第七話 それぞれの思惑とか信頼とか生態
1
「さて。どうにも怪しい」
僕は一条さんの家にいた。
ここ最近、学校の帰り際に一条家に寄り、珈琲を一杯頂くのが習慣になっていた。
一条さんが転校して来てから早一ヶ月。
不審者の件も、街で起きた事故も、良く考えると謎が多い。
「あんたが探偵の真似事するのは勝手ですけどね」
一条さんは珈琲のお替わりを注いでくれた。
「危ない事はしないで頂きたいですわ」
「言葉遣いが変ですが?」
「たまにはね」
「たまに?」
「……あんたは、いちいち私にケンカ売るつもりなの?」
「退屈な日常には刺激が必要だよね?」
「もういい!」
一条さんはキッチンに引っ込んでしまった。
さて。
先生方の『巡回作戦』が功を奏したのか、あの事故以来、事件事故などは起きていない。学園生活も徐々に落ち着きを取り戻しつつある。
その一方で、僕の中で疑問が膨らみ出した。
昨日は木曜日で、今日は金曜日。そして明日の土曜日は祝日だ。つまり土日を含めて二連休だ。進学校の側面を持つ一条学園は土曜日も午前中だけだが授業がある。大変貴重な連休なのだ。僕がこうして一条さんの家でくつろいでいるのも、一日分の余裕があるからとも言える。
で、何が疑問なのか。
それは橘先生だ。
橘先生は理科の教師で、いかにも研究者といった雰囲気の持ち主だが、突発的に小テストを実施する油断ならない先生だ。
一条さんが転校してきて間もない時、学園では『不審者騒ぎ』の真っ最中だった。
それを取り押さえたのが一条さん。
偶然その場に居合わせたのが橘先生。
関係各位への連絡や手配をしたのも橘先生。
手際がいいと取れなくもない。
そして、先日のトラック暴走事件。
しかも、そのトラックは無人だった。
その後の警察の解析結果で、トラックには身障者用の装置が組み込まれ、それを制御する装置が発見されたらしい。らしいと言うのは装置が自爆してしまったからだ。警察は飛び散った破片から当該装置を割り出した。日本の警察の技術力はすごいなぁと感心すると同時に、犯人の用意周到さにも驚いた。
素材となるトラックは廃棄処分されていたはずの車両。ナンバープレートもない。
制御装置を手がかりにしようにも、普通に市販されている民生品では捜査は難しいだろう。
──まぁ捜査自体は僕の仕事じゃないし。
僕が出来るのは、こうして一条さんの家で思索にふける事くらいだ。
あの日。
事件当日、僕と一条さんは現場近くにいた。
そして現場を見た。正確には、見たのは僕と近藤だ。一条さんは見ていない。見ていないが、大体の状況は察しているだろう。
散乱する瓦礫。飛び交う悲鳴。
そんな中、僕は橘先生を現場で見た。
一瞬だった。
視界の端に見えた橘先生は、もう一度見た時はいなくなっていた。
橘先生に野次馬根性が備わっているとは考えにくいので、偶然居合わせただけなのかも知れない。
でも。
あれだけの事故だ。自分の学校の生徒を見かけたら、まずその安否を気にするだろう。そんな薄情な先生ではないと思う。
でも橘先生はそこから姿を消した。
一体なぜか。
これはまだ結論らしい物がないので、一旦置いておく。
分かる事から整理しよう。
橘先生は事故の起こる前の週に、先生たちのミーティングで不審者の件を持ち出し、休日に街を巡回する事を提案していた。
その時は却下されたが、トラックの暴走事件が発生したせいで安全宣言は遠のき、休日の巡回が橘先生の提案通り実施される事になった。
生徒の安全を第一に考えるとても素晴らしい提案だが、生徒には不評だろう。休日くらい学校の事を忘れたいヤツだっているだろうし。
さて。
事故当日に戻ろう。
当日、事故発生時からの時系列からはズレるが、僕が確認した限りでは四人の生徒が現場近くにいた。僕と一条さん、近藤。そしてクラスメイトの三浦さんだ。
三浦さん以外は事故直後を見知っている。
なので三浦さんに焦点を当てる。
三浦さんは事故の直前、橘先生と会っている。そしてこう言われたと言う。
『一人で街に出るのは感心しないな。今日は大目に見るが』
字面にすると別におかしな点はないように思える。
でも疑おうと思えば、一点だけおかしな言葉がある。
『今日は大目に見る』
なぜ『今回』と言わなかったのか。なぜ単純に回数ではなく『今日』と言う、わざわざ特定の日を表す言葉を使ったのか。
「なーにブツブツ言ってんのよ」
こつんと頭を叩かれた。奥に引っ込んでいた一条さんが戻ってきた。手には、クッキーを乗せたトレイがあった。
「いや、色々考えててね」
「あんたの色々って何だろう?」
一条さんは、クッキーを囓りながら、僕の正面に座った。
頤に両手を当て、じっと僕を見る。
「……そんな目で見ないでよ。照れる」
一瞬で一条さんの顔が真っ赤になった。
「なっ! あんた、そんな目で私を見てたのっ!」
「橘先生の事を考えてたんだよ」
「話が飛んだわね」
「飛ばしたからね」
会話に数瞬の間が開いた。
「あんたさ」
一条さんはため息をついた。
「もう一ヶ月くらい経つでしょ?」
「そうだね」
「あれから何も起きてないでしょ?」
「そうだね」
「まだ気にしてるの?」
「うーん。気にしてると言うか、引っ掛かるんだよなー」
ふと窓に目を向ける。
鉢植えのハーブだろうか、いくつか植木鉢が窓辺に並んでいた。
ふいに、玄関扉が開く音がした。
「今帰ったぞ」
野太い声がした。理事長がご帰宅されたようだ。
パタパタと音を立てて、一条さんが玄関に向かった。
「お帰りなさい、お祖父さま」
「ああ、ただいま。おお、結城君が来ているのかね」
「ええ」
「どれ、では年寄りは奥に引っ込むとしよう」
「いやそのそんなんじゃなくて、違うの!」
「はは、千寿はすぐ顔に出るな。わしにも珈琲を煎れてくれ」
「もう……」
声だけだが、家族の会話と言うのは、傍から見ると何か気恥ずかしい。
「理事長、今日は帰って来るの早いね」
僕は玄関から戻ってきた一条さんに、特に意味なく声をかけた。
「そうね。なんでだろ? いつもならもうちょっと遅いわよね?」
一条さんはそう言いつつ、キッチンに引っ込んだ。理事長の珈琲を用意するためだろう。
理事長は、いつもなら僕が帰る時間になると、すれ違いで帰宅して来る。
──今日は、僕がぼけーっとしていた時間が長かったかな?
まぁ、理事長がいたからと言ってここにいちゃいけないとか、そんな雰囲気ではない。帰り際に理事長が帰って来る。そして挨拶を交わす。それがすっかり日々のルーチンに組み込まれている僕なわけだ。
「たまには早く帰る事もある。用もなく理事長室にいても退屈だしな」
理事長が上着だけ脱いで、リビングにやってきた。
「どれ、わしも若い者の会話に混ぜてもらおうかな」
「お邪魔してます」
「こちらこそ、だな。じゃじゃ馬の相手は大変だろう?」
「慣れました」
「はは。それは頼もしい」
キッチンの奥から一条さんが何か叫んだようだが、僕は無視した。
「千寿がここにきて一ヶ月。どうだ? 千寿はうまくやっているかね?」
「そうですね、クラスの皆とも打ち解けてきたかな、と思います」
「特に君にかね?」
「お祖父さまっ!」
一条さんが珈琲をトレイに乗せたまま、抗議の声を上げた。
「結城君は、学級委員長なの! クラスメイトの人間関係に責任がある立場なの!」
いつそんな責任が職務内容に追加されたんだ?
「はは。そりゃ大変だ。結城君、君とはいずれじっくり話をしないといけないようだな」
そう言って、理事長は片目を瞑った。何かのサインらしい。
一応確認してみた。
「集団下校って、いつまで続くんですか?」
「当面は続けないとな」
安全宣言はまだ出来ない。そう言う事らしい。
「──千寿、そろそろ夕食の支度を、と言いたいところだが、どうだ? 今日は外に食べに行くか?」
「え?」
「もちろん、結城君も一緒だ」
「はい?」
僕と一条さんは声を揃えて疑問を投げかけた。
「無論、結城君の都合もある。どうかね?」
「あ、ええ、僕は家に一本電話入れればそれで」
「なら決まりだな。千寿、着替えてきなさい。それとタクシーを呼んで……ああ、それはわしがするか」
どうやら家の固定電話がある場所は一条さんの行動範囲外らしい。
「いいわよ、携帯からする」
「そうか? では頼むか」
「はーい」
一条さんは、家の奥にパタパタと小走りで姿を消した。
「……部屋とリビングは何とかなるのだが」
「……大変ですね」
「まぁ、これも慣れだ。君ももう慣れただろう?」
「ええ、まぁ」
「そこでだ」
理事長が急に話題を変えた。
「わしの秘書を知っているな?」
「顔だけは」
「どうも学園周辺で不穏な動きがある」
どうやら、秘書の人に近辺捜査させているらしい。
「秘書さんは、本当にくのいちなんですか?」
お互い会話の内容を補完しながらなので、傍から見れば何の事か分からないだろうな、と思った。
「『墜とし屋』と言う『裏』の仕事がある」
「……先月の不審者騒動がそうだって事ですか?」
「素行に問題があった」
柔道部の元・顧問だけあって、言葉遣いや生徒に接する態度に問題があったのかも知れない。
「秘書さんが?」
「瀬川茉莉だ。独身、二五歳。まぁ君は守備範囲外だろうがな」
「……瀬川さんは土日お休みですよね?」
「なぁに、月曜の朝で構わんよ。珈琲でも飲みに来るといい」
どうやら何か進展があったようだ。
「お待たせしました。今タクシーが来るって。結城君、家に連絡は?」
「あ、ええとこれからするところ」
「早くしてよね。店の予約三人分入れたから、キャンセル出来ない」
どうやら行きつけの店があるようだ。
「ああ、了解」
そう言って僕は玄関から外に出た。家の人間に連絡するだけなのだが、何となくその場ではかけ難いなと思ったからだ。
呼び出し音が数回。
『はい、結城ですが』
母が出た。
はて。何と言ったらいいのだろう?
僕が受話器片手に、どう切り出したものか逡巡していると『誰かと食事して来る。そう言いたいのかしら?』と母。
何で僕の周りは先読みする人間が多いんだろう?
「ああ、ええと。だから、今日の晩ご飯は要らない」
『何だかサラリーマンの言い訳みたいねぇ』
意味が不明だった。
「とにかく、そう言う事で」
『あ、待って』
電話の奥で、ガサガサと音がした。
『香川から伝言があったのよ』
「香川先生から?」
香川先生は、僕の母親の大学の後輩で、未だに頭上がらない。当時何があったのかは怖くて訊けないが。
『明日、街にいるから出て来い』
「は?」
『学級委員長は大変ねぇ』
何てこった。
せっかくの二連休が台無しだ。
「……それ、聞かなかった事に出来ない?」
『それは勿体ないわね。香川に貸しを作っておいて損はないわ』
恐ろしい母親だと思った。
「でもそれって、僕が家に帰ってからでもいいんじゃない?」
『どうせ遅くなるんでしょう? 休みの日はあんた朝遅いし。それに伝言を無視する可能性がある』
見抜かれてる。
「あーはいはい。分かりましたよ」
僕は投げ遣りに『香川先生の伝言』を承った。どうせ巡回の手伝いでもさせる気だろう。
『じゃ、ごゆっくり。理事長に宜しくね』
通話が切れた。
僕は『誰と』『食事』するか言っていない。それどころか、帰りがけに一条さんの家に寄っている事も言っていない。
母親の勘ってヤツだろうか?
つくづく謎の多い母だった。
2
「場違いじゃないかな」
僕は端的に感想を漏らした。
外で食事しようと言われてほいほい付いてきたが、まさか高級レストランだとは思わなかった。しかも個室だ。
「こ、こういう所に良く来るの?」
「ん? 私は一人じゃ来られないから、お祖父さまの気まぐれね」
そう言う一条さんは落ち着き払っていた。一介の高校生が入れるような場所ではない。これも慣れだろうか。
「まぁ、何事も経験だ。きっと後で役に立つ」
理事長は、深そうでそうでもない台詞を吐きつつ、分厚いメニューを手繰っていた。
「結城君は魚は好きかね?」
「ぼ、僕は別に何でも……」
ラーメンとかはないんだろうか?
「じゃ決まりだ」
理事長が指を鳴すと即座にウェイターが現れた。
「いらっしゃいませ。お決まりですか?」
「ああ、これと、これ。ワインは白だな。オススメはあるかね?」
「一八九〇年物がございますが」
「ではそれにしよう。結城君、アルコールは経験あるかね?」
とんでもない事を言い出した。
「一応未成年なんですが」
「誰も見とらんよ。わしが目を瞑ればいいだけだ」
問題発言だと思った。
正直に言うと、酒類はこっそりとヤッていた。机に並ぶ本のカバーの一つはダミーで、その中にバーボンの小瓶があるのは僕だけの秘密だ。
「では、以上だ」
「畏まりました」
ウェイターは、静かに部屋を去った。
「たまには刺激がないとつまらんだろう?」
ニッコリと笑う理事長。
そこには教育者の顔はなかった。
「それに、色々話もあるからな。千寿もいた方がいいだろう」
「え? 私も?」
「当事者だからな」
それを聞いた一条さんは大げさにため息をついた。半分は予想していたのだろう。
「千寿と結城君の情報。それとわしが調べた情報。これらの擦り合わせをしたい。いいかね?」
いいも悪いも。ここまでお膳立てされたら、洗いざらい吐くしかない。
僕は顔を上げ、理事長を見た。
「いい目だ。では料理が来る前に聞ける分を聞いておくかな」
こうして状況整理と推理合戦が始まった。あろう事かアルコール入りで。
3
「まず、こちらのカードを開示しよう」
理事長はワイングラスに口をつけた。
「無人トラックの件は瀬川が調査中だ。現状分かっている事だけ明かしておこう」
瀬川さんは、本当にくのいちなのかも知れないと思った。
「年頃の男子は、ああいうメカに興味があるだろう?」
「そうですね」
「ならば分かると思うが、電波で誘導──ラジコンカーは、近距離でないと制御が出来ない」
「つまり現場に犯人がいたって事ですか?」
「そうだ。まぁ、装置自体が木っ端微塵では推論の域を出ないがな」
「でも、あの人混みの中で操作するのは目立ちますよね?」
「何も操作する必要はない」
ああ、そうか。
「前進、後退が出来ればいい。それならポケットに入る程度の装置で操作可能。そう言う事ですか」
「あくまで推論だよ」
理事長はワイングラスをあおり、空のグラスに自分で注いだ。
「わしにとっては、そんなメカニズムの事は問題ではない。問題なのはその目的だ」
「そうですね」
「そこでだ」
理事長は、身を乗り出した。
「君の考えを聞きたい」
「僕のですか?」
「千寿と君の意見は一致している。そうだろう?」
理事長は、僕と一条さんの顔を見た。
「それなら、整然と説明出来る君に訊いた方が早い」
「……お祖父さま?」
一条さんの語尾が上がった。
「おっと失言か。でもそうだろう?」
「……もう」
一条さんは頬を膨らませ、背もたれに寄りかかった。ふてくされたらしい。
「で、どうなんだね?」
「はい。まず目的。これはまだよく分かりません。そこで、ここ一ヶ月ほどの間で起きた事を整理してみました」
「ほう」
「不審者騒動は一応の解決を見ました。一条さんが不審者をねじ伏せたからです」
「な、ねじ伏せたわけじゃなくて、軽く手を捻っただけだってば」
僕は一条さんの抗議を無視して続けた。
「そこに橘先生が現れ、警察や関係者への連絡を行いました。手際がいいなと、その時は思いました」
「その時?」
「はい。その時です。一旦これは置いておきます。次に無人トラックの事件。僕と一条さんは、買い物で街に出ていました。そこで事故に遭いました。遭ったと言っても、事が済んでからですけど」
「でも、近藤君のお姉さんが怪我して」
「うん。それはまぁ、大した事なくて良かったと思う。──話を戻しますね」
「ああ、続けてくれ」
「はい。実はあの場には、僕と一条さん、同じクラスの近藤、そして三浦さんがいました」
「ほう」
「三浦さんは、事故発生の直前に橘先生に会っています。そしてこう言われたそうです。『一人で街に出るのは感心しないな。今日は大目に見るが』と」
「良く覚えてるわね」と一条さんが口を挟んだ。呆れ口調で。
「僕の特技なんだ。同学年の女子については、なぜか記憶力が発揮されてね」
「……随分都合のいい特技ね」
「まぁ、それはともかく」
僕は一条さんの怖そうな視線を受け流し、話を続けた。
「橘先生の言葉で、僕はちょっと引っ掛かったんです」
「『今日』かね?」
──うは、そこに気付くとは。
さすが理事長先生だと言うよりほかない。
「そうです。僕なら『今回は大目に見る』と言います。生徒に対してわざわざ日付を表す言葉を使うのは意味がないからです」
「三浦さんとかいう女子生徒の記憶違いという可能性は?」
「そう思って、彼女にもう一度確認しました。それでも『今日』と言うキーワードは揺らぎませんでした。ですので、今はそれを信用して話を進めます」
「分かった」
「その後、事故が起きました。無人トラックの暴走事件です。運悪く、近藤のお姉さんが怪我をしてしまいましたが」
「それをこの場で話すという事は、何かがあったのだね?」
「はい。近藤がお姉さんを見つけて駆け出したタイミングで、トラックがバックしたんです。危なく近藤が轢かれる所でした」
「なんと……そんな事が」
「はい。そして続きがあります。その直後、僕は橘先生を見たんです」
「……なんだと?」
「一瞬だけでした。視界の端に。そしてもう一度見ると、先生はいなかった。おかしいでしょう? 事故の現場にいながら生徒の安否を気にしない。近藤のお姉さんが怪我をしている。現場にいれば、救急車か警察の手配を考えるでしょう。実際、僕が通報しようとしたんですけど、先に誰かが呼んでいました。その時、やけに早いなと感じました」
「なるほど、そこで『その時』が出て来るのだな?」
「はい。感覚の問題だとは思うんですけど、僕が引っ掛かってるのは、そのタイミングなんです。手際がいい。何もかも疑うわけではないですけど、救急車の手配をしたのは、橘先生かも知れない。そうでなけば、あの時、あの場にいた理由がない。僕の意見はこれくらいです。一条さん、補足はある?」
一条さんは首を軽く振り、僕の想像通りの『補足』を口にした。
「どちらの事件にも、橘先生が共通項として登場してる。偶然かも知れないけど」
そう、偶然なんだ。ただ、偶然にしては出来すぎだ。
「ふむ……」
理事長は、胸のポケットからタバコを取り出した。
「お祖父さま、禁煙は?」
「今日だけ勘弁してくれ」
「……今日だけですからね」
理事長を睨む一条さん。場違いだけど、ああ、家族なんだなぁと思った。
理事長はタバコに火を点け、紫煙をくゆらせた。
「……瀬川の情報だが、橘先生は何かをする時、事前の準備を怠らない。何人かの生徒に訊くと、突発的に小テストを実施するそうじゃないか。しかも結構なボリュームの小テストをな」
「そうですね。あれは中間とか期末のテストとほぼ変わらないクオリティですね。ホント勘弁して欲しいですよ」
と、僕は泣き言を言った。
「つまり、それを宣言する前に、テストの内容自体は既に準備してある。突発的に小テストを実施したり、行き当たりばったりに授業を進めているようで、実は彼の中で年間スケジュールが出来ているのだそうだよ」
それは僕も感じていた。ただ、僕は橘先生じゃないので、その『年間スケジュール』とやらを読めないだけだ。
「どうも、どこか不思議な先生らしいな。橘先生は」
理事長はグラスを指で弾きながらそう言った。
「勤怠も授業も、非の打ち所がない。有能な先生なのだがね。香川先生は一方的に嫌っているようだがな」
香川先生?
なんでその名前が突然出て来たんだ?
僕と一条さんは顔を見合わせた。
理事長はニヤリを口元を歪めた。どうやら疑問が僕たちの顔に出ていたらしい。
「まぁ、それには理由があってな」
「は?」
「笑ってしまうほど単純な理由だ──馬が合わない。そう言う事らしい」
理事長はそう言って、くくっと笑った。
「失礼。つい笑ってしまったが、実はそれだけはないのだ。人間同士で馬が合う合わないは何で決まると思うかね?」
僕は即答した。
「性格ですか?」
「それもある」
一条さんがもう一つの回答を口にした。
「何かすごく失礼な事を言ったとか?」
「まぁ、それもあるだろうな」
理事長は何かを待っている。僕にはそう見えた。
という事は。
「人間の本能って、割とバカに出来ないですよね。女の勘とやらもそうですが」
僕はそう言って一条さんを見た。
「な、何よ」
「何でもないよ。何となくね」
「……なんか凄く失礼な事をされた気分だわ」
一条さんは頬を膨らませた。
「と、こういう事ですかね、理事長?」
「そうだ。人が人を疎んじる。それは誰かが誰かを嫌い、その場から消えて欲しいと願った時に生じる」
「? お祖父さま?」
「世間と言うのは表だけはないのだよ。裏がなければ表はない。学園の経営も大変なのだよ」
僕は一介の高校生だ。裏社会の事情なんて、知りたくもないし関わりたくもない。
「これは憶測だ。だから今日聞いた事は、酒でも飲んで忘れて欲しい」
そう言って理事長は、僕の前に置かれたグラスにワインを注いだ。
「裏の世界では、依頼があればその人物を消し去る仕事があると言う。『堕とし屋』と呼ばれている。恨みや嫉みをもった人間は、対象者をどうにかして『堕とそう』とする。そんな時に現れるそうだ」
「って事は、あんた! 私を実験台にしたなっ!」
「いやほら、話の流れ的にさ」
「だからって何で私なわけ? 別に『堕ちる』のは、あんたでもいいでしょ!」
「僕が『堕ちた』ら大変だよ? 一条さん、学校にも街に行けなくなるでしょ?」
「ぬぐ……」
「ははは。千寿がしてやられるとはな。爽快だ。家とは大違いだ」
「お、お祖父さまっ!」
一条さんは顔を真っ赤にして理事長を睨んだ。
もちろんそんな事では理事長は怯まない。
「千寿もいい相手が見つかったな。前の学校では味わえなかった経験だろう?」
「相手? このバカが?」
「バカバカ言わないで欲しいな。一応成績は中の上なんだよ?」
「見てなさい。私は一〇番以内に入ってやる」
「そう言ってますけど?」
「ああ、千寿はやると言ったら必ずやる。結城君、気をつけた方がいい。下手な事言うと足元を掬われる」
「ああもう!」
一条さんが立ち上がった。
「二人とも私をバカにするためにここに来たの? それとも和やかに食事するため?」
僕と理事長は顔を見合わせ、こう答えた。
「両方だ」「両方だよ」
「──く、こ、この……!」
一条さんは乱暴に椅子に座り直した。大きな音がし、ウェイターがすっ飛んできた。
「どうなさいました? お客様?」
「いや、何でもないよ。それより料理はまだかね? この子らはお腹が空くとケンカを始めそうなのでな」
「……か、畏まりました」
ウェイターは礼儀正しく頭を下げたが、目が笑っていたのを僕は見逃さなかった。
4
翌日。祝日なので学校は休みだ。でも僕は香川先生から呼び出されている。一人で街を巡回するのがどうにも癪に障るらしい。発案者が橘先生だからと言うのも一因だと思う。つまり僕は八つ当たりの対象だ。
それだけで済めばいいのだが、それを聞いた一条さんが、自分も連れて行けと言う。
一応学級委員長の立場、そして『ボディガード』として、危ないから家にいた方がいいんじゃないかと提案したが、あっさりと却下された。
曰く。
「私に一日中じっとしてろっての?」
理事長はゴルフで不在だと言う。どうして年配な方々は、休日になるとこぞってゴルフに興じるんだろう?
「じっとしてた方が安心するけど?」
「誰が?」
「主に僕が」
「あんたの事なんか知った事じゃない」
「んー、じゃ理事長が心配する」
「お祖父さまは、あんたにくっついてれば安心だとしか言わない」
「厄介払いされたか……」
「何ですって?」
「いや? 何でもない。まぁ考え方を変えれば、見える範囲にいてもらった方が安心するかも」
「誰が安心するのよ?」
「主に僕が」
「……」
もう何も言うまい。一条さんの目がそう言っていた。
「とにかく今日は面倒だよ。香川先生の相手をしなきゃいけない。下手すると替わりに巡回して来いって言われるかも」
「……」
一条さんは答えない。本当に何も言わない気らしい。
まぁいいや。
どうせただ街中うろつくだけだし。
僕たちは終始無言のまま、香川先生との待ち合わせ場所に到着した。
五分早く着いたはずだった。
なのに香川先生がいない。
どう言う事?
僕は香川先生の携帯へ連絡を入れた。
呼び出し音が延々と鳴り続けた。
三〇回は鳴らしたと思う。
『……はぁい、かがわですけどー』
眠そうな声だった。
──コノヤロー!
僕は叫びそうになるのを何とかこらえた。周りに人がいるからだ。一応僕にだって羞恥心とか体面ってのがあるのだ。
冷静に、冷静に。
「香川先生? 今日は何曜日でしたっけ?」
『ああー、その声は結城かぁ』
人の話を聞いていない。完全に寝ぼけている。
落ち着いて。冷静に。
「今日は巡回の当番じゃないのですか?」
声が固くなっているのが自覚出来る。後一回で限界を超えそうだ。
『……(がさごそ)おや時計はどこに(がさごそ)おお、おおおお?』
僕は電話を切った。
そして一条さんを見た。
一条さんは何も言わなかった。
ただ大きくため息をついた。
──この『貸し』はデカイですよ、香川先生!
結局、香川先生が姿を現したのはそれから二時間後だった。
5
「すまん!」
香川先生は、地に頭がつかんばかりに頭を下げた。
でも土下座ではなかった。
「先生」
僕は極力優しい声色で語りかけた。香川先生は恐る恐る顔を上げた。
「巡回経路はどうなってますか?」
「あ、ええとだな。それはまず、この通りから初めて、突き当たったら一本ずらしてだな……」
だんだん語尾が小さくなり、しまいには聞こえなくなった。
つまり。
ノープランだった。
「一条さん」
「うん」
「とりあえず香川先生は放っておいて、やれる事をしよう」
「そうね」
僕たちは香川先生を放置し、街の中心部に向け歩き出した。
「おおーい、置いていかないでー、お願いだからー」
遙か彼方から香川先生の声が聞こえた。哀しそうだった。
「……仕方ないよね?」
「……そうね」
と言う事で、僕と一条さん、そして香川先生の立場は逆転し、街中を巡回する事になった。
「とりあえず、先月の事故現場かなぁ」
「元々そのつもりだったんでしょ?」
そう。
どうせ巡回するなら、まず見ておきたい場所があった。
先月起きたトラックの暴走事故。
事故以来、街中に出ないようにしていたので、実のところ香川先生の手伝いをするのは好都合だった。
「まぁ、ほとんど痕跡は残ってないと思うけど、一応ね」
「お前ら、何の話をしている?」
香川先生が割り込んできた。一応、大人としてのメンツを保とうと必死らしい。
「いえ、例の事故現場。近藤のお姉さんが怪我したでしょう? 気になってたんです」
僕は嘘八百を言った。近藤と近藤のお姉さんには悪いが。
「そ、そうか。それもそうだな。そもそも巡回が決まったのもその事故のせいだしな」
最近気付いたのだが、一条さんは僕の前を歩かなくなった。
僕と一条さんは肩を並べて歩く。方向転換すると、わずかに遅れて一条さんがそれに倣う。
──主従関係が改善したと思っていいのかな?
何となく嬉しかった。
「ところで」
「何でしょう?」
「結城はいいとして。なんで一条がいるんだ?」
香川先生の疑問はもっともだ。
僕だって本当は連れて来たくはない。
でも、家にいても一緒にいても、結局心配になる。それに、毎日の登下校も一緒だ。つまり、お互い顔を会わせていないと何となく不安になる。たぶん一条さんもそう思っているだろう。絶対に口には出さないだろうが……。
「たまたまです」
「そうです。ちょうど用事があったので、そしたらばったりと」
一条さんの方向音痴の事は、香川先生は知らない。わざわざ弱点を晒す必要はない。
「そうか。まぁ、一人より三人の方が、巡回の意義が高まる。協力に感謝だな」
僕が電話しなかったら、先生はその中に含まれていないんですよ?
と心の中だけで呟いた。
「ところで先生」
「なんだ、結城」
「橘先生を毛嫌いしてるってホントですか?」
直球を投げてみた。この先生に変化球は逆効果だ。もたらされる回答が混乱するだけだ。
「ああ。嫌いだ」
この先生はホントに表裏がない。
「アイツはどうも私と合わない。職員会議でもことごとく対立するし。私だけじゃないぞ? アイツは何につけても理詰めで来るから、他の先生も辟易してる。言ってる事は正論なんだが、どうもなぁ」
「理系と文系の違いですかね」
「いや、あれは人間としての考え方が違うのだと思うぞ? 何かこう、うまく言えないが、私らと違う思考回路を持っている。表の橘と裏の橘がいる気がしてな」
表と裏。
何だろうか。
実際、僕もそう思っている。
事故当時の橘先生と学校で会う橘先生は、違う人物のような気がしている。
「一条さん」
「なに?」
「一条さんが一番客観的な意見を言えると思う。どう思う?」
橘先生が、とは言わなかった。
「そうねー。私は学校でしか見た事がないから何とも。でも、授業の進め方が他の先生と違う。いつも先を読んでる感じ。誰かに質問しても、その答えが予測通りで次に進む。効率のいいやり方をしている印象があるかな」
なるほど。
自分のコントロール下で授業が進められるなら、教える方も楽だろう。香川先生とは大違いだ。
「……なんだ、私の授業に不満でもあるのか、お前らは」
「いえいえ。やり方が違うかなーと思っただけですよ」
「そうか?」
とか言っているうちに、事故現場に到着した。
僕は目を閉じた。当時の風景が脳裏に浮かぶ。
そして目を開けた。
どこか変わったところはないか。
ぐるりを周囲を見渡す。
倒れていたソフトクリームの看板が新しくなっていた。
突っ込まれたビルの外壁は、真新しい建材で補修されていた。
元通りとはいかないが、特に大きな変化は見当たらない。
「一条さんの意見は?」
「人通りが少ない」
一条さんの感想は端的で的確だ。ここは街の中央。休日ともなればそれなりに人が集まる。
だが、何となく寂れている。事故の影響なのかどうかは判断出来ないが、人通りが少ない気がしたのは僕も同じだ。
「お前ら何をしてるんだ?」
「ここ、先日の事故現場なんですよ」
「ほう?」
香川先生は目を丸くした。驚いたらしい。
「会議では話題になったが、実際に来ると、何だなぁ……」
もうちょっと興味持って下さいよ先生……。
と、もう一回周囲を見たところで気が付いた。
人通りが少ない理由が分かった。
「ここってさ、休日になると、歩行者天国になるんだよね」
「そうなの?」
「うん。そうなんだ。ただ、バリケードとかそう言った車の侵入を阻止する設備がなかったんだ」
「へぇ……」
そう言って一条さんも周囲を見た。
分かったかな?
「人通りが少ないのは、皆が警戒してるから?」
「多分」
市で対策を練っていたりするんだろうか?
「先生?」
「あん?」
「ここのホコ天って、職員会議で話題になったりしました?」
「……うーん、なったような、ならなかったような……」
香川先生が当てにならない事は分かった。
「後で理事長に訊いてみよう」
と。
「あ」
香川先生が変な声を出した。
「なんです、いきなり」
「いや、そこに橘のヤローが」
──なぬ?
「どこです!」
「あそこの角……ってあれ? いない」
香川先生が指した『角』はホコ天の入り口だ。
でももう誰もいない。
「み、見間違いじゃないぞ? これでも視力は自信がある」
香川先生は狼狽えた。
「別に疑ってませんよ。この街のこの場所に誰がいたっておかしくないでしょう?」
「でも橘がなぁ」
「? どういう事です?」
「いや、アイツは人混みを嫌うんだ。だからこの間も街中を巡回するなんて提案出したのも、変だなぁと思っていたんだ」
嫌っている割には詳しい。いや嫌っているからこそか?
どちらにしてもこれは貴重な情報かも知れない。
香川先生の目が確かならば、だが。
「この辺はもういいだろう? 一応街を一回りして、今日はおしまいにしよう」
適当にも程があった。
まぁ不審者がいたとしても、香川先生がいれば大丈夫だろう。
結局。
この日は『適当』に『巡回』したが、特に収穫はなかった。
「平和だよなー」
香川先生がしみじみと言い、巡回任務は終了した。
「明日は、僕は付き合いませんからね」
「な、どうしてだ!」
「何で生徒が先生にモーニングコールしなきゃいけないんですか?」
「あ……いや。それはだなー」
香川先生は言葉に詰まった。言い訳が思い付かないようだ。
「まぁ、そういう事もある。先生だって人間なんだ」
──開き直ったな。
僕は母の言葉を思い出した。香川先生に『貸し』を作っておいて損はない。
「一条さん、明日って暇?」
「何で私に訊くの? しかも暇って何よ!」
いい加減歩き疲れたのか、機嫌が悪いようだ。言葉がツンツン尖っていた。
「……一応、明日も付き合います。ただし」
僕は香川先生に一本指を立てた。
「一分でも遅刻したら帰ります。一条さん、いいよねそれで」
「だから何で私に!」
「じゃ明日は家に閉じこもる?」
「う……」
一条さんは方向音痴なわりには行動派だ。家にいても移動範囲が狭いので退屈なんだろう。
「という事でいいですね? 先生?」
「分かった。一分だな」
「……先生。五分前行動って知ってます」
「も、もちろんだ。五分前だな。明日こそはちゃんと来る。大丈夫だ。教師を信頼しろ」
なぜか狼狽える香川先生だった。
6
翌日。
香川先生は三〇分遅れて来た。
「……先生」
「……言い訳はしない。すまん!」
これで『貸し』二つだ。
その日。
結局何も収穫なく(まぁ巡回なので、何かあっても困るが)、任務終了となった。
橘先生が現れるかなと言う期待はあったが、結局会う事はなかった。