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「立てますか?」
あのドラゴンが何なのかは分からない。だが今はとりあえず助かったことだけは確かだ。レクスは大きなため息をつくと、アリスへと笑いかけた。
「ああ、立てるよ。ありがとう、アリスさん」
そう言って、アリスの手を借りて立ち上がる。そのアリスは大きく目を見開いていた。
「ん? どうした?」
「いえ、どうして私の名前を? まだ自己紹介していませんよね?」
どうやらアリスは自分が有名になっていることを知らないらしい。それも当然と言えば当然だろうか。プレイヤーが使う掲示板で話題になっているだけで、アリス本人は見ることができないものなのだから。
「アリスさんは俺たちの中では有名だからな。少なくともそのドラゴン、くーちゃんだっけ、その子を見ればすぐにわか……」
レクスの言葉が途切れる。思わず頬が引きつっていた。いつの間にかドラゴンの姿はさらに小さくなっていたためだ。小さなドラゴンはアリスの元まで飛んでくると、その腕の中に落ち着いた。
「同じドラゴンだとは思えないな……」
レクスの呟きに、アリスは苦笑しつつも同意した。
「私も初めて見た時はとても驚きました。あの、そのですね……。どうして私が有名になってるんですか?」
「それはNPCで……」
そこまで言って、レクスは口を閉じた。さすがにNPCまでは通じないだろう。
「ドラゴンを連れてる人なんてアリスさんしかいないから」
そう誤魔化しておいた。事実、ドラゴンを連れているのはアリス一人だけなのでこれも嘘ではない。このドラゴンも有名になった原因の一つではあるだろう。
なるほどとアリスは納得してくれたようだった。アリスが腕の中のドラゴンを撫でると、ドラゴンは気持ちよさそうに目を細めた。確かにこれはかわいいと思える。ふさふさの毛皮などはないが、それでも撫でてみたいと思えてしまう。
「あの、お名前を聞いてもいいですか?」
アリスに聞かれて、そう言えばこちらはまだ名乗っていないことを思い出した。一方的に名前を知られているというのはあまり気持ちの良いものではないだろう。レクスは姿勢を正すと、アリスへと向き直った。
「ごめん。レクスだ。危ないところを助けてくれてありがとう」
「レクスさんですね。レクスさんはどうしてこんなところにいたんですか? この方向には小さな村があるだけですよ」
レクスの表情が凍り付いた。とりあえず北へ北へと歩いてきたが、どうやら北の街からは逸れていたらしい。都合良くたどり着けるとは思っていなかったが、それでもさすがに堪えるものがある。動きを止めたレクスを、アリスは心配そうな様子で窺い見ていた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、うん。大丈夫。北の街に行きたいと思ってたんだけどな……。せめて道があれば良かったのに」
レクスがそうぼやくように言うと、アリスはそうですねと同意するように頷いた。
「昔は道があったらしいんですけど、長いこと誰も使わなかったせいで分からなくなったみたいですね」
「なるほど……。北の街にはここからどう行けばいいかな。どれぐらいかかる?」
「ここからあと四日ほど歩けばたどり着けますけど……」
「四日か……」
ゲームで四日ということは、現実世界では丸一日ということだ。記憶が正しければ、解放は明日だったような気がする。間に合わないか、間に合ったとしても他のプレイヤーとさほど変わらなくなるだろう。無駄な努力をしてしまった、とレクスはため息をついた。
「分かった。ありがとう。アリスさんはこれからどこに?」
「私は近くの村までです」
「村か……」
このゲームには大きな街以外にもいくつか村が点在している。何かしらのクエストで始まりの街の側にある村には行ったことが何度かあるが、本当に何もない村だ。家と田畑しかない。その雰囲気がいい、と村を拠点にするプレイヤーも中にはいるが。
「私もお仕事があるので街には行けませんけど……。近くの村でよければ、一緒に行きます?」
アリスがそう提案してくれる。今から間に合うかも分からない北の街に向かうよりは悪くない提案だと思う。それに、一人で行動しても死に戻りの可能性もある。そこまで考えて、レクスはアリスに頭を下げた。
「お願いします」
「はい。お願いされました」
おどけたように言って微笑むアリス。その笑顔にみとれてしまいそうになる。固まったレクスを不審に思ったのか、アリスが小さく首を傾げた。
「どうかしました?」
「え? あ、いや……。何でも無い」
赤くなった顔を誤魔化すために顔を逸らしておく。アリスは不思議そうにしていたが、追求してくるようなこともなかった。
「それじゃあ、くーちゃん。お願い」
ドラゴンがアリスの手の中から抜け出してくる。ふわりと宙に浮かび、レクスを見つめてきた。つぶらな瞳で、アリスの真似でもしているのかかわいく首を傾げて見せる。
「撫でてもいいですよ」
「そ、そう? それじゃあ……」
恐る恐るとドラゴンの頭に触れてみる。特に嫌がる素振りは見せない。ドラゴンはしばらく撫でられていたが、やがてもう終わりとでも言うかのようにそっと体を離した。
レクスはドラゴンを撫でていた自分の手を見る。ドラゴンの方から身を離したことに少しだけ残念に思ってしまい、ため息を漏らした。そうして視線を上げれば、大きくなったドラゴンがそこにいた。
「うお……」
分かっていたことなのに思わず身を仰け反らせてしまう。その反応にアリスは小さく笑みを零すと、身をかがめたドラゴンに乗った。
「どうぞ」
アリスがそう言って手を差し出してくる。レクスは少し戸惑いながらも、その手を借りてドラゴンの背に跳び乗った。
二人が背に乗ったことを確認したドラゴンが翼を大きく動かし、ゆっくりと浮上していく。しばらくはこのまま空の旅になりそうだ。
「落ちないように気をつけてくださいね。もしかしなくても、多分死んじゃいます」
レクスの表情が凍り付いた。ファンタジーらしく落下防止の魔法でもあるだろうか、と思っていた矢先にこの言葉だ。落ちたらそのまま終わりらしい。
「怖ければ私の体にしがみついてくださいね」
自分の目の前に乗るアリスを見る。戦闘などとは無縁なのだろう、細い体だ。さすがに怖いからと女の子にしがみつくような情けないことはしたくない。
大丈夫、と言おうとしたところで、レクスは視線を下げた。
いつの間にこれほど高く浮いたのか、地面がとても遠くなっている。十階建てのビルの屋上に立ったとしても、これほど高くはないだろう。ここから落ちれば、痛みはなくとも気を失いそうだ。
前言撤回、予想以上に怖い。怖すぎる。
「ご、ごめん」
そっとアリスの体に腕を回す。アリスは苦笑するだけで返事はしなかった。
そうして二人の短い空の旅は始まった。