第一〇話 ホワイトマップ
1
一応作戦を立てた。
元・誘拐犯の男から聞いた名前の主に悟られずに、学校に行くにはどうするか。
「だから何であんたの家に行くのよ」
「さっきも言ったでしょ? 一条さんの家に行くとバレるんだって」
「でも……お祖父さま、きっと心配してる……」
急にしおらしくなる一条さん。でももう欺されない。慣れとは怖いものだ。
「大丈夫だよ。理事長も薄々勘づいていると思うし」
一応フォローを入れる。でもきっと一条さんも同じ意見なはずだ。
廃ビルから歩いて一時間。約五キロ。案外狭い範囲での得がたい体験だった。二度としたくはないけど。
「ただいまーって、おわああっ!」
玄関開けたら投げ飛ばされた。肩車だった。
僕は反射的に受け身を取った。が、モルタルの床ではあまり効果はない。
「痛ってーっ! いきなり息子を投げないでよ!」
「受け身はちゃんと取れるようね」
そこには仁王立ちの母。目が底光りしていた。
「香川先生から叩き込まれてるからねってここ畳じゃないし!」
「そんな事より」
母は、ぴしゃりと言い切った。
「無断で一晩、どこ行ってたっ! このバカ息子っ!」
説教より先に手が出る。一条さんもびっくりな母だった。
2
「事情は分かった。で、どうするの?」
僕は父を見た。
父は新聞で顔を隠し聞こえないふりをしていた。
父と母は同じ会社で同じ部署だが、その力関係は家庭でも同じらしい。
「徹也?」
「ん? 学校に行くよ。『いつも通り』にね」
「あの子も?」
「そりゃもちろん」
母は僕の肩に腕を回し、小声でこう言った。
「それで? どこまで行った?」
この母にして、香川先生のような後輩が生まれるその理由が、何となく理解出来た気がした。
「どうもこうもないよ。彼女は理事長のお孫さん。僕は平凡な高校生」
僕は素っ気なく言ったつもりだった。
「してそのココロは?」
どうしても聞きたいらしい。
「黙秘します」
「それは肯定と受け止められるが、いいのかな?」
「も、黙秘しま」
す、と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。
目の前にまだ髪の乾ききっていない一条さんが、男物のジャージを着て現れたからだ。
「どどどど、どしたのそれ?」
「え? ああ、これはお母様にお借りした」
「そ、それ僕のだけど」
「え? だって他に着るのないし。ちょっと貸してて」
さっきまで着ていた、埃だらけの学校の制服は、緊急事態なので洗濯機に放り込まれた。丸洗いOKの生地なのが幸いした。
この何とも言えない状況。どうにも居心地が悪い。
服が乾いて母がアイロンをかける終えるまで、ただ待つのみな僕だった。
3
「さて、おさらいしよう」
「要らない」
一条さんは、僕の作戦説明をばっさりと切って捨てた。
「あんたの考えなんかお見通し。さ、行くわよ」
と言って、さっさと玄関に向かった。
あれ?
「一条さん、何で玄関の方向分かったの?」
方向音痴で、自分の家でさえ不便を不便を強いられているはずの彼女がなぜ?
「? あれ?」
一条さんはくるりと玄関を見渡し、きょとんとした表情を見せた。
「何でだろ? 私にも分かんない」
「……世の中には不思議な事があるんだね……」
「……なんか、酷く傷ついたんですけど……」
「ほれ、遅刻するわよ!」
母が、僕と一条さんの背中を叩いた。
「行ってきますは?」
僕と一条さんは顔を見合わせ、照れながら声を揃えた。
「行ってきます!」
4
「はよー」
いつも通りの教室、いつも通りの挨拶。
クラスメイトは昨晩の事件の事は知らない。なので僕たちは、普段通りに行動する必要がある。
「おう。おはよう結城」
「おう。近藤、今日も元気か?」
「俺はいつも元気だ。何なら賭けてもいい」
「止めとく」
「何だよ、ツレナイな」
「それどころじゃないからね。学級委員長は忙しいんだ」
「はは、悪知恵のネタでも拾ってきたか?」
「まぁ、そんなトコだね」
「ん?」
しまった、近藤相手にしゃべりすぎたか?
「お前……」
「な、何だよ」
「何で顔が腫れてんだ?」
「は?」
「だから顔がさ。右の頬が腫れてる」
触ってみた。激痛が走った。
「痛たたた……」
今頃になって、昨晩食らった一条さんのコンボが効いてきた。
「お前、大丈夫か?」
バカ話はここまでだった。
『二年二組の一条千寿さん、一条千寿さん。至急理事長室までおいで下さい』
瀬川さんの声だ。
校内放送で、一条さん『だけ』が呼び出された。
つまり、二人で来いと言う事か。
──ちぇ。
悟られずに学校に行き、先手を打つつもりだったが、残念、相手が一枚上手なようだ。
作戦と呼べるようなものではなかったが、イニシアティブを取るかどうかは、交渉事の有利不利を左右する。その場においては臨機応変な僕はともかく、一条さんは先手必勝タイプだ。フォローに回る必要があるかな?
僕は一条さんを見た。
一条さんは僕をちらっと見て席を立った。
わずかに頷いたように見えた。
──仕方ない。行きますか。
僕は一条さんの後を追って教室を出た。
教室からは近藤が「お前、呼ばれてないだろうが!」と叫んでいたが、当然無視した。
5
理事長室の前。
僕は深呼吸して、思考を戦闘モードに切り替えた。
それで戦闘力が倍になるとかそういうものではないが、心構えの問題だ。
今回の一連の騒動で、被害を被った人とそうでない人。得をした人、損をした人。怪我をした人としなかった人。
これから、それぞれが巻き込まれた元凶に立ち向かう。
ふいに。
手に温かい何かが触れた。
一条さんの手だった。
僕はそれを握り返した。
──行くよ。
──ええ。
僕たちは理事長室の扉を開けた。
そこには理事長はいない。ここまでは予想通り。
瀬川さんが朗らかな笑みで出迎えてくれたのも予想通りだ。
「いらっしゃい。待ってたわ」
「さすがですね」
僕は言った。
「隙がない」
僕と一条さんはいつも通りソファに深々と腰掛けた。もう沈まなかった。
「何か飲む?」
「いえ。それより理由を訊きたいです」
「何の?」
瀬川さんは、何の事? と言いたげな表情をした。
そう簡単には崩せないか。こっちは素人だ。相手が相手なだけに、言葉を慎重に選ばないと核心の端っこにすら辿り着けないだろう。
「昨日は大変でしたね」
僕は、不自然に話題を切り替えた。
「そうね。まさかスタンガンを用意しているとは思わなかった。ちょっとした護身術なら心得があるから、撃退とまでは行かないまでも時間稼ぎにはなるかなと思ったんだけどね」
「あの後、どうされたんです?」
普通なら警察に通報するか、理事長に報告するか。あるいはその両方か。
「警察に連絡しようとは思ったんだけどね。目的が不明。下手に動くとあなたたちの身が危険にさらされると思って」
「通報しなかった?」
僕は瀬川さんの言葉を遮り、次のセリフを考えた。
「そうね」
「理事長には?」
「会議が終わった後に」
──ふうん。
「大変だったのよー? 携帯は通じないし、手がかりもなし。さすがの私も打つ手がない。理事長はすぐにでも警察に通報すべきだって仰ってたけど」
普通ならそうだろう。特に理事長は、海外にいるご両親から一条さんの身を預かる立場だ。身の安全が担保されない限り、瀬川さんの言葉に従うだろう。その正体を知っていたとしてもだ。いや、尚更従わざるをえない。まさしく命運を握っているからだ。
「大変心配されていたわ。でも良かった。無事にこうして『ここ』にいるんだもの」
瀬川さんは、心底安心したように朗らかに微笑んだ。
「でも理事長は『ここ』にいない」
「?」
「それほど心配していたはずなのに、校内放送で『僕たち』を呼び出したにもかかわらず、理事長はその姿を見せない。なぜですか?」
「それは──」
「瀬川さん」
僕は一呼吸置いた。
「嘘、ですね?」
僕のその一言で、部屋の空気、雰囲気、五感から入力される情報が一変した。
「理事長には知らせていない。理事長は昨晩は会議で遅かった。一条さんは『信頼』されている僕の家に泊まった。僕の母は香川先生の先輩だ。それに僕は理事長と一緒に食事もした。それなりに信頼されていると思っています。昨日の暴動騒ぎの後ですからね。一人で自宅に置くより、誰かと一緒の方がいい。それに一条さんはまだこの学校に来て日が浅い。選択肢は少ないんです」
「理事長がそんなにあなたの事を信頼しているとは知らなかったわ」
「僕は学級委員長ですよ?」
僕は滲み出る汗を必死に抑えつつ、瀬川さんと対峙する。
「クラスメイトの安全なり安心を担保する義務があります」
「そんな事、生徒手帳には載ってないわよ?」
まだ瀬川さんには笑みが浮かんだままだ。まだ崩せない。
僕は昨晩の事を脳裏に浮かべた。
「スタンガン」
「え?」
「昨晩、僕はスタンガンを食らって気絶しかけました。あんなのはもうコリゴリですけどね」
僕は無意識に首の後に手を当てた。
「もう指一本動かすのがやっとで、口なんでロクに動かない」
「まったくよ。あんたのせいで私は降参しなきゃならくなった」
一条さんが口を挟む。いいタイミングだ。
「だってスタンガンだよ? 一度食らってみなよ、大変な事になるよ」
「私はそんなヘマはしません」
つん、と一条さんはそっぽを向いた。
そんな一条さんを軽くスルーしつつ、僕は言葉を続けた。
「もう言葉すら出ない。身動きも出来ない。それくらいの衝撃だったわけです」
「……そう。大変だったのね」
「そうです。大変だったんです」
僕は、ここで切り札を一枚切った。
「でも瀬川さんは違った」
「え?」
「あの時、瀬川さんは僕たちに向かって叫びました。『逃げなさい』って」
「だって、それは」
「スタンガンを食らった後に、あんな大声が出るとは思えない。それに、攫う対象は一条さんだ。瀬川さんは攫う側から見れば、僕と同じ邪魔者でしかなかった。スタンガンの出力を絞ったなんていう言い訳なら無駄です。逆に出力を上げるか、完全に拘束しないと不自然です」
一瞬だが、間が開いた。
「なぜ、そう思うの?」
「目撃者は少ない方がいい。あの人たちはプロです。余計な事はしない。逃走に必要な時間も稼がないといけない。当然の帰着です」
ここまでは一条さんと話し合った結果だ。
問題は、この先に僕が食らいつけるかどうかにかかっている。
「結城君は私を疑っているのね?」
「そうです」
僕は即答してみせた。ここで躊躇したら飲まれる。
「昨晩の車で家まで送ると言ってからの行動全てが仕込みであったなら、色んな事の説明が一気に片付きます」
「それはどんな事?」
まだ瀬川さんは笑顔を保っている。まだか。まだ届かないのか。
「まず『尾けられてる』。これは嘘です。僕たちを攫った人たちは、車を一台しか持っていなかった」
「それは憶測じゃなくて?」
僕は瀬川さんの問いかけを無視した。
「次に、目の前に彼らの車が現れ、瀬川さんは急停車しました。眼前に車のヘッドライトが照らされて、薄暗い路地で急停車。これは演出だったんでしょう? 夜間ですから、どれだけのスピードが出ていたかは分かり難い。なので『わざと』乱暴な運転をして、あたかもスピードを出しているように僕たちの感覚を狂わせた。実際はそんなにスピードは出ていなかったでしょう」
僕は二台の自動車が照らした範囲の映像を思い起こす。そこにタイヤ痕はあったが、然程長くはない。
「なんなら現場検証しましょうか? 僕と一条さんなら、その場所の特定なんてたやすい」
理論的に論破出来ないなら物的証拠を突き付ける。これが切り札の二枚目。
瀬川さんの顔から笑みが消えた。
「私がそんな手の込んだ事をする理由は?」
「それを僕の口から言わせるんですか?」
さぁ勝負だ。
「僕たちを攫った人たちは犯罪者だ。でも犯罪者には犯罪者のルールがあるそうですね」
瀬川さんは口を閉じた。
「契約を守り、信頼関係だけで成り立つシンプルな世界だそうですが、唯一タブーがある」
瀬川さんはもう何も言わない。
「──裏切り。これは、裏の世界ではやってはいけない事だそうです」
瀬川さんは僕から視線を逸らした。それは僕の仮説が正しかった事が証明された瞬間だった。
「なぜ裏切ったんですか?」
「……私はあなたたちを甘く見過ぎてた、そう言う事かしら?」
僕は答えない。
「まさかここに戻って来るなんて思ってもみなかった。『犯行声明』が学校に届けば、後は事態が動くだけ。千寿さんが戻って来ても来なくても、この学校にとってはスキャンダルになる。そうすれば、責任を問われるのは担任と理事長。準備に半年もかけて、何度もシミュレーションした。でも、そうはならなかった」
瀬川さんは笑みを浮かべ話を続けた。僕にはそれは自虐的な笑みに見えた。
「爆弾は時間稼ぎですか」
「ノーコメント」
「僕たちはあのまま窒息死する可能性があった。それもシミュレーションに入ってましたか?」
「ノーコメント」
言葉は同じだが、瀬川さんの目には焦りの色が見え隠れしている。
「僕が攫われたのは誤算だった。少なくとも僕の能力を信じていなかった。そうですよね?」
人間GPS。僕はそこら辺のカーナビより、位置情報を詳細に把握できる。
それに一条さんの地図能力。一目景色を見れば、周辺地図を詳細に脳内に構築出来る。
人から聞かされても、まさかそんなと思うのは、それが人間だからだ。
そんな僕たちが手を組めば、暗闇の迷宮なんて無意味だ。
それを想定出来なかった。
それが瀬川さんの限界だったんだ。
僕は瀬川さんを見つめる。そして待った。その『言葉』を。
「私は『攫い屋』と契約して千寿さん襲わせた」
「そうですね」
「計画は完璧だった」
「そうですね。報知器も、不審者騒動も、トラックの暴走も、全て完璧に動いていた」
「責めないのね」
「僕は探偵じゃありませんし。責めて元に戻るなら責めますけど」
「そう」
瀬川さんの受け答えは冷静だ。受け入れるつもりなのか、そうではないのか。
僕は図りかねた。
「……不審者として田中先生を仕立て上げ、学校周辺に危険な雰囲気を植え付け、トラックの暴走でその芽を摘み、また蒔いた。目を逸らしたと思ったんだけどなぁ」
「橘先生をわざと現場に送りましたね。大方、香川先生が呼んでいるとか、そんな理由でしょうか」
「鋭い切り口ね。橘先生はそう。香川先生の事を持ち出せばすぐに乗って来る。香川先生が気付いてないだけ。それにしても、良く香川先生まで行き着いたわね」
「キーワードは、柔道、二年二組。橘先生以外に三つの事件に登場するキーワードです。そしてそれらは香川先生が共通項になってる」
瀬川さんは再び口をつぐんだ。
「その香川先生を『堕とそう』としたのはなぜですか?」
わずかな時間、沈黙が部屋を支配した。
「……それを言えば、結城君、あなたは冷静ではいられなくなる」
「無駄ですよ。こっちには一条さんがいる」
僕は一条さんの手を握った。一条さんも握り返してきた。
──潜っている?
一条さんの手が小刻みに震えている。何を視ているのか。それは僕にはまだ分からない。
「……お姉さん」
一条さんが苦しそうに言葉を紡いだ。
「亡くなったのね。その理由は香川先生にある」
瀬川さんから笑みが消えた。
「止めて」
「かつて、オリンピックの強化選手に選ばれたのは香川先生。でも辞退した。替わりに、瀬川さんのお姉さんが繰り上げて選ばれた……これは憎悪?」
この瞬間、僕たちと瀬川さんとの間にあった、壁のようなモノが崩れるのを感じた。
「……そう、憎悪。私の姉は殺されたの。香川先生に」
一条さんの手に力が入った。熱が伝わる。鼓動が伝わる。
──そうか。
僕は突然理解した。いや、正確には『思い出した』。
「……五年前。新聞記事にあった。オリンピック強化選手の自殺記事。まさかあれが瀬川さんのお姉さん?」
僕は目を閉じた。記憶が蘇る。記録を遡る。
「……瀬川絵美。五〇キロ級の選手として強化選手に選ばれた。でも練習中の事故で大怪我を追い、半身不随になった。それに絶望した彼女は自らの死を選んだ……」
「香川が選ばれていれば、姉はそうならずに済んだ。だから私は決めたの。香川にも同じ苦しみを、苦痛を与えてやると」
「それが『堕とし屋』になった理由ですか?」
「そう。姉は表の世界の人間。姉は私の誇りであり、自慢の姉だった。私は何かに秀でているものもなく、どこにでもいる普通の女の子だった。だから憧れた。愛していたの。笑っちゃうわよね。家族なのに。手を伸ばせば届くのに」
言葉が重い。これを覆すには僕だけじゃ足りない。
「でもそれが突然目の前から消えた。私の拠り所となるべき場所が消え失せた。そうなったら遺された方はどうなると思う?」
「……『堕ちる』と思います」
僕は言葉を選ばざるを得ない。慎重に。そして大胆に。
「そう。私は『堕ちた』の。死を覚悟したのは一度や二度じゃない。でも、私が死んでも何も変わらない。私は誰にも影響力を持たない。それなら」
──復讐か。
「自分の人生をかけて復讐を誓った。だからそのためにあらゆる犠牲を厭わない。だから私は『堕とし屋』になった」
──堕とし屋か。
僕は以前理事長が言っていた言葉を思い出した。
そうだ。人間が人間を疎んじる。それは誰かが誰かを嫌い、その場から消えて欲しいと願った時に生じる
そして。
裏の世界では、依頼があれば、その人物を消し去る仕事があると言う。『堕とし屋』と呼ばれている。恨みや嫉みをもった人間は、対象者をどうにかして『堕とそう』とする。そんな時に現れるそうだ
そしてこうも言っていた。
これは憶測だ。だから今日聞いた事は、酒でも飲んで忘れて欲しい。
そうか。そう言う事だったのか。
「瀬川さん。理事長は分かっていたんだ。貴女が『堕とし屋』だって事を」
「何をバカな事を。私がどれだけ慎重に行動してきたか分かって? この学園に入り込むためにあらゆるものを犠牲にした。全ては復讐のために」
「いや、瀬川さん。理事長は貴女を心配していたんです。今やっと分かりました」
「心配ですって?」
瀬川さんは嘲るような笑みを浮かべた。
「あの人は私を利用していただけ。学園の運営、いえ、千寿さんの行く末を案じていただけ。だから私はあなたたちを巻き込めた。生死を問わなかった。香川さえ『堕とせれれば』いい。だから後悔もしない。罪悪感も感じない」
瀬川さんは、自らを嘲るように嗤った。
「なぜなら、私は『堕ちた』人間だからよ」
部屋の気温が下がったように感じたのは僕だけだろうか?
瀬川さんのその言葉は、自らをがんじがらめに封じ、もはや闇の底から浮上出来ないように聞こえた。まるでそう、呪詛だ。
でも。
「違う……」
瀬川さんの『呪詛』には違和感がある。
きっとこれが突破口になる。
僕はある決意をもって言葉を絞り出した。
「違うよ、瀬川さん。理事長はそんな目で貴女を見ていない」
「いいえ! あの人は私なんか見ていない。千寿さんだけを見ていた。案じていた」
僕は決意を形にした。
「いえ、瀬川さん。理事長はこう言ってた。『人間が人間を疎んじる。それは誰かが誰かを嫌い、その場から消えて欲しいと願った時に生じる』。そして、その時に『堕とし屋』が姿を現す。それなら瀬川さん。理事長は瀬川さんを疎んじていましたか? むしろ逆なんじゃないですか? それに理事長が言った言葉。その場には瀬川さんはいなかった。なら、その場で名前を出しても良かったはずです。でも理事長は名前を出さなかった。なぜです?」
「それは……」
「理事長は気づいて欲しかったんだと思います。貴女が自分でこの闇を抜け出せるよう手を貸したかった。だから側に置き、一条さんを任せた。さぁ堕として見せろってね。これはきっとそういうメッセージなんだと思います」
「……メッセージ」
瀬川さんは、その言葉を小さく繰り返し呟いた。
「……で、でもあの人はそんな素振りを……」
「見せるはずないでしょ?」
今度は一条さんの番だった。
「お祖父さまはそんな器の小さな人間じゃない。そんな事も分からないの?」
「……知ったような事を」
瀬川さんの声が一段低くなった。
「あなたに何が分かるって言うの? 姉は、苦しんで苦しみ抜いて、そこから逃れる道を探した。その結果、この世界から去った。自分にはもう何もないと悟ったからよ。それに比べてあなたは何でも持っている。優しいお祖父さんもいる。心配してくれるクラスメイトもいる。不器用でも親身な先生もいる。そして想ってくれる存在もいる。これ以上何を望むの? 私を警察にでも差し出す? それとも、あなたたちの命を危険に晒した私の死を望むの?」
「いいえ」
一条さんは頭を振り、決然とした面持ちで言い返した。
「私は何も望まない。ううん。望むのなら、本当の『瀬川さん』を返して欲しい」
「本当の、私……?」
「そう。いくら振り返っても過去には戻れない。それなら出来る事は一つしかない」
「……私に償えと……?」
「いいえ」
一条さんは『瀬川さん』を否定した。
そして。
「断ち切って欲しい」
束の間の沈黙。
「そのための手間は惜しまない。準備もした。『手際良く』ね」
そう言い放つ一条さんの手には、携帯電話が握られていた。
──は? 一条さん、いつの間に?
予想外だった。
「──そういう事だ」
バンッ。
理事長室の扉が、勢い良く開け放たれ、理事長が颯爽と現れた。
手には携帯電話。
『理事長室』に入ってからずっと、通話中だったに違いない。
──ちぇ。僕まで出し抜かなくてもいいのに。
顔に出たのだろう。一条さんが得意満面な表情を浮かべて僕を見た。ちょっと悔しい。
「瀬川。ここに来てからの会話は全て聞かせてもらった。千寿に謝罪しろとは言わないが、あえて言おう。お前は過去に縛られて生きてきた。だがこれからは違う」
理事長が言う。
「理事長……」
「お前が今までやってきた事は、確かに法を犯し、人を傷つけ貶めてきた。だがな、救われた人間もわずかながらいるのだよ」
「そんな……でも……」
瀬川さんは戸惑い、迷っている。
迷っているなら僕の出番だ。最後くらい格好付けさせてもらおう。
「瀬川さん」
「……」
瀬川さんはうつろな目で僕を見た。
「貴女の犯した罪は消えない。そもそも歩いている方向が違う。そうですよね? 理事長?」
「ああ、そうだ」
理事長は鷹揚に頷いた。
「それなら僕が、いえ皆で正しい『方角』をお教えしますよ」
6
「えええ? 何だと!」
理事長室では、香川先生が大騒ぎしていた。
面白い事になってるなぁ。
「だから私は、貴女を気にしてたんですよ、赴任してからずっと」
橘先生は顔を真っ赤にして、香川先生と向き合っていた。
「な、ななな何を言ってるんですか? 事ある毎に私の意見に反対するわ、一々授業のやり方に口を出すわ、どう考えたって嫌ってるでしょう?」
「いやいやいや。嫌ってるなんてとんでもない。気にしてたんですって。それに、間違ってる事は間違ってる。それなら意見を出し合わないと」
「いやだから、それが面倒なんですって」
「そうは言ってもね、やり方一つで楽になるんですよ?」
「いやその、私もそんなの慣れてなくて、何て言ったらいいのか……」
この二人、どうなるんだろう。
僕は橘先生と香川先生を理事長室に呼びつけただけだ。そしたら、いきなり告白合戦が始まったのだ。
街中で橘先生を見かけたのは、香川先生を案じての行動だったらしい。
瀬川さんに利用された事は、二人には伝えない方が良さそうだ。
体育会系と理系。水と油。上手く混ざるといいなぁ。
「面白いなぁ」
「あんた、面白がってる場合?」
一条さんが僕の脇腹に軽く肘を入れた。
「え?」
「廃ビルの中での事、忘れたわけじゃないでしょうね?」
上目遣いに睨まれた。
はて?
何かしたっけ?
「……胸触った……」
「な! ああああ、あれは不可抗力でしょう? あんな真っ暗闇でどこをどう触ればいいかなんで分からないし」
「でも触った」
「いやいやいやいや。だから、あれは……」
「まだある」
「え?」
──まだ? ある? 何が?
「……接吻したでしょ!」
「はい?」
そう言いつつ、僕はあの時の事を思い浮かべた。
確か方角を教えようと一条さんに手探りで近付いて……それから……。
「あそこで、ぶつかった時……。は、初めてだったの……」
頬を朱に染め俯く一条さん。
──ええええええええーーーーーっ!
「という事だから」
一条さんは、つん、と横を向き、そして僕に向き直った。まだ頬が赤いままだった。
「ちょっと耳貸して」
貸しても何も。
一条さんは僕の耳を鷲掴みにして引き寄せて、大きく息を吸った。
「責任、きっちり取ってもらいますからね。私の『ボディガード』さん?」
運命やら宿命やら色々あるが、僕はこの世の不条理を嘆いた。
「何か文句あんの?」
「いえっ! 何も言ってませんっ!」
「うむ。分かればよろしい。徹也」
そう言った一条さんの笑顔は、まさに満面の笑顔だった。
そして僕は、かつて理事長が言った台詞を思い出した。
千寿はやると言ったら必ずやる。結城君、気をつけた方がいい。下手な事言うと足元を掬われる。
時既に遅しか。
まぁいいや。一条さんのファン第一号な僕だし。たぶん最初で最後のファンだろうな。
瀬川さんも、香川先生も、橘先生も、僕と一条さんも、色々な問題にぶつかりそうだ。
あ、そう言えば。
「一条さん」
「何よ」
「あの携帯、どっから拾ってきたの?」
「うん? ああ、あれは、あんたのお母様から借りたのよ」
「は?」
「役に立つから持ってけって。あんたのお母様を香川先生が怖がる理由が、何となく分かった気がするわ」
何てこった。
これでしばらくの間、一条さんばかりか母親にまで頭が上がらない。
──女性に弱い家系なのかも知れないなぁ。
僕は父親の立場と自分を重ねながらため息をついた。
「あ、それから」
「まだ何かあるの?」
もう泣きそうだった。
「徹也、これからは私の事を下の名前で呼ぶように」
「ほえ?」
「……これ以上私に言わせる気?」
見れば、一条さんの顔は真っ赤だった。
ああ。
何と言う完璧な計画。
僕は天を仰いだ。
──まぁいいか。
今はまだ真っ白なんだ。
一つずつゆっくりと埋めていこう。
真っ白い紙に地図を描くように。