第一話 迷子な彼女
1
僕はアスファルトを蹴り上げ、全力で走っていた。
学校まで残り二キロ。
僕はちらりと腕時計を見た。
──後五分!
そして絶望した。
──無理だ!
僕は足を止めた。
そもそも僕が、普段ならのろのろヨタヨタと歩いている通学路を、なぜ全力で走っていたのか。
それには理由がある。
僕は高校二年になってから、まだ一度も遅刻をしていない。
取るに足らない記録だが、僕にとってはこの『高校二年』が特別なのだ。
僕は学級委員長だ。クラスメイトの規範とならねばならない。
遅刻など言語道断。
さらに今日は転校生がやってくる。
その転校生は僕を見てこう思うだろう。
『学級委員長が遅刻ですって? なんて腑抜けなクラスなの?』
なぜ女子なのかは僕の都合だ。別に男子でも構わないが、それじゃ想像してもつまらない。
僕は連休明けの朝、布団の誘惑に打ち勝てなかった事を呪った。
目覚まし時計はきちんと責務を果たしていたというのに。
──まぁいっか。
遅刻したからって死ぬわけじゃない。死ぬような思いはするかも知れないが。
そう思い直し、とぼとぼと歩き出した。
──と。
四車線の幅広い車道を挟んだ反対側に同じ学校の女子生徒が突っ立っていた。この辺でブレザーの制服はうちの学校しかないからそれは間違いない。
ただ、違和感があった。
──何してんだ?
僕が全力疾走しなきゃならない時間帯に、その女子生徒は慌てず騒がず、ただただ突っ立っている。
僕は時計を見た。
リミットオーバー。僕の遅刻は確定した。
だがあの女子生徒はどうだろう?
先ほどと変わらず、顔をわずかに上を向け、じっと空を睨んでいる。
遠目だったが、なぜか顔だけははっきり見えた。
整った顔立ち。
色白の肌。
肩にかかった柔らかそうな髪。
正直、直球だった。
それはともかく。
──知らない顔だな。
顔に見覚えがない。と言う事は同級生ではない。そして遅刻を気にしているように見えない。
──と言う事は、彼女が転校生か?
自慢にもならないが、僕は同学年の女子生徒の顔は全て記憶している。さすがに全校生徒全ては無理だが。
その時だ。
僕は妙案を閃いた。
彼女が転校生だとしてこの時間だ。どうしたって始業時間に間に合わない。
それは僕も同じ。
しかしだ。
僕は学級委員長だ。
学級委員長ともなれば、それなりに発言力を持っている。はずだ。
全てが上手く行けば、お互いの遅刻の件を(主に僕の遅刻の件を)うやむやに出来る可能性がある。
それに。
色々理屈をくっつけたが、半分以上は僕の興味本位だ。
僕は交通法規を無視して道路を横断した。どうせ渡らないと学校に辿り着けない。でも良い子は真似してはいけないのだ。
そして、自然に──極々自然に、彼女に歩み寄った。
「どうかしました?」
一応初対面なので、丁寧に話しかけたつもりだった。
だが。
彼女の返答は僕の予想の斜め上をいっていた。
「ねぇ、北はどっち?」
──キタ?
『北』の事だろうか?
「北よ、北。North。何語で言えば分かるの!」
僕は控えめに言っても背は高い方ではない。大体彼女と同じくらいだ。足だってそんなに長くない。髪の毛だって真っ黒だ。
──一体何人に見えたんだろう?
首を傾げるしかない僕だった。
2
「『北』ですか」
僕の特技は女子生徒の顔認識だけではない。
人呼んで人間GPS。
今自分がどこにいるのかどっちを向いているのかはっきりと知覚出来る。
この能力(?)を自覚したのは、小学生の時の林間学校でウォークラリーをやった時だった。同級生はコンパス片手にあっちだこっちだと右往左往していたが、僕の班は迷う事なくチェックポイントを通過し、トップでゴールに辿り着いた。
その時は勘がいいとか運がいいとかその程度の物だったが、最近はより具体的な現在位置を把握出来るようになっていた。
なので、彼女の問いに応じる事は簡単な事だった。
「あっちですね」
迷いなく『北』を指差すと、彼女は「あっちね」とだけ言い残し、僕を置いてとっとと歩き出した。
お礼の言葉もなかった。
「れれ? ちょ、ちょっと?」
慌てて彼女に追いすがる。
「あのですね」
「大丈夫。方角が分かれば後は迷わないから」
「はい?」
どうにも会話が噛み合わない。
仕方なく、彼女の後ろについて歩き出した。
でもこの道は学校には向かっているが遠回りになる。
──これは余計なお世話かなぁ?
と思いつつも口は止められない。
「あのー」
「何?」
彼女は立ち止まり、面倒そうに振り向いた。
「そっちだと遠回りですよ。こっちの道の方が近い」
「そんなの学校から貰った地図に描いてない」
──地図?
「ちょっと見せてもらっても?」
彼女は無言で四つ折りされたプリント突きつけ、再び歩き出した。
僕は彼女に追いすがりながら、がさがさとプリントを広げた。
それは確かに通学ルートを示す地図だった。分かりやすくするためなのか、出来るだけ大きめな道を通るルートが赤い蛍光ペンでマーキングされている。
でも、この土地に住んでいる人間なら、このルートは通らない。
そしてそのプリントに書いてある『二年二組』の文字。
同学年で同じクラス。これで彼女が転校生である事が確定した。
そして僕が立てた作戦の問題点のほとんどが消えた。
さらに何と言っても。
「一条……千寿さん? それとも千寿さん?」
「……初対面だと思うんだけど?」
仏頂面が振り向いた。
「いや、プリントに書いてあるし。二年二組、一条……ええと」
「ちず」
「ちず?」
「……もう一回言わなきゃダメなの?」
「いや……そんな事はないけどさ。可愛い名前だと思って」
一瞬間が開いた。何の間だろうか?
「お、お世辞はいらないわ。それに敬語やめたって事は、あなたも同い年ね」
一条千寿さんはあくまで尊大だった。
「それなら教えなさい。その近道ってのを」
このぶっきらぼうな反応。
彼女は誰に対してもこうなのかな?
俄然興味がわいた。
好奇心は猫をも殺す。
そんなキーワードが頭をよぎったが、彼女の興味をひけるなら一回くらい死んでもいいかなと思った。
「この道。そこを右に曲がると、この地図にはないけど小道に出るんだ」
「小道……」
そう言うと彼女は目を閉じた。
そして開いた。
「分かった」
じゃあね。
そう言わんばかりに、彼女は僕を放ったまま歩き出した。
──ちょっと待ってよ。その道から先の説明が……。
と言いかけたが、言葉にはならなかった。
彼女の歩く勢いに、一切の迷いがなかったからだ。
まるでその先の道を知っているかのような、そんな歩調。
──まさかね。
知ってるはずはない。転校生なら尚更だ。僕が教えた小道は、本当に長くこの土地に住んでいないと、その先の分岐で迷ってしまう。
「ねぇ、ちょっと」
「何? もう大丈夫だからいいわよ」
「いや、大丈夫じゃないって。その道の先、知らないでしょ?」
彼女は面倒そうに立ち止まり、またも仏頂面で振り返った。
「その小道を抜けて、三叉路を右に。その後は道なり。すると交差点に出る」
「──!」
なぜそのルートを知っている!
僕は手に持ったままの地図をもう一度見た。
三叉路やら小道は、いくら地図をのぞき込んでも、省略されていて痕跡すらない。
「どうしてって顔ね」
「そ、そりゃね」
僕は出来るだけ平静を装った。ここで焦ったら計画は台無しだ。
「誰でも驚くの。別に気にしないわ」
そう言うと彼女は再び歩き出した。説明も何もない。僕が装った平静なんて紙切れ同然だった。
「何してるの?」
「はい?」
気付けば彼女が立ち止まっていた。どうやら僕を待ってくれているらしい。
慌てて駆け寄る。
彼女はそれを確認するでもなく、再び歩き出した。
「地図はもう頭に入ってるの」
「へ?」
「さっき教えてもらった小道。それから町並み。遠くに見えるビルや電柱。そこから地図を作ったの」
「地図を、作った?」
「別に信じて欲しいわけじゃないわ。ただ、方角を教えて貰ったし、小道の情報も貰ったし。それで何も教えないというのは、礼儀に反するかなと思っただけ」
「へ、へぇ?」
僕たちは、歩きながら奇妙な会話を続けた。
「実際困ってたのよ。あの場所で方角が分からなくなった。地図はここに」
と言って、一条さんは自分の頭を指差した。
「入ってるけど、どっちに進んだらいいのか分からなくなってたの」
「それで突っ立ってたんだ」
「周りの景色から、たぶんこっちかなと思ったんだけど。私、方向音痴なのよ」
そりゃまた随分豪快な方向音痴だ。地図は完璧なのに、方角が不明になった途端、その意味を失う。
「そこにあなたが声をかけてきた。方角さえ分かれば私は進む道が分かる。訊かなきゃ、と思ったんだけど、先に声をかけられたから……」
つまりテンパっていたと言う事らしい。全然そう見えなかったが。
そんな会話を続けながら、僕たちは三叉路を抜け交差点に出た。
もう学校は目の前だった。
「到着だね」
「そうね」
口調は変わらずぶっきらぼうだが、何となく安堵感が宿っていた。ように感じた。
僕もとりあえず安堵した。
だが問題はここからだ。
「自己紹介がまだだったね」
「……私があなたの名前を知らないだけだけど?」
何か問題ある? 一条さんの目はそう言っていた。
「そうだね、一条さん」
一瞬の間があった。きっとこの『間』で一条さんは確信するはずだ。
「まさか、同じクラス……?」
「そうだと言ったら?」
「しくじったわ」
「は?」
「あなたはもう知っているから言うけど、私のこの変な能力、あまり人に知られたくない」
「ああ……それは何となく分かるよ」
人間GPS。女子生徒顔認識。そんな能力があったって何かを救えるわけじゃない。大抵は気味悪がられるか信じて貰えない。
「分かるはずないわ」
一条さんの目が鋭くなった。
そりゃそうだろう。
自分と同じ境遇な人間なんてそういない。
僕が目の前にいるのは偶然でしかない。
「僕もそうだと言ったら?」
手の内を晒すにはちょっと早いかなと思ったけど、一条さんが僕を信用してくれないと意味がない。
「あなたも……?」
おずおずと、と言う表現がぴったりな口調だった。
「まぁ、地図を脳内に構築するとかじゃないけど、方角と現在位置はその辺のカーナビより自信があるよ」
もう一つの顔認識は伏せておこう。今はまだ。
「GPS、かしらね」
「そうだね。僕を知ってるヤツらは『人間GPS』とか呼ぶよ」
「そっちの方が便利そうね」
「信じてくれるの?」
「あなたが信じてくれたからね」
「そりゃどうも」
一条さんの口元が僅かに歪んだ。笑ったらしい。
「それで? 名前は?」
「ああ……やっとここまで来たね」
僕は満面の笑みをたたえた。
だが一条さんの態度は真逆だった。
「別に? 聞かなくても私は困らない」
──げ。
まさか見透かされたか?
「い、いやほら、そこは不公平だろう? 僕は一条さんの名前を知っているけど、一条さんは僕の名前を知らない」
「不公平の前にある、利害関係がなければね」
──ああ……やっぱり……見透かされてる。
「あなたが私に声をかけてきたのは、遅刻の言い訳の材料を作るため。違う?」
僕は観念した。
彼女の言う通り、僕はある可能性に賭けていた。転校生であるのなら、まず同学年かどうか。そしてクラスが同じである確率は五分の一。分が悪いとは思ったが他に手段が浮かばなかった。
でもそれは理由の半分だ。
「……仰る通りです」
「まぁそれでも、全然知らない人しかいない学校に行くよりはましだわ」
「左様で……」
さてどうしたものか。
一条さんに、あっさりと見抜かれてしまった僕の作戦はここで潰えた。そもそも遅刻は僕自身の問題だし、そんな上手く事が運ぶはずないか。
「で、名前は何て言うの?」
「え?」
思わず訊き返してしまった。
「いいの?」
「いいも悪いもないわ。借りがある以上返さないと」
「借り?」
僕はバカか。
方角を教えたじゃないか。
「あなたは言葉をちゃんと選んだ方がいいみたいね」
ほら。
バカにされた。
「……良く言われる」
「そうだと思う」
「うう……」
どうやら僕が彼女に頭が上がらないと言う構図が、構築されつつあるようだ。
「だから、ほら」
「あ、ああ名前ね──結城徹也。結城君でも徹也君でもどっちでも」
「あんたねー」
一条さんはため息をついた。
──あれ?
何となくだが、雰囲気が変わったような気がした。ちょっとだけだが、気を許したようなそんな雰囲気。これはいい事なのかな?
「じゃあ結城君。改めてよろしく」
「ああ、うん。よろしく」
──さすがに下の名前では呼ばないか。
とりあえず自己紹介は終わった。
作戦は彼女が借りを返すと言う理由から、続行が決まった。
「口裏合わせ、いいかな?」
「はいはい。どうぞどうぞ」
かなり投げ遣りな応じ方だった。
交差点の信号が青に替わった。
僕たちは作戦の内容を詰めつつ、既に門が閉ざされた校舎に向かって歩き出した。
3
僕たちは二年二組の教室の前でしゃがみ込み、聞き耳を立てていた。もちろん登場するタイミングを計るためだ。
「──さて、本来ならここで転校生を紹介するはずだったんだが……まだ学校に来ていない」
二年二組の教室では、担任の香川香先生が、さてどうしたものかと困り果てていた。
転校生と学級委員長が遅刻しては、紹介云々以前の問題だ。
僕は声を潜め、一条さんに作戦開始を告げた。
「……いい? 手はず通りに」
「……あんたが学級委員長なんてどうかしてる」
今はそれに返す言葉はない。信頼関係の構築には時間がかかるのだ。
「……その話は後でね」
一条さんはため息と一緒に何かを諦めたようだ。
「……まぁいいわ」
「じゃ、そういう事で」
僕は立ち上がり、勢い良く教室の引き戸を開けた。
「おはようございます!」
クラスメイト三六名と香川先生の視線、計七四個の視線が僕に注がれた。
ここで怯んではいけない。僕は精神力でそれらをはね除けた。
「結城! お前遅刻だぞ! 委員長が遅刻するなんて言語道断だ!」
僕は芝居がかった仕草で、両の掌を突き出した。
「いえ先生。僕が何の理由もなく遅刻するとお思いですか?」
「違うのか?」
「違います」
僕は胸を張った。
「本日、このクラスに転校生が来ます。その転校生が道に迷い、困っていたんです。もっとも『彼女』が転校生だと言う事は、後から知りましたが」
僕は『彼女』を一際大きく強調した。
ざわざわ。
教室の約半分が落ち着きを失った。
つまり男子生徒が『彼女』と言うキーワードに条件反射した。
これで敵勢力の半分は戦意喪失した。
残るは半分と一人だ。
「僕も大人になったんです。学級委員長ですからね。困っている人がいれば手を差し伸べる。しかもそれが、このクラスに転入して来る生徒だったとなれば当然でしょう?」
「結城、お前何か悪い物でも食べたのか?」
香川先生は僕の演説を聞き、怪訝そうな顔をした。
──よし、ここまでは計画通りだ。
僕の狙いは混乱だ。
正統な理由と、一条さんと言う無敵に近い武装。
これをもって『学級委員長が遅刻した』事実を歪曲させる。
「一条さん、どうぞ」
「はい」
一条さんは、先ほどまでの僕への対応と真逆な口調と立ち居振る舞いで、教室に入ってきた。
しずしずと。おしとやかに。
まさに狙い通りな入場だ。
僕の横を長くしなやかな髪が通り過ぎた。
その瞬間。一条さんがちらりと僕を横目で見た。何だろうか?
──とにかく作戦は継続中だし。
僕は声を張った。
「ではご紹介します。本日からこのクラスの一員になる一条千寿さんです」
おおーと言うどよめきと、わぁーと言う歓声。
よしよし。
後は一条さん次第だ。
「初めまして。一条千寿と言います。この街は初めてなので、ちょっと迷ってしまいました。でも」
一条さんが柔らかい笑みをたたえ、僕を見た。
よし、いいぞ。
と思ったのだが──。
一条さんは声のトーンを落とし、クラスメイトに向き直った。
横目で見る表情からは笑みが消えていた。
「そこにいる学級委員長が、遅刻を確信して私に声をかけてきた。これは何かあるなと思ったら、自分の遅刻の言い訳に私を利用しようとした。これは許されますか?」
──は?
ええー?
そこで裏切りますか一条さん!
「結城……」
香川先生の低い声が響いた。
香川香。二七歳、独身。黙って座っていれば美人さんだが、その実態は大きく異なる。小柄な体格からは想像も出来ない実力を持つ、柔道の有段者だ。さらにはこの学校のOGで、全国大会まで行った事のある伝説の猛者だった。
「後で道場に来い」
それは、ほぼ死刑宣告だった。
4
道場から体を引きずるように出て来た僕を迎えてくれたのは、他ならぬ一条さんだった。
「酷いよ一条さん。あそこで手の平を返すなんてさぁ」
「遅刻は遅刻でしょう? 私は犯罪の片棒を担ぐ気はありません」
「犯罪って、そんな大げさな」
香川先生は、僕が何とか歩ける程度には手加減をしてくれたようだ。
よろよろヨタヨタと頼りなく歩を進める。
そんな僕の横を一条さんは軽快な足取りですたすたと歩く。でも、なぜか僕の横にいる。
──え? 歩調を合わせてくれてる?
「ええと、一条さん?」
「いい? 勘違いしないでね。私はあんたに借りを作りたくない。でも、間違ってる事は間違ってる。それに、その……」
何だろうか。
一条さんが何かを言い淀んだ。
「何?」
「……まぁ、その……」
「どうしたの?」
「……う」
何か短い単語が、風に掻き消された。
「え? 聞こえないよ」
一条さんは立ち止まり、僕を睨み付けた。
「ありがとうって言ったの!」
一条さんはそう言い残し、今度は僕を置いてさっさと歩き出した。
つん! ってな感じだ。
──可愛い!
僕はもう一条さんのファン第一号だ。
取り急ぎ、会話ネタを二、三用意した。
「担任の香川先生なんだけどさ」
「何よもう。用事は済んだでしょ?」
「まぁそう言わずに」
「……柔道、なのかな? 耳が」
──目ざとい!
繰り返すが、香川先生は美人さんだ。
美人さんだが、柔道家や格闘家である以上避けられない、いわゆる『餃子耳』になっている。なので校内でこそ髪を後ろで結んでいるが、一歩外に出れば綺麗な黒髪がその耳を覆い隠す。風の強い日はわざわざヘッドホンで隠す念の入りようだ。
「私の見立てだと、あそこまで形が変わるんだから相当強いんでしょう?」
「うん。学校では伝説の人になってる。女子柔道のオリンピック候補にも選ばれそうになったとか」
「へぇ……でも行かなかったんでしょう?」
「どうしてそう思う?」
「人前、特にメディアには出たがらない。そんな性格……いや、コンプレックスかな。そう見えた」
──うへぇ。
僕は舌を巻いた。
この事は、以前に香川先生から聞いていたので知っていたが、一条さんはそれを初見で見抜いた。
一条さんの特殊能力(?)は人間マッパーなだけじゃないのか。
「今、私に変なあだ名付けようとしたでしょう?」
上目遣いに睨まれた。
一条さんの若干つり上がり気味のつぶらな瞳で睨まれた僕は、その場で活動を停止した。ギク、てなもんだ。蛇に睨まれた蛙ってのは、きっとこんな心境なんだろうな。
「……まぁいいわ。ただし、その名前で絶対に呼ばないでよね」
「何て呼ぼうとしたのか訊かないの?」
「あんたは私にケンカ売っているの?」
「いえいえ、滅相もない」
一条さんは僕が力一杯首を振るのを見て、一応矛を収めてくれたようだ。
そうこうしているうちに、校門に着いてしまった。
まだ理科の先生の話題と校長先生の秘密が残っているが、また今度の機会にしよう。
「じゃ、一条さん。またね」
僕は手を振り、家路に就こうとした。
が。
袖を掴まれた。
一瞬、鼓動が跳ね上がった。
「へ? 何?」
「方角」
「ほうがく?」
僕はオウム返しに訊き返した。
「……き、北はどっち?」
──ああ、そうだった。
いくら地図は完璧でも、北やら南やらの基準がなければ、それは用を成さない。
今一条さんの頭の中では、学校の周辺地図がぐるぐると回転しているに違いない。
僕は一度校舎を見た。
校舎は、北校舎、東校舎、西校舎と別れ、コの字型を描いている。つまり南側に校門がある。僕に言わせれば、一〇度ほど東にズレている。建築時の事情か土地所有者の都合か分からないけど、気にするのは僕くらいなので、それを誰かに言った事はない。
「北はあっちだね」
僕は北校舎に体を向け、きっちり一〇度、東に修正した方角を指差した。
「……ちょっとズレてるの?」
「それに気がついてくれたのは一条さんが初めてだよ」
僕はよよよと泣き崩れた。
「分かった。じゃ、また明日」
一条さんはそう言い残し家路に就いた。
足取りは、しっかりしていた。
──また明日ね……。
まぁいいや。
僕は幾分気分良く、一条さんの後を追いかけた。
途中までは同じ方角だからだ。
だが。
「もうちょっと離れて歩いてよ」
と素っ気なく言われ、落ち込みつつも一条さんの後を追う僕だった。