートカットにしている快活そうな少女だ。ちなみに天使と書いてエンジェルと読む。本人はこの名前を本気で嫌がっているため、名字で呼ばないと怒られるのはこのクラスの常識となっている。
響子は長谷川のことはゲームでの名前で呼んでいた。
「まあ、今日はちょっと楽しみなことがあるせいでね。アリスに会えるかもしれないから」
「ああ、あんたがこの前言ってた子ね。話を聞いた時はついにおかしくなったかと思ったけど、ここまで有名になると疑いようがないわね」
「そんなこと思ってたの!? まあ、うん……。今度、ローズにも紹介してあげる」
響子がローズと呼んだ友人は、期待しておくわ、と薄く微笑んだ。
授業が終わり、響子は急いで帰りたい気持ちを抑え、隣のクラスへと向かった。ホームルームが終わっていることを確認してから教室の扉を開けて中に入る。響子が入った瞬間、誰もが響子を一瞥したが、しかし誰も何も言わなかった。いつものことだ、と。
響子は教室の奥、窓際の一番後ろの席へと向かった。そこに座っているのは、
「菜月。帰ろう」
春野菜月。響子の双子の妹だ。菜月は無言で姉を見ると、読んでいた本をかばんにしまい、立ち上がった。響子が先に歩き始め、菜月がそれに続く。
機嫌良く鼻歌を歌いながら歩く響子と、沈黙を続けたままその後に続く菜月。とても対照的な二人だ。双子とは思えない性格の違い。ちなみに双子だが顔立ちも違う。テレビで二卵性双生児がうんたらとか言っていたが、響子は詳しく覚えていないし興味もない。菜月は自分の大事なかわいい妹、それだけで十分だ。
玄関で靴を履き替え、校舎を出る。二人の自宅はここから三十分ほど歩いた場所だ。自転車で通うことも許可されているが、歩くことは嫌いではないので徒歩で通学している。
学校の敷地を出るまで会話はなし。これはいつものことだ。菜月は無言で歩き続ける。響子もそれを気にしない。
「あ、クレープ屋さんが来てる。菜月、寄り道しよう」
通りかかったスーパーの駐車場に、クレープ屋の車がとまって営業していた。響子は菜月の返事を待たずに、手を取ってクレープ屋へと向かう。拒否される場合はてこでも動かないので今回は菜月も賛成らしい。
クレープ屋で苺のクレープを二つ買い、一つを菜月に手渡す。受け取った菜月は、それでも無言だ。しかし気にした様子もなく、響子はクレープを頬張りながらまた歩き始めた。
そうして菜月が無言のまま自宅が見えてくる。大きくはないが小さくもない、二階建ての一軒家。両親は共働きのため、夜までここで妹と二人きりだ。
家の中に入り、電気をつける。そこでようやく、妹に変化が起きた。
まずは大きなため息をつき、そして一言。
「疲れた」
「はいはい。お疲れ様」
響子は苦笑しながら妹の頭を撫でてやる。菜月はくすぐったそうにしながらも、されるがままになっていた。
「お姉ちゃん。クレープありがと」
「どういたしまして。美味しかった?」
「ん……。美味しかった」
そう言って、菜月が柔らかく微笑んだ。姉のひいき目をなしにしても、自分の妹はかわいいと思う。
「ああ、もう! かわいいなあ!」
そう言って菜月に抱きつこうとすると、菜月から反撃で頭突きを食らった。うぐ、と短い悲鳴を漏らし、その場にうずくまる響子。菜月も自分でやりながら痛みに耐えられなかったのか、その場に同じようにうずくまり、小さく震えていた。
「ばかなことはいいから……。お姉ちゃん、ゲームは?」
「は! そうだった!」
勢いよく響子が立ち上がり、階段を全速力で駆け上がっていく。その後ろ姿を、菜月は複雑そうな表情で見つめていた。
壁|w・)こっそりタイトルを変更しました。
第三話はアリスの最初の友達、セフィ側のお話です。




